創世記22:1-5, 9-12「人が神にならないために」(宣愛師)

2024年1月21日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『創世記』22章1-5節, 9-12節


1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。

……9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」



人を神とする罪

 本日は松阪キリスト教会に礼拝奉仕に伺うということで、盛岡みなみ教会を留守にしてしまっているので、録画の説教となってしまうことをお許しいただければ幸いです。Yちゃんがこの間、「のあ先生とまなか先生に会えないのか~」と残念そうに言ってくれました。私たち夫妻も、もちろん松阪の方々にお会いできるのは嬉しいのですが、たった一週間だとしても、盛岡の皆さんに会えないことがやはり寂しいです。でも、離れた場所にあったとしても、こうして皆さんと一緒に同じ聖書のみことばを開き、同じ神様の声を聞くことができるので、幸いな時代だとも思います。

 本日のみことばを聞いて、みなさんはどのような感想を持たれたでしょうか。「愛する子どもをささげ物として献げろだなんて、いくら神様でもそれはひどすぎるんじゃないか」とか、「こんな残酷な命令をされて、アブラハムやイサクがあまりにかわいそうじゃないか」というふうに、神様のご命令に納得がいかないような、そんな感想を持った方が多いのではないでしょうか。神様はなぜ、アブラハムにこんな命令を下されたのでしょうか。改めて、1節と2節をお読みします。


1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 アブラハムにとって、息子イサクはとてつもなく大切な存在でした。アブラハムにはもともと、子どもがいませんでした。アブラハムはたくさんの財産を持っていましたが、子どもだけは持っていなかったんです。少なくとも当時の世界では子どもがいないということは、自分の人生を受け継いでくれる人がいないということです。財産だけでなく、自分の血筋とか、自分の名誉とか、自分という存在がこの世界にいた証しを、受け継いで守ってくれる人がいないということです。

 そんなアブラハムのために神様が与えてくださったのが、イサクという「ひとり子」でした。アブラハムもアブラハムの妻サラも、とっくにおじいちゃんおばあちゃんになっていて、子どもなんて生まれるはずがなかったのに、神様がイサクを生まれさせてくださったんです。アブラハムにとって、イサクという息子は、この世界の何よりも大切な宝物でした。まさに、神様がおっしゃったとおり、「あなたが愛しているひとり子」でした。

 このイサクが立派に育つかどうか。イサクが自分の跡を継いでくれるかどうか。アブラハムの人生は、イサクという一人の人間にかかっていました。もっと踏み込んで言えば、イサクはアブラハムの人生の全てでした。「この子さえ立派に育ってくれれば、私は幸せだ。この子さえ立派に育ってくれれば、私の人生は大成功だ。この子さえ、この子さえ立派に育ってくれれば……。」

 しかし、イサクの立場になって考えてみてください。「お父さんの幸せは、僕にかかっている。お父さんの人生が成功するかどうかは、僕が立派に育つかどうかにかかっている。僕が立派な人間になれれば、お父さんは幸せになれる。でも、僕が立派な人間になれなければ、お父さんは不幸な人として死んでいく。お父さんの期待に応えなければならない。僕はお父さんの人生を背負って生きていくんだ……。」こんなに大きなプレッシャーに、イサクは耐えられるでしょうか。

 親が子どもを大切にすることは、間違っていることではありません。しかし、親が子どもを大切にするあまりに、自分の人生を子どもに託そうとしてしまう。自分の人生の全てを、子どもに背負わせようとしてしまう。「私が幸せであるかどうかは、この子にかかっている。」これはある意味で、子どもを自分の神様にしてしまうことです。子どもが親の神様になってしまうんです。なぜなら、親が幸せになれるかどうか、親が人生に満足できるかどうかは、子ども次第だからです。そのような大きくて重たい期待を抱えたままで、子どもたちは健全に育っていくでしょうか。

 日本には「天皇家」と呼ばれる人々がいて、一部の人々からはまさに「神の一族」として崇められています。「神の一族」として崇められるということは当然、「神の一族」として相応しい振る舞いを求められるということです。人々の期待に応え続けなければならないんです。天皇家には、うつ病などの精神障害を患う人が少なくないと言われています。皇后の雅子さんも「適応障害」に苦しんでいましたし、秋篠宮家の娘さんだった眞子さんも「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」を発症してしまいました。「王様の一族」というだけでも大きなプレッシャーなのに、「神の一族」として、完璧な振る舞いや完璧な生き方を求められる。しかし、そんなプレッシャーに耐えられるほど、人間は強くないのではないでしょうか。


