マルコ3:20-30「イエスはおかしくなった」

2022年10月2日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』3章20-30節


20 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
23 そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。
24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
25 もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
26 もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。
27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。



「彼はベルゼブルにつかれている!」

 今日は長めの箇所なので、早速読み進めていきましょう。20節から22節までをお読みします。


20 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。

 「イエスはおかしくなった」。これが今日の聖書箇所のポイントです。食事をする暇さえなく、休む暇もなく、ひたすらに群衆たちの相手をしている。病気に苦しむ人々を癒やし、悪霊に支配されている人々をひたすらに助け続ける。そんなイエス様を見て、「彼はおかしくなった」と、人々は悪口を言っていた。そして、その悪口を聞いてやって来たのが、イエス様の家族でした。「おい、イエス、そろそろ家に帰って来なさい。周りの人々はみんな、お前のことを“おかしくなった”と言っているぞ。“気が狂っている”と言っているぞ。どうしてお前はそんな風になってしまったんだ。いいかげん私たちの家に帰って来なさい。」

 「イエスはおかしくなった」と悪口を言いふらしていたのは、おそらくパリサイ人たちでした。パリサイ人たちは、「なんとかしてイエスを捕まえてやりたい、殺してやりたい」と思っていましたから、イエス様を“変人扱い”しようとするわけです。「あいつは人気者になっているが、実際は気がおかしくなった変人なんだ。あんな奴を信じるな」という風に、勝手な悪口を言っていた。

 そして、そんな悪口をさらにエスカレートさせたのが、「エルサレムから下って来た律法学者たち」でした。彼らもパリサイ人たちと同じで、「なんとかしてイエスを捕まえてやりたい」と思っていたので、「イエスはおかしくなった」だけでなく、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」なんて、酷い言いがかりまで付けていた。

 21節にも22節にも、「言っていた」という言葉が出てきますが、これは「繰り返し言っていた、言い続けていた」とも訳せる言葉です。「一回試しに悪口を言ってみた」ということではなくて、何度も言っていた、しつこく言い続けていた。

 ここで一つ注目しておきたいことは、律法学者たちでさえ、イエス様が悪霊を追い出していること自体は否定できなかった、ということです。イエス様には悪霊を追い出すほどの力がある、権威があるということ自体は、彼らにも否定できないほど明らかだったということです。

 つまり今日の聖書箇所は、イエス様が本当に悪霊たちを追い出していた、ということの、一つの重要な証拠資料でもあるんです。もちろん、この話自体が作り話だとか、イエス様の弟子たちがでっち上げた空想話だと考えることも一応できますが、イエス様が「ベルゼブルに憑かれている」なんていう失礼な話を、弟子たちが勝手に作り上げたという可能性はかなり低いでしょう。

 ですからみなさんも、もし誰かに、「イエス・キリストが悪霊を追い出したなんていう変な話が聖書の中に書かれてるけど、あんなのは作り話でしょ?」と言われたら、みなさんはぜひ、こう答えてあげてください。「じゃあどうして律法学者たちは、“イエスは悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している”なんてことを言ったんだろうね?」……こんな嫌味っぽく言ったら、たぶん引かれてしまうので、もっといい感じに答えてほしいとは思いますが。


「どうしてサタンがサタンを?」

 さて、それでは、律法学者たちに対するイエス様の反論を見ていきましょう。「あいつが悪霊を追い出せるのは、ベルゼブルに憑かれているからだ」という、律法学者たちのでたらめな悪口に対して、イエス様はどのように反論されたのでしょうか。23節から27節をお読みします。


23 そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。
24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
25 もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
26 もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。
27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。

 イエス様のこの反論は、お見事としか言いようがありません。「わたしが、悪霊どものかしらによって悪霊を追い出しているだって? そんなはずがないだろう! サタンがサタンを追い出すはずがないだろう! サタンはそんなに馬鹿じゃないってことは、お前たちもよく知ってるはずだ。」律法学者たちは、イエス様のこの反論に対して、何も言い返すことができませんでした。

 ちなみに、サタンはまだ「縛られている」だけなので、完全に滅ぼされたわけではありません。サタンが完全に滅ぼされるのは、神の国が完成する時です。それまでは、サタンは私たちを苦しめ続け、この世界を苦しめ続けます。実際に私たちは、今でも悪霊たちに支配されてしまいそうになることがあります。しかし、私たちが忘れてはいけないことは、サタンはたしかに「強い者」だけれども、そんなサタンよりも、イエス様のほうがずっとずっと「強い者」だということです。

