マルコ11:12-19「実を結ばなかった都」(宣愛師)

2023年11月26日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』11章12-19節


12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。



実を結ばなかった都

 まずは、12節から14節までをお読みします。


12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

 「過越の祭り」(14:1)という春の祭りが近づく季節でしたが、いちじくの実がなるのは、春ではなく夏です。もちろんイエス様も、「いちじくのなる季節ではなかった」ということくらいはお分かりになっていたでしょう。ただし、いちじくの木というのは、夏になる前でも、青くてあまり美味しくない実なら生っていることがあるのだそうです。美味しくないけど、一応食べることはできるくらいの青い実が、もしかしたら見つかるかもしれない。しかも、「葉の茂ったいちじくの木」ですから、他のいちじくの木よりも、実をつけている可能性が高い。お腹を空かせたイエス様は、青くて未熟な実でもいいから、せめてなにか一つくらい実がないだろうかと、見に行ったわけです。

 ところが、何も見つからない。葉っぱしか見つからない。立派そうな葉をたくさん茂らせて、遠くから見れば、いかにも何かしらの実をつけていそうな雰囲気だったのに、近くまで来てみると、何一つ見つかりやしない。これがイエス様をがっかりさせました。

 このいちじくの木は、まるで私たち人間のようだなあと思います。それっぽい雰囲気を醸し出すんです。葉っぱをたくさんつけて、他の木よりも優れているような見た目を作るんです。でも、近くまで来られてしまえば、葉っぱの中をガサガサと手探りされてしまえば、イエス様に食べていただけるようなものなんて何一つ持っていないということがバレてしまう。見栄っ張りなんです。見た目だけ立派な雰囲気を作っているんです。立派に生きていますよという雰囲気を出しているけれど、実際にはイエス様をがっかりさせるような生き方しかできていない。

 「実際には」とか、「実(じつ)は」という日本語がありますけれど、これはまさに「実(み)」という漢字を書きますよね。立派な葉っぱはついているけれど、「実(じつ)は」何もない。偉そうにしているけれど、「実(じつ)のところ」中身なんて空っぽ。こういう私たちの態度がイエス様を怒らせるんです。イエス様が近くまで来れば、すぐにバレてしまうことです。そんな偽りの自分で誤魔化すくらいなら、最初から葉っぱなんて生やしていないで、ありのままの自分の姿をお見せしたほうがマシでしょう。

 私たち人間が抱える「見栄っ張り」という罪。この罪が見事なまでに具現化されていたのが、このあとの場面に出てくるエルサレム神殿でした。15節から17節をお読みします。


15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 どうしてイエス様はこんなことをしたのでしょうか。私たちはつい、「両替人や、鳩を売る者たち」という悪い奴らが、悪どい商売をして金儲けをしていたのだろう。こいつらが余計なお金のやり取りで儲けたり、普通の値段よりも高い値段で鳩を売ったりして、買い物をする人たちを困らせていたから、イエス様はそれに対して怒ったのだろう、と思ってしまいます。たしかにそれも間違いではありません。しかし、イエス様が怒った理由は、それだけではなかったんです。

 「両替」というのも、「鳩」というのも、神殿で礼拝を献げるためには必要不可欠なものでした。「両替」というのは、外国のお金をユダヤ人のお金に変えることです。外国のお金は神殿では使えないからです。「鳩」というのも、神殿で献げるための動物です。ここで売っている傷のない鳩でないと献げられないという決まりがあったからです。ですから、「両替人や、鳩を売る者たち」というのは、もちろん悪どい商売をしていた悪い奴らという面もあるんですが、それよりはむしろ、エルサレム神殿で礼拝をするためには必要不可欠な存在だったんです。

 イエス様は、礼拝のために必要な役割を果たしていた「両替人や、鳩を売る者たち」に対して怒っていたわけではないんです。イエス様の怒りは、このエルサレム神殿という存在全体に対する怒りだったんです。15節には「売り買いしている者たちを追い出し始め」とありますが、これをギリシャ語から直訳すれば、「売る者たちと買う者たちを追い出し始め」となります。イエス様は、「売る者たち」だけではなく、「買う者たち」も追い出したんです。

 イエス様は、ただ単に悪どい商売を止めさせようとしたのではありません。イエス様は、このエルサレム神殿という存在全体に怒っておられたんです。だから18節には、「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と書かれています。イエス様の行動に対して怒り狂ったのは、両替人たちや鳩売りたちではなく、「祭司長たちや律法学者たち」という神殿の支配者たちでした。イエス様の批判が、エルサレム神殿全体に対する批判だったからこそ、エルサレム神殿の支配者たちはイエス様を殺そうと計画し始めたんです。


