マルコの福音書

聖書の説教
コロサイ1:24「なぜ教会はあなたを必要とするか」(宣愛師)

・・・・・・「教会に行かなくたって、少なくとも自分の信仰生活は問題ないのではないか」と悩んでいるこの青年に対して、皆さんだったら何と答えるでしょうか。一つの正解があるわけではないと思いますし、場合によっては答え方を変えなければならないことや、そもそも答えること自体しないほうがいいこともあるでしょう。それを踏まえた上で、私なりの答えを皆さんにお話しできればと思っています・・・・・・

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聖書の説教
マルコ11:1-11「子ろばに乗った王」(宣愛師)

・・・・・・エルサレムという町は、世界史において最も頻繁に戦争の舞台となった町なんです。エルサレムという町を巡って、世界中の人々が争い、馬や戦車を走らせた。そのエルサレムに、イエス様がやって来られました。世界で最も重要であり、そして最も危険な都に近づいて来られた。世界一危険な町で、イエス様は何をなさろうとしていたのか・・・・・・

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聖書の説教
マルコ10:46-52「あの人を呼んで来なさい」(宣愛師)

・・・・・・小さな子どもたちだけではありません。知的障害を持つ方々の中にも時々、礼拝中に叫び出したりする方がいます。ほかの皆が静かに座っている中で、「アーメン!アーメン!」と叫んでしまう。「イエス様!ハレルヤ!」と叫んでしまう。私たちは、そういう人たちが礼拝に来たらちょっと困るなあ、と思うかもしれません。もしくは、どうやって静かにしてもらおうか、ということばかり考えるかもしれません。でも、イエス様はそうではない・・・・・・

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聖書の説教
マルコ10:35-45「仕えられるためではなく」(宣愛師)

・・・・・・私とまなか先生は、今は「牧師」ではなく「伝道師」という立場で働いていますが、「牧師」と「伝道師」の最も重要な違いは何かと言えば、それは、“伝道師には洗礼式と聖餐式を執り行うことができない”ということです。……どうして伝道師には、この二つの儀式を行うことが許されていないのでしょうか。その理由については、いくつかの観点から説明できるとは思いますが、今日のみことばをもとに考えることも良いだろうと思います・・・・・・

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聖書の説教
マルコ10:32-34「先立つイエス」(宣愛師)

・・・・・・先週は、東北宣教区のフェローシップ聖会のために仙台に行った後、高速バスに乗って新潟に帰省しました。実家に着くと、母が「この本読んだ?岩手県の話だよ」と言って、一冊の本を渡してくれました。『草の根の叫び:町のヤスクニ闘争の記録』という本で、渡部敬直(わたなべひろなお)という牧師の闘いを記録したものです……ご存じの方も多いかもしれませんが、靖国神社というのは、ただの神社ではありません・・・・・・

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聖書の説教
マルコ10:28-31「百倍の家族」(宣愛師)

・・・・・・今のところ、まだ子どもが与えられているわけではありません。子どもが与えられたら幸せだろうなと思います。でも、もちろん、子どもを望んでも与えられない、ということもあるかもしれません。……しかし、たとえ私たち夫婦の間に子どもが与えられなかったとしても、もうすでに「百倍」の子どもたちが与えられている、なんてことを言ったら、みなさんは驚かれるでしょうか。冗談を言っているわけではありません・・・・・・

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聖書の説教
マルコ10:17-27「あなたに欠けていること」(宣愛師)

・・・・・・この青年に「欠けていること」とは何でしょうか。私たちはこのみことばを読むと、「この青年に欠けていたこととは、財産のすべてを売り払っていなかったことだ」と思うかもしれません。たくさんの財産を持っていること、そしてそれを売り払わないことが、この青年に「欠けていること」なのだ、と思うかもしれません。だから、すべてを売り払うことが必要だったのだ、と。たしかにそれも重要なことです。しかし、そこがポイントではないんです・・・・・・

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聖書の説教
マルコ10:1-12「創造のはじめから」(宣愛師)

・・・・・・私たちクリスチャンは、「聖書は神様のみことばだ」と信じていますから、聖書に書かれている戒めや教えに従おうとします。「これが神様の御心だ」と信じて、聖書に書かれていることをそのまま実行しようとします。しかし、実は聖書の中には、そのまま従うだけでは不十分な、“妥協した戒め”というのもあるわけです。人間たちがあまりにも自分勝手なので、せめてこれ以上状況が悪くならないようにと、神様が仕方なく命じた命令というものがあるわけです・・・・・・

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聖書の説教
マルコ9:42-50「小さい者を守る地獄」(宣愛師)

・・・・・・もちろん私は、“地獄”の存在そのものを否定しているわけではありませんし、「すべての人が天国に行ける」という楽観的なことも考えていません。“地獄”は存在しますし、聖書にもそのように書いてあります。今日の聖書箇所でも、イエス様ははっきりと“地獄のさばき”についてお語りになっています。しかし大切なのは、“聖書は何のために地獄を語っているのか?”ということです。“イエス様は何のために地獄をお語りになったのか?”ということです。このことを理解するなら、キリスト教が教えていることは、「統一教会と同じ」ではなくなるはずです・・・・・・

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聖書の説教
マルコ9:38-41「水を飲ませてくれる人」(宣愛師)

・・・・・・私たちはもしかすると、この世界には「イエス様を信じる人」と「イエス様を信じない人」の二種類しかいないと思いがちかもしれません。そして、「信じる人たちは私たちの仲間だけど、信じない人たちは仲間ではない」と言って"線"を引いてしまったり、さらには、「信じる人は天国行きだけれども、信じない人たちは地獄行き」などと、簡単に決めつけてしまうかもしれません。しかし、本当はこの世界には、「信じる」でも「信じない」でもない、もっと曖昧な人々がいるわけです・・・・・・

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