 面白いなあと思うんですが、イエス様はこの時、ご自分のことを何にたとえているでしょうか。私たちは、イエス様は羊飼いだとか、イエス様はお医者さんだとか、どちらかと言えば“優しくて親切な人”としてイエス様をイメージするかもしれませんし、それはもちろん正しいわけですが、イエス様はこのとき、ご自分のことを何にたとえているでしょうか。“略奪者”です。“強盗”です。

 私たちはもちろん、羊飼いであるイエス様に優しく守っていただく、ということも必要ですし、お医者さんであるイエス様に病気や罪を癒やしていただく、ということも必要です。しかし、時に私たちは、守っていただくとか、癒やしていただくとか、そういうレベルではどうにもならないほどに、とことん罪に支配されてしまうことがある、落ちぶれてしまうことがある。悪魔の思い通りにされてしまって、自分の弱さとか罪とかプライドとかに囚われて、がんじがらめになって、自分ではどうしようもなくなって、悪魔の家から一歩も外に出られなくなるということがある。

 そんな時、イエス様は“羊飼い”としてでもなく、“医者”としてでもなく、“略奪者”としてやって来てくださるんです。悪魔の家に閉じ込められて、身動きも取れなくなっている私たちのために、そのドアを蹴飛ばして、壁をぶち破って、助けに来てくださる。

 しかし、そんな風にして私たちを助けに来てくださるイエス様のことを、律法学者たちは“悪魔呼ばわり”したんです。私たちを悪魔の支配から救ってくださる、こんなにも素晴らしいお方を、「あんなのはベルゼブルに憑かれているだけだ」と言いふらす。ひどい話です。こんなにひどい話はありません。これには流石に、イエス様も怒りました。28節から30節をお読みします。


28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

 「聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦され」ない。「えっ、赦されない罪なんてあるの?」と驚いた方もいるでしょう。これは、「聖霊様の悪口を一度でも言ったらアウト」とか、「聖霊様の気に障ることをしたら一発で地獄行き」とか、そういう話ではありません。「聖霊を冒瀆する」というのは、“聖霊様を悪魔呼ばわりし続ける”ということです。聖霊様が来てくださって、私たちをサタンの支配から救い出そうとしてくださっているのに、その聖霊様に向かって、「どっかに行け悪魔!おれはお前なんかに従わない!」と言って、頑なに拒否し続けるということです。そんなことをしたら、赦せるものも赦せません。赦されることを、自分から拒否しているようなものです。


「イエスはおかしくなった」

 ところで、21節で、「イエスはおかしくなった」と言われていましたが、「おかしくなった」と訳されているギリシャ語(エクスィスティーミ)は、「外に(エクス)」という言葉と「立つ(イスティーミ)」という言葉から成り立っています。「おかしくなった」というのは、「外に立つ」ということなんです。“普通の人間がいるべき場所を離れて外に立つ”ということで、「おかしくなった」とか、「狂っている」という意味になるわけです。イエス様は、「外に立つ」人でした。「身内の者たち」と一緒に暮らす安定した生活を捨てて、「外に立つ」ことを選んだ人でした。

 それではどうしてイエス様は、「外に立つ」存在になったのでしょうか。どうしてイエス様は、「おかしくなった」のでしょうか。もちろん、イエス様は本当におかしくなったわけではなくて、周りの人たちが勝手にそう思っていただけですけれど、でもなぜイエス様は、「おかしくなった」と思われてしまうほどに、食事をする暇も忘れて、熱心に働き続けたのでしょうか? 答えは簡単です。聖霊様です。イエス様が「おかしくなった」のは、悪魔のせいではなくて、聖霊様のせいなんです。マルコ1章12節をお読みします。


1:12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

 イエス様はそれまで、いわゆる人間社会の“中”で、平和に暮らしていました。“普通の人”として、ナザレという村で、家族と一緒に暮らしていました。しかしイエス様はある日、「荒野に追いやられた」。この「追いやられた」という言葉は、「外に追い出された」とか、「追放された」という言葉です。イエス様が悪霊たちを「追い出す」という時にも、ギリシャ語では同じ言葉が使われています。「御霊はイエスを荒野に追いやられた」というのは、まるで人間の中から悪霊が外に追い出されるかのように、イエス様が社会の中から外に追い出されるというような、強烈な言葉です。イエス様を「外」に追い出し、「おかしく」させたのは、他の誰でもない、聖霊様なんです。

 私たちはどうでしょうか?「イエスはおかしくなった。」では、私たちはどうなのでしょうか? パウロは次のように語っています。コリント人への手紙第二、5章13節と14節。


5:13 私たちが正気でない(エクスィスティーミ)とすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。
14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。……

