マルコ1:16-20「人間をとる漁師」

2022年6月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章16-20節


16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。



「ついて行く」ということ

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)ですが、ペンテコステの聖書箇所を読むのではなく、いつものようにマルコの福音書を読み進めて行きたいと思います。ただし、今日の聖書箇所は、ペンテコステととても深い関係にある箇所です。なぜなら、ペンテコステは〈弟子たちに聖霊が与えられたことによって、世界宣教が始まったことを祝う日〉ですが、今日の聖書箇所は、その弟子たちの最初のメンバーが選ばれる場面だからです。

 さて、私たちの人生は、いろいろな「行動」によって成り立っています。「食べる」とか「飲む」とか、「喋る」とか「笑う」とか、「歩く」とか「寝る」とか、「物を買う」とか「作る」とか、「本を読む」とか「テレビを観る」とか、いろんな「行動」によって、私たちの人生は成り立っています。

 では、私たちの人生の中で、最も危険な「行動」は何でしょうか? 最も危険な、危ない「行動」。一つに絞ることは難しいかもしれませんが、私は、最も危険な行動の一つは、「ついて行く」ということだと思います。「誰かについて行く」ということです。

 たとえば子どもたちは、「知らない人について行っちゃダメだよ」と教わります。「知らない人から、『お菓子をあげるからついておいで』なんて言われても、絶対について行っちゃダメだよ」と。

 また、大人になってからも私たちは、たとえば知り合いの人から、「簡単にお金が集まる方法があるんだけど、興味ない?」とか、「このセミナーに参加すれば、もっと楽な暮らしができるよ」などと言われれば、この人の話を信じてついて行っていいのか、それとも、ついて行くべきではないのか、と判断します。

 「結婚」というものも、これに似ているかもしれません。人によるとは思いますが、結婚という重大な決断をする前には、「この人についていっていいんだろうか」「この人と一緒に生きていっていいんだろうか」と、少なからず考えるものだと思います。

 このように、「ついて行く」ということは、とても重要な行動であると同時に、危険な行動です。なぜなら、「ついて行く」ためには、相手を信頼し、相手に自分を委ねなければならないからです。

 もう一度、マルコの福音書の1章16節から20節をお読みします。


16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。

 「イエスの後について行った。」さらっと書いてありますが、ものすごいことだと思います。「網を捨てて」、父親や雇い人たちを「舟に残して」、ついて行ってしまった。漁師たちにとって、「網を捨て」るということは、どれほど大きな意味を持っていたでしょうか。

 彼らにとって「漁師」という仕事は、先祖代々受け継いで来た、大切な仕事でした。ですから、父親を残して旅に出るということ、生まれ育った家を離れるということは、単に転職して仕事を変えてみるとか、ちょっと旅行に行ってみるとか、そういうレベルの話ではなかったはずです。

 彼らが何歳だったのかは分かりません。20歳くらいだったかもしれないし、もっと若かったかもしれません。30歳くらいだったかもしれないし、もっと年上だったかもしれません。いずれにせよ、この日、この時、彼らの新しい人生が始まったのです。

 しかし、彼らの判断は正しかったのでしょうか? 彼らは、ついて行ってはいけない人に、間違えてついて行ってしまったのではないでしょうか? 私たちクリスチャンも、彼らと同じかもしれません。本当にこのお方について来てよかったんだろうか? 本当にキリスト教を信じてよかったんだろうか? もっと他のことに時間を使うべきだったんじゃないか? イエス様を信じたせいで、失ったものがたくさんあるんじゃないか? このお方には、それほどの価値があるのだろうか? 


「人間をとる漁師」とは?

