マルコ10:35-45「仕えられるためではなく」(宣愛師)

2023年10月8日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』10章35-45節


35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」



「杯」 と 「バプテスマ」

 本日の箇所は、ヤコブとヨハネの“お願い事”から始まります。35節から37節をお読みします。


35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」

 マルコの福音書の1章19節と20節を見てみると、ヤコブとヨハネがイエス様の弟子になったときのことが書かれています。彼らの父親である「ゼベダイ」は魚をとる漁師でしたが、ただの漁師というよりも、人々を雇うことができる程度には有力な漁師でした。ですから、もしかするとヤコブとヨハネには、「おれたちはあのゼベダイの息子なんだぞ。他の弟子たちよりも、少しは立派な家の出身なんだぞ」という自負心があったのかもしれません。

 10章36節でヤコブとヨハネは、「あなたが栄光をお受けになるとき」と言います。おそらく、彼らがイメージしていた「栄光」というのは、エルサレムに向かって行ったイエス様が、エルサレムの権力者たちを圧倒的な力によって滅ぼして、華々しく神の国の王座に着かれる、そういうキラキラとした「栄光」だったのでしょう。「イエス様、あなたがエルサレムの王座に着かれるその時、私たちを右大臣と左大臣にしてください。神の国のナンバー2とナンバー3にしてください!」

 しかし、イエス様が受けようとしている「栄光」とは、ヤコブやヨハネが考えていたような、華々しいものではありませんでした。38節から40節までをお読みします。


38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」

 イエス様が飲む「杯」とは何でしょうか。イエス様が受ける「バプテスマ」とは何でしょうか。キリスト教において、「杯」という言葉は、非常に重要な意味を持っています。たとえば、マルコの14章36節には、次のようなイエス様のみことばが書かれています。


14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 イエス様が飲もうとされた杯。それは苦しみの杯でした。十字架に向かい、人々から蔑まれ、殺される、苦しみの杯でした。もちろんヤコブとヨハネも、ある程度の苦しみは覚悟していたのかもしれません。エルサレムの権力者たちと闘うとなれば、ある程度は大変な思いをしなければならないだろう、くらいのことは考えていたかもしれません。しかし、イエス様の「杯」がここまで厳しく重いものだとは、彼らは分かっていなかったのでしょう。

 この「杯」は、まずイエス様がお飲みになった杯です。しかし、この杯を飲むのは、イエス様おひとりではありません。同じく14章の23節と24節をお読みします。


14:23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。

 ここでイエス様が言われたのは、聖餐式の「杯」のことです。イエス様の苦しみの「杯」は、私たちクリスチャンが聖餐式でいただく「杯」でもあるんです。イエス様だけが飲むものではなく、「彼らはみなその杯から飲んだ」とあるように、私たち皆が分かち合う杯でもある。

 「バプテスマ」についても、同じことが言えます。ローマ人への手紙6章4節で、パウロは次のように書きました。


6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

 「キリストの死にあずかるバプテスマ」。私たちがクリスチャンになる時に受ける“洗礼”というのは、それまでの“古い自分”が水の中で死んで、“新しい自分”によみがえるということを表す儀式です。古い自分が死ぬんです。古い自分はもう死んだ。洗礼を受けた私は、キリストとともに死に、キリストとともに生きる私へと変えられた。

 「杯」と「バプテスマ」。聖餐式と洗礼式。この二つの言葉、二つの儀式は、私たちキリスト教会が最も大切にしているものです。なぜならこれらの儀式は、イエス様の苦しみをともに苦しみ、イエス様の死をともに死に、イエス様のいのちをともに生きる、ということの象徴だからです。

 私とまなか先生は、今は「牧師」ではなく「伝道師」という立場で働いていますが、「牧師」と「伝道師」の最も重要な違いは何かと言えば、それは、“伝道師には洗礼式と聖餐式を執り行うことができない”ということです。日本同盟基督教団ではそのような決まりになっていますし、ほかの多くの教団でも同じような決まりがあります。

 どうして伝道師には、この二つの儀式を行うことが許されていないのでしょうか。その理由については、いくつかの観点から説明できるとは思いますが、今日のみことばをもとに考えることも良いだろうと思います。洗礼式において「バプテスマ」を授けるということは、誤解を恐れずに言うならば、イエス様の苦しみをその人に負わせるということです。また、聖餐式において「杯」を分け与えるということは、イエス様の苦しみを教会員の一人ひとりに負わせるということです。

 正直なところ私は、そんなに重要な務めは負いたくないなあ、と思ってしまいます。自分はこれからも伝道師のままでいさせていただいて、洗礼式や聖餐式については主任牧師の秋山先生にお願いしておく。そのほうがよっぽど気が楽だと思ってしまいます。「その務めを背負う覚悟があるのか?」と、イエス様から問いかけられるんです。「わたしを信じる一人ひとりに、わたしの苦しみを背負わせるための儀式を、あなたは執り行う覚悟があるのか?」と問われるんです。牧師を目指すということは、その覚悟を持つことなしにはできないことだと思います。