 サタンに捕らえられていたはずの私たちは、今は何に捕らえられているのか。悪霊どもの所有物として、悪魔の家に閉じ込められていたはずの私たちは、今は何に捕らえられているのか。「キリストの愛が私たちを捕らえている」。私たちはもうサタンの奴隷ではない。私たちはキリストに略奪されたのだ。奪い取られたのだ。奪い取っていただいたのだ。だから私たちは、この方のためになら、「正気でない」と言われても良い。「狂っている」と言われても良い。

 いや、もしかすると私たちは、もうすでに「おかしくなった」と思われているのかもしれません。「どうしてあの人たちは、せっかくの日曜日の休日に、教会なんかに集まっているんだ?」とか、「どうしてあの人たちは、せっかく働いて稼いだ給料を、献金なんて言って献げてしまうんだ?」と、不思議に思われているかもしれません。冷静になってみると、私たちはかなりおかしなことをしているのかもしれません。周りの人々から見れば、狂ったようなことをしているわけです。「もっと普通の人生でも良かったんじゃないか」と思うこともあるかもしれません。

 今日の午後に役員会があるので、そのためにMさんが9月の会計報告を作ってくださいました。その会計報告を私もがんばって読んでみると、礼拝献金が○○円、月定献金が○○円、それで収入の合計が○○円、と書かれていて、「ああ、みなさんが、それぞれの生活も余裕があるわけじゃないのに、こうして教会のために、神様のために献げておられるんだ」と感謝するわけです。

 しかしその後、会計報告の右側に目を向けてみると、収入を遥かに上回る支出の項目が目に入って、しかもその支出の大半は、伝道師への謝儀と会堂の借金返済だったりして、「ああ、みなさんが生活費を削って献げておられる献金が、毎月毎月こんなに簡単に消えてしまうなんて」と、いたたまれない気持ちになったりするわけです。「もういっそのこと、伝道師なんていないほうが、もしくは、教会なんて無くしてしまったほうが、生活を苦しめることもなくなるんじゃないか、そのほうが賢い選択なんじゃないか」と思えてしまうこともあるわけです。少なくとも、周りの人々から見れば、「クリスチャンの人たちは、どうしてそんなおかしなことを続けているんだ」と、「そんなことのために大事なお金を使わなくていいじゃないか」と、悪口までは言われないとしても、不思議に思われたりするわけです。

 ただ、これはちょっと変な考え方なんですが、こういう、ある意味で“ギリギリ”の会計報告を読んでいると、「ああ、盛岡みなみ教会は、お金儲けのために集まるカルトじゃないんだな」と、ほっとする面もあったりするんです。私たちは、周りの人々から“狂っている”と思われているかもしれない。でも、統一教会のように、怪しい教えやお金儲けのために狂っているわけじゃない。

 20節には、「イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった」と書かれていますが、彼らが食事をする暇もないほどに忙しくしていたのは、怪しいカルト宗教を広めるためでもなければ、霊感商法で金儲けをするためでもありませんでした。彼らが忙しくしていたのは、ただひたすらに、困っている人々を助けるためでした。病気に苦しむ人々、悪霊に悩まされる人々、貧しさに飢えている人々のために、休む暇もなく働き続ける。別にお金儲けができるわけじゃないし、何か利益が得られるわけじゃないけれど、生きる希望を失った人々のために、神の国の希望を語り続ける。

 もし、そんな素晴らしい働きのために、そんな素晴らしい福音のために、「おかしく」なるなら、私はそれは、決して間違っていないと思うんです。無駄ではないと思うんです。盛岡みなみ教会が、そのような素晴らしい働きのために存在しているなら、周りの人々に神の国の希望をお届けするために存在しているなら、「狂っていると言われても良い」と思えるだけの価値がある。この場所に、この町に、この教会が存在する意義が、ここで礼拝が続いていることの意義がある。

 「イエスはおかしくなった」。イエス様はおかしくなってくださった。私たちをサタンの支配から救い出すために、私たちを悪魔の家から奪い返すために、イエス様は狂ってくださった。今度は私たちの番です。今度は私たちがイエス様のためにおかしくなる番です。イエス様のためになら、イエス様と一緒になら、今よりもっと狂ってもいい。パウロが言っているように、「私たちが正気でないとすれば、それは神のため」だからです。お祈りをしましょう。


祈り

 父なる神様。私たちの生き方は、周りの人々から見れば、おかしな生き方かもしれません。「もっと普通の生き方をすればいいのに」と思われているのかもしれませんし、私たち自身も、「自分はなんでこんな生き方をしているんだ」と思えることもあります。しかし、私たちはただ、イエス様が私たちのためにしてくださったことを、他の人々に届けたいだけなのです。そのためになら私たちは、今よりももっと狂ってしまってもいいと思っています。聖霊様、どうか私たちを、荒野に追いやってください。みこころであれば私たちを、今よりももっともっと外に、連れ出してください。私たちのためにおかしくなった救い主、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。