人の神となる罪

 アブラハムには、イサクを神として崇めてしまう危険がありました。そしてそれと同時に、もう一つの危険がありました。それは、アブラハム自身が神になってしまう危険です。先ほども申し上げたように、イサクは神様のおかげで与えられた命でした。おじいちゃんの年齢になってもまだ子どもが生まれず悩んでいたアブラハムをかわいそうに思った神様が、アブラハムに与えてくださった賜物でした。しかし、イサクを愛するあまり、イサクを大切にするあまり、まるでイサクを自分の持ち物であるかのように誤解してしまう危険が、アブラハムにはありました。神様がお造りになった命なのに、自分が自分の力で手に入れた命であるかのように誤解してしまうのです。本当は神様のものであるはずの人間を、自分の所有物であるかのように勘違いしてしまうのです。

 もし、イサクが神様のものではなく、アブラハムのものであるとすれば、どうなってしまうでしょうか。イサクが立派に育つかどうかは、神様の力によることではなく、アブラハムの力によることとなります。イサクが立派に育つかどうか、その全ての責任を、アブラハムが一人で背負うこととなります。イサクが立派に育てば、全てアブラハムのおかげ。イサクが立派に育たなければ、全てアブラハムのせい。「親である自分ががんばらなければ。親である自分がなんとかしなければ」と必死になり、上手くいかないことがあれば、「親である自分のせいで、親である自分が不甲斐ないせいで」と、アブラハムは自分を責め続けるしかありません。

 しかし、イサクはアブラハムの持ち物ではないんです。全ての人間は、ただ神様の子どもです。もちろん、親は子育ての責任を負います。子どもたちが立派に育つように、親たちは子育てについて責任を持ちます。でも、全ての責任を持つわけではありません。親よりももっと大きな責任を、神様が負ってくださっているんです。子どもは親の持ち物ではなく、神様の子どもだからです。「私のものではなく、神様の子どもだから、神様が育ててくださる」とおゆだねできるんです。

 私たちは、気づかぬうちにではありますが、子どもを自分の持ち物であるかのように扱ってしまうことがあると思います。たとえば私たちは、全ての人間は神様に造られた大切な存在だと信じています。全ての人は神様のものですから、悪口を言ったりして神様のものを傷つけたりはしないように気をつけるわけです。少なくともクリスチャンはそのように生きているはずです。それなのに私たちは、自分の家族のことであれば、平気で貶めたり、馬鹿にしたりするんです。「うちの子は勉強もせずに遊んでばかりで」とか、「私の夫なんて酷いもんですよ」とか、自分の家族のことであれば、悪いことや恥ずかしいことでも平気で話してしまう。子どもたちがそれを耳にして傷つこうが関係ない。まるで子どもは神様のものではなく、自分の持ち物であるかのように。

 もちろん、子どものことで本当に困っていて、それを誰かに真剣に相談するということであれば問題ないでしょう。子どもに限らず、親のことや、夫婦のことなど、家族のことで悩んでいて、それをカウンセラーなどの信頼できる人に相談するということであれば、それは悪口とは違います。悪口を我慢しすぎると、心を病んでしまいますから、話す相手をしっかりと決めて、悩みを相談することは大切です。しかし、そのような相談やカウンセリングではなく、ただただ家族のダメなところを人に話したり、家族の欠点や失敗や恥ずかしいところを言いふらしてしまうわけです。

 日本には、“家族のことは褒めない”という文化があります。家族や身内のことを褒められても、「いやいや、そんなことないですよ」と謙遜する。「いやいや、大したことないですよ」と。それは、身内のことを褒めてばかりいると、他の人から妬まれてしまったりもするので、それよりは悪口を言っておくほうが安全だ、という処世術でもあります。でも、妬みを買わないためになら、家族を貶してもOKだということになるのでしょうか。これは日本の文化だから、皆もそうしているからという理由で、家族が傷つくようなことを口にしても良いのでしょうか。

 もしも私たちが、全ての人は神様によって造られたかけがえのない存在だと信じているのなら、なぜ自分の家族については平気で悪口を言えるのでしょうか。なぜ自分の家族については平気で罪をさばいてしまうのでしょうか。それは、たとえ自分の家族であったとしても、決して自分の持ち物ではなく、ただ神様のものであるという事実を、私たちが忘れているからです。

 私たち自身もまた、家族から持ち物のように扱われた経験を持っているかもしれません。その傷が心に深く残ってしまっているのかもしれません。「私は親の持ち物ではない」と反抗しつつも、「でも、結局自分は親の持ち物に過ぎないのではないか」とも考えてしまう。そして、その傷を抱えたまま、自分という存在についての不安を抱えたまま、私たちは大人になってきたんです。だから、「私は神様に愛されている神の子どもだ」と確信できないんです。だから、自分の家族を“神様の大切な子ども”として大切に扱うことができないんです。ここに、私たち人間が抱える、根深い罪の現実があります。