「強盗の巣」:正義の代用としての礼拝

 では、なぜイエス様はエルサレム神殿という存在全体に怒っておられたのか。17節のイエス様の言葉にヒントがあります。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」ここでポイントとなる二つの言葉は、「祈りの家」と「強盗の巣」です。まずは「強盗の巣」に注目してみましょう。少し長くなりますが、エレミヤ書の7章1節から11節をお読みします。


7:1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。
2「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。
3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。
 あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
4 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。
5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。
8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。

9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。
11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。

 「寄留者、孤児、やもめ」を虐げるだけでなく、盗み、殺し、姦淫し、神ではない神々を拝む。そんな悪行をしているにも拘わらず、神殿に戻って来れば、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言い、「私たちは救われている」と言い、平気な顔で礼拝を献げる。こういう生き方に対して、イエス様は怒ったんです。まるであのいちじくの木のように、見た目は立派そうな、いかにも「たくさん実がついていますよ。ちゃんとしていますよ」みたいな雰囲気なのに、本当は何一つとして実を結んでいない。それどころか、貧しい人々を虐げて、神様の名を汚している。このようなエルサレム神殿の在り方について、ある聖書学者は次のような表現をしています。


神は正義の神なので、礼拝が正義の代用となってしまうならば、神はその礼拝の拠点である神殿を拒絶します。同様のことは、今日の教会にもあてはまります。

J. D. クロッサン、M. J. ボーグ共著『イエス最後の一週間:マルコ福音書による受難物語』浅野淳博訳、教文館、2008年、90頁

 「礼拝が正義の代用となってしまう」というのは、正義を行う代わりに礼拝をするだけで満足してしまう、という意味です。私たちはどうでしょうか。盛岡みなみ教会はどうでしょうか。今日の午後には大掃除をして、来週にはクリスマスの飾り付けをします。この礼拝堂をピカピカにして、華やかな飾りを付けて、「まさにこれこそ教会だ!」という雰囲気になるでしょう。それはもちろん素晴らしいことです。私もクリスマスは大好きですし、この素敵な礼拝堂で礼拝をお捧げできることは、私たちが神様に感謝してもし尽くせないほどの恵みだと思っています。

 しかし、この素晴らしい礼拝堂が、クリスマスの飾りの一つ一つが、見せかけだけの葉っぱになってしまうことがないように、私たちはいつも気をつけていたいと思うんです。私たちはもちろん、「人殺し」なんてしないでしょう。しかし、世界では今日も人が殺され続けているという事実に無頓着になってしまうこともあるかもしれません。「盗み」なんてしないでしょう。でも、貧しい人々に分け与えるべき自分の富を分け与えようとしない自己中心があるでしょう。「姦淫」なんてしないかもしれません。しかし私たちは、自分の夫や妻を悲しませたり、夫や妻には限らず、大切にすべき人々に寂しい思いをさせたりしながら、自分の都合やわがままを押し通そうとしてしまうことがあると思います。

 どんなに立派な神殿で礼拝を捧げたとしても、そこに愛がないなら、そこに正義がないなら、私たちを待っているのは神の呪いです。イエス様の怒りです。私たち盛岡みなみ教会が、これからもイエス様の教会として歩み続ける、そのために必要なことは、ただ毎週の日曜日に礼拝を献げるということだけではなく、愛のわざを行なっているか。貧しい人々のために仕えているか。私たちの礼拝が、「正義の代用」となっていないかどうかを、いつも確認し続ける必要があります。


「祈りの家」:公正と正義の神殿

 「強盗の巣」に対応するもう一つのキーワードは「祈りの家」です。イザヤ書56章の1節と2節、飛んで7節と8節をお読みします。


56:1 主はこう言われる。
「公正を守り、正義を行え。
わたしの救いが来るのは近いからだ。
わたしの義が現れるのも。」

2 幸いなことよ。
安息日を守って、これを汚さず、
どんな悪事からもその手を守る人は。 
このように行う人、
このことを堅く保つ人の子は。

……7 わたしの聖なる山に来させて、
わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。 
彼らの全焼のささげ物やいけにえは、
わたしの祭壇の上で受け入れられる。 
なぜならわたしの家は、
あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。

8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、
神である主のことば── 
すでに集められた者たちに、
わたしはさらに集めて加える。」