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」これが、イエス様の誘い文句でした。弟子たちの新しい人生は、この呼びかけによってスタートしたのです。しかし、「人間をとる漁師」とは、一体何でしょうか? みなさんは、「人間をとる漁師」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか? もしかすると、〈他の人に福音を伝えてあげて、救いに導いてあげる人〉というようなイメージを思い浮かべるかもしれません。もちろんそれも間違っていません。

 しかし、「人間をとる漁師」と言ったとき、イエス様はもう少し違ったイメージを持っておられたのではないかと思います。エレミヤ書16章16節と17節をお読みします。


16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして──主のことば──彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。
17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。

 ここで「漁夫」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「漁師」と同じ言葉です。つまり、「人間をとる漁師」というのは、単に〈人々を救いに導くために捕まえる〉というだけではなく、〈人々を裁くために捕まえる〉という役割もあるのです。今度は、マタイの福音書13章47節と48節をお読みします。


47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。

 先週の説教で、〈教会が存在しているのは、「神の国」をこの地に広げるためだ〉というお話をしました。「神の国」「天の御国」というのは、どこか遠くにある「天国」のことではなく、むしろ、〈この地上で神様の御心が行われること〉だというお話をしました。

 ただし、「神の国」「天の御国」というのは、単に〈この地上が楽園のような場所になる〉という意味でもありません。むしろ、「神の国」「天の御国」には、「良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨て」るという、厳しい側面もあるのです。「人間をとる漁師」の使命は、とても厳しいものなんです。

 「神の国」は、この世界の「悪」を見逃しません。「良いものでも悪いものでも別に関係ないよ。とりあえずぜんぶ救っちゃえばいいんだよ」というような、適当なものではありません。むしろ「神の国」は、この世界の「悪」を正しく見極めます。何が正しいことで、何が間違っていることなのか、厳しく見極めるのです。「神の国」は、この世界の悪に対して、「まあまあ、仕方ないよね。そんなもんだよね」と曖昧に終わらせるのではなく、「それは間違いだ」と訴えます。そうやってこの世界を造り変えるのが「神の国」であり、「人間をとる漁師」の役割なのです。

 だから私たちは、ウクライナで起こっている戦争から目を離しません。中国のウイグル自治区で起こっている人権侵害からも目を背けません。経済格差の問題や環境破壊の問題も忘れません。私たちは、「人間をとる漁師」として、この世界で起こっている様々な「悪」を、「悪いもの」を、「外に投げ捨て」るのです。網の中に入っている魚たちを、鋭い目つきで仕分ける漁師のように、「良いもの」と「悪いもの」を正しく見極め、この世界から根絶するのです。

 しかし、もちろん、「悪いもの」を投げ捨てることだけが、「人間をとる漁師」の役割ではありません。たしかに、「悪いもの」は「悪い」と言います。しかし、それを単に投げ捨てるだけではなく、「悔い改めなさい」と語る。それも私たちの役割です。「悪」を作り出してしまっている人々に対して、「悔い改めて福音を信じなさい」と語る。これも、「人間をとる漁師」の役割なのです。


「わたしが……ならせる」

 しかし、そんなに大変な役割が、私たちに務まるのでしょうか。私たちは「人間をとる漁師」になれるのでしょうか。そもそも自分自身が悔い改めないといけないことだらけなのに、他の人に「悔い改めなさい」と語ることなんてできない。それに、自分の生活でもう精一杯で、この世界の「悪」について考えている余裕なんてない。そんな私に、「人間をとる漁師」という大変な役割が務まるのだろうかと、不安に思うかもしれません。

 だからこそイエス様は、「人間をとる漁師にしてあげよう」と語ってくださったのです。この言葉をギリシャ語から直訳すると、「わたしはあなたがたを人間をとる漁師にならせる」です。「あなたがたは…なる」ではなく「わたしが…ならせる」なのです。「わたしがあなたがたを、人間をとる漁師にならせる。わたしが、ならせる。だから、わたしについて来なさい。」

 イエス様に「ついて行く」というのは、〈毎日毎日、イエス様と一緒にいる〉ということです。イエス様と一緒に歩き、イエス様と一緒に食事をし、イエス様と一緒に眠る。イエス様が説教をするときには、イエス様のすぐそばで、イエス様の言葉に耳を傾ける。そういう生活を、毎日毎日、毎日毎日、繰り返していく。それが、イエス様に「ついて行く」ということです。そうやって、イエス様は弟子たちを、「人間をとる漁師」として成長させていった。

 今日の聖書箇所に出てくる「シモン」というのは、「ペテロ」のことです。ペテロたちだって、最初はダメダメでした。「人間をとる漁師」には、とてもじゃないけどふさわしくないような、ダメダメな弟子たちでした。でも、そんな彼らも、イエス様について行く中で、イエス様の言葉を聞き続ける中で、だんだんと「人間をとる漁師」になっていった。イエス様と同じように、この世界の「悪」を見極められるようになり、「悔い改めて福音を信じなさい」と語れるようになっていった。

