マルコ1:21-28「黙れ。この人から出て行け」

2022年6月12日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章21-28節


21 それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。
22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
24「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
25 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
26 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27 人々はみな驚いて、互いに論じ合った。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」
28 こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。



「それから、一行は」

 先週の礼拝では、マルコの福音書の1章16節から20節をお読みしました。四人の漁師たちが、イエス様の弟子になった、イエス様について行った、そういう場面でした。ですので今日の聖書箇所は、「それから、イエスは」ではなく、「それから、一行は」と始まります。


21 それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。

 イエス様は基本的に、弟子たちと一緒に行動されました。弟子たちを連れ回ることによって、ご自分の働きを引き継ぐ弟子たちを育てようとされたのです。ご自分がこの地上からいなくなった後にも、ご自分の働きがストップしないように、〈神の国をこの地に広げる〉という働きがストップしないように、ご自分の働きを引き継いでいく弟子たちを育てようとされたのです。

 もちろん、このときはまだ弟子たちは何もしていません。ただイエス様がなさることを見ているだけです。でも、そうやって、イエス様といつも一緒にいて、イエス様がなさることを見たり、イエス様が話すことを聞いたりしながら、イエス様の働きを引き継ぐ準備をしていた。

 私たちも同じです。私たちが今ここでしているように、聖書の説教を聞くということは、イエス様の働きを引き継いでいくための準備です。もちろん、説教だけではありません。自分の家で聖書を開いて読み、イエス様は何をしていたのだろうか、イエス様は何を話しておられたのだろうかと、イエス様の姿を見つめ続ける。こうして私たちも、イエス様の働きを引き継いでいくのです。

 「カペナウム」というのは、ヘブライ語で「慰めの町」という意味です。人口は数百人だったと考えられているので、今の私たちの感覚だと、「町」というよりは「村」でしょう。カペナウムは、ガリラヤ湖という湖の、すぐ北側にある村で、イエス様の働きの拠点になっていた場所でした。

 イエス様と弟子たちは、そのカペナウムの「会堂」に入っていきました。「会堂」というのは、ユダヤ教の教会のようなもので、「シナゴーグ」とも言います。ちなみに、カペナウムのシナゴーグは発掘されているので、遺跡を見ることができます。

 このシナゴーグの建物自体は紀元4世紀のものなので、イエス様の時代よりも300年くらい後のものなんですが、土台は紀元1世紀にまで遡る、つまりイエス様の時代に遡ると言われています。この場所で、イエス様が教えておられた。弟子たちもそこにいて、イエス様の教えを聞いていた。


「権威ある者」 の 「教え


22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

 「律法学者」というのは、「モーセはこう言っていた」とか、「あの偉大な先生はこう仰った」というように、他の人々の権威に基づいて、聖書を教えていた人々でした。しかしイエス様は、他の誰かの権威によってではなく、ご自分の権威によって教えられた。「権威ある者」という言葉をギリシャ語から直訳すると、「権威を持っている者」です。他の人から借りた権威ではなく、ご自分が持っている権威によって教えられた。

 私たちはよく、「キリスト教」という言葉を使います。「キリスト教を信じています」とか、「キリスト教の教会に通っています」というように、「キリスト教」という言葉を使います。しかし、私たちは、どのような意味で「キリスト教」という言葉を使っているのでしょうか。「キリストについての教え」という意味でしょうか。「キリスト教会で教えられている教え」という意味でしょうか。たしかに、どちらも間違ってはいないでしょう。

 ただ、そもそも「キリスト教」というのは、〈キリストについての教え〉とか、〈教会の教え〉である前に、〈キリストご自身が教えられた教え〉であるはずです。〈イエス・キリストの権威に基づいた教え〉であるはずです。

 ですから、教会の説教者たちがどれだけ偉そうに説教を語ったとしても、どんなに「キリスト教っぽい雰囲気」を醸し出していたとしても、それが〈キリストご自身の教え〉に基づいていないのだとしたら、本当の意味では「キリスト教」ではない。

 だからこそ、私を含む説教者一人ひとりは、「キリスト教っぽい教え」とか、「教会っぽい教え」ではなく、キリストご自身の教えを語るために、祈りつつ聖書を読み、研究し、説教を準備しなければならないのです。そして、説教を聴くみなさんもまた、説教を神の言葉として素直に受け入れるだけでなく、その説教が本当にキリストご自身の教えに基づいているのかどうか、その説教が本当に聖書に基づいているのかどうか、吟味しながら聴くのです。

 ちなみに、聖書の中で使われている「教え」という言葉は、「オススメのレストランを見つけたから教えてあげる」とか、「良い話を聞いたから教えてあげる」というような、単なる〈情報提供〉のことではありません。「教え」というのはむしろ、〈どのように生きるべきか教え導く〉ということです。イエス様は、私たちがどのように生きるべきか、どのように人生を歩むべきか、そういう根本的な問題について、力強い権威を持って、教え導いてくださるのです。


「汚れた霊」の悪あがき


23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
24「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」

 イエス様が会堂で教え、人々がイエス様の教えに驚いて目を丸くしていたとき、「ナザレの人イエスよ」という叫び声が響きました。礼拝中に子どもたちが叫んでいるのならかわいいですが、大人が急に大声で叫び始めたら、なんだ、どうした、と心配になります。