人が神にならないために

 神様は、アブラハムに「試練」を与えました。その試練は、イサクはアブラハムの持ち物ではなく、ただ神様のものであるということを、アブラハムに思い起こさせるためでした。そうしなければ、アブラハムも、イサクも、どちらも不幸な人生を歩むことになるからです。人を神とし、また、人の神となろうとする罪に押しつぶされてしまうからです。

 だから神様は、「ひどい神様だ」と思われてしまうとしても、この命令を下さなければなりませんでした。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを……全焼のささげ物として献げなさい」という、恐ろしい命令を下さなければならなかった。「ひどい」と言われるとしても、アブラハムを救い、イサクを救うためには、必要な試練だったんです。アブラハムが、愛する息子に、あまりに大きすぎる重荷を背負わせることによって、愛する息子の人生を押し潰してしまわないように。また、アブラハム自身をも、自分の力でイサクを育てなければならないという、耐えきれないプレッシャーから救い出すために。9節から12節をお読みします。


9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

 アブラハムにとって、どれほど辛い試練だったでしょうか。4節には、「三日目に」と書かれています。どれほど悩み、苦しみ、葛藤した三日間だったでしょうか。しかし、この苦しい試練を通して、たしかにアブラハムは解放されたんです。「私の人生はこの子にかかっている」という偶像礼拝の罪から解放され、「私の人生はこの子ではなく、神様にかかっている」という信仰へと招き入れられたんです。それと同時にアブラハムは、「この子の人生は私にかかっている」という重圧からも解放され、「この子の人生も、私にではなく、神様にかかっている」という信仰を持つことができるようになったんです。そんなアブラハムを見て神様は、「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった」と仰りました。「神を恐れている」とは、人間は神ではないということをわきまえている、ということです。まことの神様だけを神として礼拝するということです。

 私たちは今日、ものすごく当たり前のことを確認したいと思います。「私はあの人の神ではないし、あの人は私の神ではない」ということです。この当たり前のことがよく分かると、人生は楽になります。「私はあの人の神ではないから、あの人の人生は私にかかっているのではない。あの人も私の神ではないから、私の人生はあの人にかかっているのではない。」このことがよく分かると、神様にゆだねるということもよく分かるようになっていきますから、本当に楽になります。

 私も、子育ての経験はありませんけれども、教会で子どもたちと関わる中で、また子どもに限らず皆さんと関わる中で、「ああ、これは失敗だった」と落ち込むことがあります。「自分のせいで悪いことになってしまった」と、伝道師として不甲斐なさを感じることがあります。しかし、そこで私が思い出すのは、「でも、私はこの教会の神ではない」ということです。「私はこの人たちの神ではない」ということです。もしも私が、「この教会は私の持ち物だ」と誤解してしまっていたら、私の失敗は、失敗でしかありません。失敗で終わってしまいます。しかし、私の失敗さえも良い方向に導いてくださる神様が、この教会の神としてご支配くださっているのなら、失敗だらけの伝道師にとっては、それが何よりもありがたい慰めなんです。私が神ではないということ、私が神としての責任を持つ必要がないということは、本当に慰めだなあと思うんです。

 人が神にならないために、真の神様を恐れて生きていく。人が神にならないために、神を神として礼拝し続ける。これこそ、本当の幸いを得る道です。人が神にならず、神が神として全てを支配してくださる。このことを知っている人生は、人間を神として頼る人生よりも、はるかに平安に満ちた人生、はるかに自由でのびやかな人生です。

 そしてこの生き方こそ、神だけを神とする生き方こそ、本当の意味で人間を愛し、家族を愛し、自分自身を愛せる生き方なんです。私たちが愛するあの人に、「あなたは私の神ではない」と言ってあげること。また、私たちが自分自身に、「私は誰かの神ではない」と言ってあげること。そして、「あなたも私も神ではないけれど、神にはなれないけれども、でも、あなたも私も、神様に愛されている神の子どもだ」と、自信を持って、胸を張って言える。これこそが、心から人を愛し、自分自身を愛する人の生き方なのです。ただの人間として、しかし、神に愛されている人として、神に頼りながら生きていけばいい。私たちは皆、人間であって、神ではない。神になる必要なんてない。そんな大きな重圧に押し潰される必要はない。この当たり前の事実を、当たり前だけれども忘れがちなこの事実を、私たちの神様に感謝したいと思います。ご一緒に祈りましょう。


祈り

 真の神であり、唯一の神である、私たちの父なる神様。私たち人間は、神として生きていけるほど強くはありません。それなのに、誰かを神として崇めようとしたり、自分が神として誰かを支配しようとしたり、散々な生き方しかできません。どうか神様、人を、人として愛することができますように。自分のことも、神ではなくただの人として、しかし、神に愛されている尊い人として、大切に受け入れてあげることができますように。試練は辛いですけれども、本当の自分に気づくことができます。神様どうか、私たちに必要な試練をお与えください。そして、今よりももっと気楽で、あなたを信頼して生きる人生を教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。