 私たちは「ペテロたちはいいよなあ」と思ってしまうかもしれません。「イエス様といつも一緒にいたんだもんなあ」と、うらやましく思うかもしれません。たしかに、ペテロたちとは違って私たちは、生身のイエス様と一緒に歩いたり、イエス様の説教をそばで聴いたりすることはできない。

 でも、イエス様は私たちのために、二つのものを与えてくださいました。私たちを一人ぼっちにしないように、二つのものを与えてくださったんです。それは、「聖書」と「聖霊」です。私たちは、イエス様の肉声を聴くことはできないかもしれません。しかし、聖書を読むことによって、聖書の説教を聞き続けることによって、私たちはいつでも、イエス様の言葉を聞き続けることができるのです。イエス様は持ち運べませんが、聖書なら持ち運べるのです。

 また、私たちは、生身のイエス様と一緒に歩くことはできないかもしれない。しかし、イエス様が送ってくださった「聖霊」と一緒に歩くことはできる。聖霊様は〈正体不明のふわふわとしたエネルギー〉ではありません。聖霊様は、イエス様ご自身の「御霊」です。私たちは、聖霊様と一緒に歩き、聖霊様と一緒に食事をし、聖霊様と一緒に眠ることによって、イエス様と一緒に生きることができるのです。今から二千年前のペンテコステ以来、キリスト教会はそうやって歩んで来たのです。

 もしかすると、ペテロたちのほうが、私たちをうらやましく思っているかもしれません。イエス様が地上におられた時は、多くても数十人か数百人の弟子たちしか、イエス様と一緒に歩けなかったでしょう。しかし今は、世界中のクリスチャンたちが、イエス様の御霊と一緒に歩くことができるのです。しかも、聖書を通して、いつでもイエス様の言葉に触れることができるのです。そのようにして、世界中のクリスチャンたちが、日曜日だけでなく、毎日毎日、毎日毎日、イエス様の言葉を聞き、イエス様と一緒にいることができるのです。そして、そうやって、イエス様に「ついて行く」ことによって、私たちも、「人間をとる漁師」として成長させていただけるのです。

 みなさんは、このお方について行きたいと思うでしょうか? このお方には、ついて行く価値があると思うでしょうか? みなさんの中には、すでにイエス様のために多くのものを捨ててきた、という方々もいらっしゃると思います。「網」を捨てたペテロたちのように、イエス様のために色々なものを捨ててきた。色々なものを失ってきた。イエス様について行くというのは、簡単なことじゃない、ということを、すでによく知っている、という方もいらっしゃると思います。

 そんなみなさんにお尋ねしたいのは、あえてお尋ねしたいのは、「それでもあなたは、これからもイエス様について行くつもりなのですか?」ということです。「これからもイエス様のために、たくさんのものを失うつもりなのですか?」ということです。「それでもイエス様について行きたいのですか? イエスという人に、それほどの価値があると思うのですか?」

 「はい、これからもイエス様について行きます!」と、はっきり答えられる方もいるでしょう。しかし、「すぐに返事をするのは難しい……」という方もいるでしょう。最初に申し上げたように、「ついて行く」ということは、危険な行為だからです。迷って当然、悩んで当然だと思います。

 しかし、みなさんに覚えておいていただきたいことは、あなたがどんなに悩んでいるとしても、あなたがどんなに迷っているとしても、イエス様はあなたを呼んでおられる、ということです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と、今日もあなたを招いておられるということです。そして、そのようにあなたを呼びかけておられるイエスというお方は、あなたのためにならいのちを捨てることができるお方だということです。あなたのためになら全てを捨てることができる、誰よりも信頼に値するお方だということです。お祈りをしましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。「わたしについて来なさい」という呼びかけを、私たちは聞いています。「人間をとる漁師にしてあげよう」という招きを、私たちは今、耳にしています。このイエス様の呼びかけに対して、私たち一人ひとりがふさわしく応えることができますように。そして、もしも私たちがイエス様について行くならば、「神の国」を広げる「人間をとる漁師」となることができますように。ならせていただくことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。