マルコの福音書

聖書の説教
マルコ15:16-32「強いられた恵み」(宣愛師)新着!!

・・・・・・激しい鞭打ちによって肌が破け、内臓や骨が透けて見えてしまっているような背中を、ザラザラとした十字架の木に押し付けられる。手首と足首を通る太い神経のど真ん中に釘を打たれて激痛が走る。自分の体重によって肺が圧迫されているため、呼吸をするためには身体を持ち上げなければならないが、そのたびにむき出しの背中は十字架の表面と擦れ合い、釘を差された手や足には気を失うような痛みが繰り返される……そのように残酷な十字架刑にもかかわらず、福音書にはただ、「彼らはイエスを十字架につけた」としか書かれていません。十字架がどれほど痛く、どれほど苦しいものだったのかということを、聖書はほとんど語ろうとしないのです・・・・・・

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マルコ15:1-15「バラバか、イエスか」(宣愛師)

・・・・・・もしもバラバが単なる人殺しや強盗だったなら、群衆がバラバを釈放してほしいと願うはずはありません。この群衆たちにとって、バラバはある種のヒーローでした。ローマ帝国の支配に対して勇敢にも立ち向かったヒーロー。ここにもまた、怒りという感情に支配される人間の現実が描かれています。やられっぱなしの男よりも、暴動を起こした男のほうが、人気者になるのです・・・・・・

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マルコ14:66-72「そして彼は泣き崩れた」(宣愛師)

・・・・・・「ここで物語られるペトロの過ちは、私たちの弱さを映し出す鏡である。」私たちもまず、一度目の罪を犯します。その時はまだ、イエス様を完全に否定するような罪ではないことが多い。嘘をつくとしても、大した嘘はつきません。お金に関する罪も、性的なことに関する罪も、最初は小さなことかもしれません。ペテロが一度目にイエス様を否定した時、「すると鶏が鳴いた」とあります。これは、「これ以上罪を犯してはならない」という、神様からの警告だったのかもしれません。しかし、そこで踏みとどまることができないのが、私たち罪人の現実です・・・・・・

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マルコ14:53-65「しかし、イエスは黙ったまま」(宣愛師)

・・・・・・なぜ、そこまでしてイエス様を殺したいのでしょうか。彼らはなぜ、殺したいほどにイエス様を憎んでいたのでしょうか。ある人たちは、「イエスという人物は、人々に良い生き方を教えた教師だった」と考えます。たしかに、イエス様は教師でした。良い生き方とは何か、幸せな人生とは何か、そのことを人々に教えた教師。しかし、それだけだとすれば、なぜイエス様はここまで憎まれなければならなかったのか。イエス様は、間違いなくそれ以上の存在だった。そのことに気づいた「祭司長たち、長老たち、律法学者たち」は、このイエスという人物を殺さずにはいられなくなったのです・・・・・・

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マルコ14:43-52「聖書が成就するため」(宣愛師)

・・・・・・いろいろ調べていくうちに、悲しい現実に気づいてしまいました。人間不信は連鎖していく、という現実です。人間不信になってしまった人は、自分の周りの人たちにも人間不信を広げてしまう傾向がある。常に周りの人を疑っているから、自分の本音を言えない。家族や親しい友人に対してさえ、自分の本当の気持ちを正直に伝えることができない。すると何が起こるか。人間不信で苦しんでいるあなたのことを、周りの人も信じられなくなるんです。悪循環です。このようなことが世界中で起こり続けている。誰かがこの連鎖を止めなければなりません。しかし、私たち人間が解決するには、あまりにも重すぎる問題かもしれません。一体だれが私たちを救えるのか・・・・・・

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マルコ14:32-42「わたしの望むことではなく」(宣愛師)

・・・・・・「みんなが神様を忘れちゃう時って、どんな時?」すると、秋田から来ていた一人の男の子が、面白い答えをしてくれました。「ん~、楽しい時かなあ?」なかなか本質的な答えだと思いました。楽しい時に、私たちは神様を忘れてしまう。神様抜きで生きていけるかのような錯覚をしてしまう。でも、苦しくなると、辛い状況に陥ると、神様を思い出す。普段の祈りはテキトーなのに、お腹が痛くなった時にトイレの中で祈る祈りは誰よりも熱心。……イエス様の祈りは、“苦しい時の神頼み”ではなかった。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」・・・・・・

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マルコ14:22-31「神の国で新しく」(宣愛師)

・・・・・・私はこれまで何人かの方に、“洗礼を受けない理由”を尋ねたことがあります。なぜ洗礼を受けないのか。ある人は、「まだまだ聖書の勉強が足りないからです」と答えてくれました。「家族に反対されているからです」と答えてくれた人もいました。理由は人それぞれです。こんなふうに答えてくれた人もいました。「もし洗礼を受けても、いつかイエス様を裏切ってしまうかもしれないから。」真面目な人でした。「洗礼を受けて、聖餐も受けさせていただくようになっても、もしイエス様を裏切ってしまったら、信仰を捨ててしまうようなことがあったら、それが一番申し訳ない。それが一番やってはいけないことだと思う。だから、私はまだ洗礼は受けられないんです。」・・・・・・

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マルコ14:10-21「十二人の一人」(宣愛師)

・・・・・・ユダは本当に悪者だったのだろうか。実はそんなに悪い奴じゃなかったのではないか。いや、むしろユダこそが、イエス様のお考えを理解していたのではないか。そうやってユダを救ってあげたい気持ちはよく分かるんです。「実は裏切り者ではなかった」と再解釈してあげることによって、ユダを救ってあげたい。でも、そうやってユダの罪を無かったことにしてあげることが、本当にユダを救うことになるのだろうか、とも思うんです。「実は裏切り者ではなかった」「実はそんなに悪い奴じゃなかった」。そういう主張の裏には、「本当に裏切り者だったら、そんな奴は赦されるはずがない」という前提があるのだと思います・・・・・・

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マルコ14:1-9「この人の記念として」(宣愛師)

・・・・・・トモヱ学園の前身となった学校は、手塚岸衛(きしえ)という教育者が創設した「自由ヶ丘学園」です。この学校も、名前の通り自由教育の理念によって創設されました。今でも東京の目黒区に「自由が丘」という地名がありますが、これは「自由ヶ丘学園」に合わせて付けられた地名だそうです。太平洋戦争の頃、「自由」という言葉は大日本帝国の思想に相応しくないとして、地名を変更するよう圧力をかけられたそうです。「自由」なんていう考え方は、お国の戦争のためには不必要だ、と。しかし、自由が丘の住民たちはこの地名を守り通した。自由ヶ丘の人々、トモヱ学園の人々は、市民の自由を奪う圧力や、子どもの自由を奪う教育に対して立ち向かったのです・・・・・・

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マルコ13:32-37「目を覚ましていなさい」(宣愛師)

・・・・・・祈りは信仰生活の基本です。しかし、祈ることができない、祈る気力が沸かない、そういうこともあるでしょう。……「生活の思い煩いで押しつぶされて」いる。あれやこれやが心配になって、プレッシャーになって、身動きが取れない。祈ることもできず、聖書を開くこともできず、布団に倒れ込む。かと言って、不安でよく眠ることもできず、結局朝まで時間を浪費してしまう。祈っていないから調子が悪いのか、調子が悪いから祈っていないのか。たぶん両方なのでしょう。でも、そんな時にも、誰かが私のために祈っている・・・・・・

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