 「汚れた霊」は、聖書の中では「悪霊」とも呼ばれています。悪霊というのは、最初から悪霊だったわけではありません。彼らは元々は天使でした。天使というのは、人間たちに仕えるために、神様によって造られた存在です。しかし、人間に仕えることを嫌がった天使たちは、神様の命令に逆らって、人間たちを支配するようになりました。それが、悪霊、汚れた霊です。

 ですから、元々は天使だった悪霊は、イエス様が何者なのか、よく知っていました。「私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」これは、悪霊による悪あがきでした。盗みに入っているところを警察に見つかって、今にも捕まりそうな泥棒が、「いやあ、刑事さん、さすがの腕前ですね」などと言って、あわよくば赦してもらえないか、あわよくば見逃してもらえないかと、見苦しい抵抗をするようなものかもしれません。

 しかし、イエス様には、そんな悪あがきは通用しないのです。


25 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
26 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27 人々はみな驚いて、互いに論じ合った。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」
28 こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。

 「黙れ。この人から出て行け」。これが、「権威ある者」の言葉です。悪霊は最後の抵抗をして、「その人を引きつけさせ、大声をあげ」ました。しかし、イエス様の権威の前ではどうすることもできず、出て行くしかなかった。


「黙れ。この人から出て行け」

 「悪霊」なんて言われても、胡散臭い、そんなのは昔の人々の迷信だ、と思うかもしれません。「今の科学的な時代には関係のない話」と思ってしまうかもしれません。もしくは、「悪霊に憑かれている人々っていうのは、精神病患者のようなものだろう」と決めつけて、「自分とは関係ない話だ」とか、「自分はまともな人間だ」などと思ってしまうかもしれません。

 しかし、今の時代でも、悪霊に憑かれているとしか考えられないような体の動きをしたり、普段のその人なら絶対にしないような言葉遣いを突然始めるような人々がいることは、確認されています。もちろんそれを、「精神病」という言葉で一括りにすることもできますが、単なる病気とは違ったもの、病気よりももっと根源的な、目に見えない何かが人間を支配することがある、という可能性は、今の時代においても否定できないと、私は思います。

 また、悪霊というのは、いつも分かりやすい形で活動するわけじゃありません。むしろ、悪霊につかれているとは分からないような形で、私たち人間の心をじわじわと支配することもある。どうしても誰かのことが赦せなかったり、誰かを嫉妬してしまう気持ちがとめられなかったり、どうしようもない不安で生きることが辛くなったり、そういう自分では気づかないような形で、私たちの心を支配することもある。

 また、本当は自分では言いたくないようなことを言ってしまって、大切な人を傷付けてしまう。まるで、自分ではない誰かに自分の言葉が乗っ取られているような、そんなこともあるかもしれません。もちろんそれは、私たち自身の罪ですし、私たち自身に責任がないわけではありませんけれども、しかし、悪霊に心を支配されてしまった結果とも考えられます。

 そんな風に、知らないうちに悪霊に支配されてしまうような私たちのために、イエス様が来てくださいました。「黙れ。この人から出て行け」と、権威ある御言葉を語ってくださいました。この方の御言葉によって、この方の「教え」によって、私たちは悪霊から解放されていきます。赦せない心や、嫉妬してしまう心や、不安になってしまう心が、キリストご自身の教えによって、キリストご自身による「キリスト教」によって、だんだんと解放されていきます。私たちを支配する汚れた霊から、また、私たち自身の内側から出てくる罪から、だんだんと解き放たれていく。

 このあと、みなさんとご一緒に歌う讃美歌は、「主よ 命のことばを」という曲です。1番の歌詞をお読みします。


主よ 命のことばを
与えたまえ われらに
ガリラヤにて民らに
語り伝えたように

『教会福音讃美歌』179番

 「命のことば」と聞くと、私たちはなんとなく、「優しくて温かいイエス様のありがたいお言葉」のようなものを思い浮かべるかもしれません。どちらかというと、「貧しい者は幸いです」とか、「安心して行きなさい」とか、そういう優しい言葉、温かい言葉を想像するかもしれません。しかし、「黙れ。この人から出て行け」という激しい御言葉も、私たちにとっては「命のことば」なのだ、ということを、心に留めておきたいと思います。イエス様は、「黙れ」という御言葉によって、私たちを悪霊たちの力から解放し、命あふれる生き生きとした人生を歩ませてくださるのです。

 キリスト教は、単に心が安らぐだけの「ありがたい教え」ではありません。「黙れ。この人から出て行け」。このような厳しく力強い言葉によって、イエス様は私たちを悪の力から解放し、正しい道へと導いてくださるのです。私たちは単なる「立派な先生」について行くのではありません。「権威ある者」「神の聖者」の後ろを、驚きつつ、喜びつつ、ついて行くのです。お祈りをします。


祈り

 天の父なる神様。イエス様の「教え」は、悪霊を追い出すことさえできる、権威ある教えです。イエス様の「教え」は、「キリスト教」は、私たちを悪霊たちの支配から解き放ち、正しい道へと教え導いてくださる、力強い教えです。どうか神様、私たちが悪しき思いに囚われてしまうとき、「黙れ。この人から出て行け」という御言葉を与えてください。主よ、われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。