 クリスマスが近づいています。この素晴らしい季節、一人でも多くの人々がこの教会に集まってくださることを私たちは願っています。一人でも多くの人々に、イエス様の福音を聞いてほしいと願っています。クリスマスのチラシも完成しました。印刷されたものが昨日届きました。ポスティングも始めたいと思います。このチラシを見た人たちが、この礼拝堂に集まって来てくれることを、私たちは楽しみにしています。「すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」このみことばが、私たちの教会でも実現することを心から願っています。

 では、イザヤ書56章8節のこの言葉が実現するために、私たちは何をすればよいのでしょうか。その答えは、この章の冒頭に書かれた、シンプルな命令です。「公正を守り、正義を行え。」私たちが公正と正義を行うなら、この礼拝堂は「強盗の巣」ではなく「祈りの家」となり、「すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える」と言われた神様の、賑やかな神殿となるんです。

 この数ヶ月間、私たち夫妻が、特に役員のMさんと一緒に祈りに覚えている家族がいます。その家族を支えるために、私たちも何度も車を走らせたり、時には夜遅くまで話を聞いたりすることもあります。私たちにとってその家族はかけがえのない存在ですから、その家族のためにお手伝いができることは喜びです。これからも一緒に生きていきたいと願っている、愛する家族です。

 ところが先日、Mさんがその家族のお母さんとお話しした時に、こんなことを言われてしまったそうです。「毎日毎日、宣愛先生やまなか先生に電話などで時間をとってもらったりして、私たちの家族のせいで迷惑をかけてしまっている。もう、先生たちと距離を置いた方がいいと思っているんです。」その言葉に対してMさんは、「そんなことはないんですよ。」と答えてくださったそうです。「困っている人や苦しむ人を支援するのは、教会として、牧師としての使命だから、距離をとらないでください。もしそうされたら、宣愛先生やまなか先生もとても悲しむと思います」と、私たちの気持ちを代弁してくださいました。

 「公正を守り、正義を行え」と言われると、漫画の主人公のように華やかに登場して、格好良く事件を解決していく、もしくはウルトラマンのように巨大な力で悪者をやっつけていく、そんなイメージを持つかもしれません。しかし、聖書が語る「公正」と「正義」というのは、もっと身近なものです。もっと普通のことです。困っている隣人がいれば、手を差し伸べるということです。どんな人をも差別せず、互いに愛し合うということです。これが「公正」と「正義」を行うということです。そしてこれこそが、私たちが実らせたいと願っている、いちじくの「実」なんです。

 時には、実を結べていない自分の姿を隠したくなることがあるかもしれません。自分が行うべき正義をおろそかにしているのに、見かけ倒しの葉っぱをたくさん生やして、あたかもクリスチャンっぽく生きていますよという雰囲気で誤魔化したくなるようなことがあるかもしれません。でも、見栄を張って偉そうにするくらいなら、できないことは「できません」と、できていないことは「できていません、ごめんなさい」と、神様に対して正直な私たちでありたいと思います。何も実を結んでいないのだとすれば、そのことを正直に認め、悔い改める私たちでありたいと思います。失敗したり、空回りしても、それも正直に打ち明けて、赦しを求める私たちでありたい。

 そして、もし私たちにできることがあるのなら、その役割を忠実に果たさせていただきたいと思います。たとえ、青くて未熟な果実だとしても、お腹を空かせたイエス様に喜んでいただけるように、できることをさせていただく盛岡みなみ教会でありたい。イエス様は、私たちに期待しておられます。私たちが、小さな正義を行うようにと、そして小さな隣人たちとともに歩んでいくようにと、期待してくださっています。その期待に応える私たちとさせていただきましょう。そのようにしてこの盛岡みなみ教会が、ただ単に綺麗で華やかな場所ではなく、立派な人もそうでない人も、豊かな人も貧しい人も、「あらゆる民」が喜んで集まり、ともに神様を礼拝する「祈りの家」となっていくことを、切に祈り求めましょう。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちの教会は、あらゆる人々を支えるために存在する「祈りの家」となっているでしょうか。それとも、私たちが正義を怠っていることを誤魔化すための「強盗の巣」となっているでしょうか。どうか神様、たった一つの果実でも、あなたの御前にお献げすることができるように、私たちに公正と正義の道を教えてください。私たちが助けるべき人々の存在に気づかせてください。そして私たちが、見栄を張って疲れてしまうことなく、ありのままの私たちとして用いていただけるように、絶えず謙遜さと悔い改めを教えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。