マルコ4:35-41「どうして怖がるのですか」

2023年1月1日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』4章35-41節


35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」



「無事」 と 「平安」

 2023年が始まりました。日本では多くの人が神社やお寺に“初詣”をしていることと思います。ところで、インターネットで「初詣」と検索してみますと、「一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願する」という説明が出てきます。私たちも今日は“新年礼拝”ということで、初詣をしているわけです。「イエス様、2022年は本当にありがとうございました。今年もよろしくお願いします」と、イエス様に一年の感謝をお伝えし、新年のご挨拶をする。それが私たちの初詣です。

 ただ、ここで一つ気になることがあります。初詣とは「新年の無事と平安を祈る」ことと言いますが、「無事と平安を祈る」とは、そもそもどういうことなのでしょうか。

 「無事」という言葉を辞書で調べてみると、最初に出てくるのは、「とりたてて変わったことがないこと」とか、「普段と変わりないこと」という意味です。もちろん、「悪いことが起こらないこと」という意味も出てきますが、やはり基本的な意味としては、「何事も無い」「何事も起こらない」というのが「無事」という言葉の意味だそうです。

 また、「平安」という言葉も辞書で調べてみると、こちらもやはり、「無事で穏やかであること」と出てきます。「平安」の説明として「無事」という言葉が使われている。ということは、「無事」も「平安」も、どちらも基本的には「何も起こらず穏やかであること」という意味になるようです。

 つまり、多くの日本人が“初詣”の中で祈っている「新年の無事と平安」というのは、「今年一年とりたてて変わったことがなく穏やかで過ごせますように」という祈りだということになります。「何事も起こりませんように。今年も変わらず平穏に過ごせますように」と。もちろんもっと別のことを祈る人もいるわけですけれど、基本的には皆が、「何事もないこと」を祈り求めている。

 私たちクリスチャンも、「無事」という言葉をよく使うと思います。「〇〇礼拝が無事に行われますように」とか、「子どもたちが無事に成長しますように」など、「無事」を祈ることがよくあります。しかし、果たして私たちの祈りは、「無事」を祈る祈りでいいのでしょうか?

 また、教会でもよく「平安」という言葉を使います。礼拝式の最後に祈る祝祷でも、「主があなたに平安を与えられますように」と祈っています。ただ、果たして私たちの「平安」とは、「無事」ということと同じなのでしょうか? 言い方を変えてみましょう。「無事」でなければ「平安」でもなくなるのでしょうか?


ガリラヤ湖の 「有事

 マルコの4章35節から37節までを改めてお読みします。


35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。

 どう考えても「無事」ではありません。ガリラヤ湖で嵐が起こり、舟が沈みかけている。舟がどれほど沖合まで進んでいたかは分かりませんが、ガリラヤ湖の大きさは円周53キロメートル、深さは40メートルですから、泳いで生き延びることはできません。沈んでしまえば一巻の終わり。

 しかし、そんな状況にもかかわらず、安らかに眠っている人がいました。38節から41節。


38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

 明らかに「無事」ではない状況の中で、イエス様は眠っておられた。弟子たちが慌てふためく中で、イエス様だけは「平安」だった。ここに、「無事」と「平安」の違いがあるのだと思います。私たちがイエス様と一緒にいても、「無事」とは限らない。むしろ、いろいろな「事件」が起こる。「有事」が起こる。しかし、そのような中にあっても、「平安」であることはできる。それが信仰なのだと、イエス様は教えてくださった。

 “無事”を祈ること自体は悪いことではありません。事件や事故が何も起こらなければ、それはそれで素晴らしいことでしょう。しかし、私たちクリスチャンが本当に祈るべきことは、“無事”ではなく“平安”です。たとえ“無事”ではなかったとしても、たとえ嵐に襲われたとしても、神様がいてくださるから、平安。たとえ沈みかけていようとも、足元が水で冷たくなり始めようとも、イエス様がそこで眠っておられるから、平安。

 40節の「どうして怖がるのですか」という御言葉は、「どうして臆病なのですか」とも訳せます。私たちは臆病なので、“無事”でなければ気が済まない。臆病なので、“無事”ばかりを祈ってしまう。だから、“無事”ではなくなった途端に、文句を言い始める。「イエス様、無事に過ごせますようにって祈ったじゃないですか! 何事もありませんようにって祈ったじゃないですか!」

 でも、そうやって文句を言ってしまう私たちは、もしかしたら祈り方がそもそも間違っているのかもしれません。私たちが祈るべき祈りは、「何事もありませんように」ではなく、「何が起きようと、イエス様がともにいてください」という祈りです。「嵐が起きませんように」ではなく、「嵐の中でも、ともにいてください」という祈りです。「事故や病気に遭いませんように」ではなく、「事故や病気に遭ったとしても、ともにいてください」という祈りです。これが、2023年を始めようとする私たちの、初詣の祈りであるはずです。


小さな舟

 キリスト教の伝統では昔から、教会を舟にたとえてきました。盛岡みなみ教会も小さな舟です。嵐の中を進む舟です。人数はなかなか増えず、経済的にも厳しい。もしかすれば、舟底にはすでにいくつも穴が空いていて、水が入り始めているかもしれません。この舟は、あとどのくらい持つのだろうか。もう少しで沈んでしまうのではないだろうか。なぜイエス様は眠っているのだろうか。ドーン!とお金を増やしてくれたり、人を増やしたりしてくれれば安心なのに、どうして何もしてくれないのだろうか。「先生、私たちがこのまま沈んでしまっても、かまわないのですか。」

 でも、そうやって不安になる私たちに、「どうして怖がるのですか」とイエス様は語りかける。「まだ信仰がないのですか。」イエス様は、いざとなれば嵐を静めることができるお方です。いざとなれば、お金や人をドーン!と増やすこともできるお方です。でも、今はそれをなさらないで、眠っておられる。なぜイエス様は、すぐに助けてくださらないのか。

 それは、私たちの信仰を強めるためです。私たちの信仰がもっと強くなるためです。私たちが、「無事」と「平安」の違いを見分けられるようになるためです。「無事」ではなくでも「平安」だという、普通の人間の常識では考えられないような信仰を、私たちが持てるようになるためです。

 2023年も、「無事」では済まないことがたくさん起こるかもしれません。嵐が吹き荒れるかもしれません。教会だけではありません。私たちそれぞれの人生でも、困難な状況が待ち構えているかもしれない。新しい問題に直面することもあれば、今抱えている問題がさらに悪化するということもあるかもしれません。

 でも、それでも私たちは「平安」であり続けることができます。どんなに苦しい一年間が待っていたとしても、その中に希望を見出すことができます。なぜなら、私たちの舟には、イエス様が乗っておられるからです。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」その答えを、私たちは確かに知っているからです。お祈りをします。


祈り

 神様、2023年が始まりました。「できれば嵐には遭いたくないな」「できれば何事も起こらない一年がいいな」と思うような心がどこかにあります。でも、「どんなことが起ころうと、あなたが一緒にいてくださるなら大丈夫だ」という気持ちもあります。この一年間、「無事」ではない時にこそ、信仰を確認することができますように。これから始まる一年を、恐れずに、生き生きと進んでいくことができますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。