 以前私は、長年教会に通ってはいるけれども洗礼を受けようとはしない友人に、洗礼を受けない理由は何か、と尋ねたことがあります。その友人には、理由はいくつかあったようでしたが、次のように話してくれました。「もしも昔のようにクリスチャンが迫害される時代になったら、自分は信仰を守り通せる自信がないから。」正直な言葉だと思いました。私が洗礼を受けたのは中学3年生の春でしたが、その時の自分が、そこまで真剣に考えていただろうかと思わされました。ヤコブとヨハネが「できます」と軽々しく答えた、そんなふうにして自分も、軽々しい気持ちで洗礼を受けてしまったのかもしれないとさえ思いました。

 しかし、あのとき洗礼を受けた中学生の私に、不十分な理解や覚悟しかなかったとしても、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります」とイエス様は宣言してくださる。覚悟も理解も乏しい私が受けた洗礼だったかもしれないけれど、そのときの私の精一杯の信仰を、イエス様はきちんと受け止めてくださる。ヤコブとヨハネも、そのような未熟なところを通りました。「できます」と答えたときの彼らは、まだまだ未熟な弟子たちでした。しかし、ふたりともやがて、それぞれの形でイエス様の「杯」を飲み、「バプテスマ」を受けていきました。使徒の働き12章には、ヤコブはイエス様のために殉教をした、ということが記録されています。イエス様に対する信仰のゆえに、ヤコブはヘロデ王に殺されました。

 ヨハネはどうかというと、はっきりしたことは分かっていません。もし、このヨハネが『ヨハネの黙示録』を書いたヨハネと同一人物だとすれば、黙示録1章9節に書かれているように、彼は「パトモス」という島で島流しの刑を受けていたことになります。迫害を受けてはいましたが、殺されたりはせずに、長寿を全うしたことになります。ヤコブとは違い、ヨハネはいわゆる「殉教」はしませんでした。しかし、生き永らえて迫害に耐え続けたヨハネの人生もまた、ヤコブに劣らず、自らの「杯」を飲み続け、ついには飲み干した、そのような人生だったのだと思います。


「仕えられるためではなく」

 41節から44節までをお読みします。


41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

 人々に対して横柄にふるまい、人々の上に権力をふるう。これが、この世界で「支配者」だと認められている者たちがやっていることです。権力を持てば、権力をふるう。立場が高くなれば、上から命令を下す。力を握れば、人を顎で使う。このような世界で、私たちも苦しめられることもあるでしょうし、逆に、私たちが誰かを苦しめることもあるでしょう。上司の命令は絶対だとか、子どもが親に従うことは絶対だとか、この世界の“常識”の中で、私たちは傷つけ合っている。

 「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。」この言葉をギリシャ語から直訳すると、「あなたがたの間では、そうではない」となります。「そうであってはなりません」という禁止命令としても読めますが、少なくとも直訳をすれば、「そうではない」という事実の説明なんです。もちろん弟子たちは、「私たちをナンバー2とナンバー3にしてください」と願ったり、そんな願いを聞いて腹を立てたりと、異邦人たちと同じような“常識”を持ってしまっていました。それでもイエス様は確かに、「そうではない。そうではないはずでしょ」と言われた。まだまだ未熟な弟子たちに対する、イエス様の期待が感じ取れるように思います。

 さらに、「皆に仕える者になりなさい」「皆のしもべになりなさい」という言葉も、ギリシャ語から直訳すると、「皆に仕える者になるだろう」「皆のしもべになるだろう」なんです。もちろん、「なりなさい」と訳しても何の問題もないわけですが、イエス様が本当に言いたかったことは、「なりなさい」という命令というよりも、「なるだろう」という確信と期待だったのではないかと思います。争ってばかりで、「だれが一番偉いか」なんてことばかり考えている弟子たちが、徐々に変わっていってくれることを、イエス様は期待し、確信しておられたのではないでしょうか。

 だとすれば不思議なのは、イエス様はなぜ、そんな確信を持つことができたのか、ということです。こんなどうしようもない弟子たちが、互いにしもべとして仕え合うようになる。そんな奇跡のようなことが、一体どのようにして起こるのでしょうか。「だれが一番偉いか」と争ってばかりの未熟な弟子たちは、どのようにして生まれ変わることができるのか。45節をお読みします。


45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 この45節の言葉は、日本語訳では分かりにくくなっていますが、ギリシャ語では「なぜなら」という接続詞で始まっています。「あなたがたは、皆のしもべになるだろう」と言われたイエス様が、「なぜなら人の子は」と言って、その確信の根拠を述べられたんです。「なぜなら人の子は、仕えられるためではなく仕えるために来たのだから。だから、あなたたちも私と同じようになってくれるはずだ。私と同じようになってくれるに違いない。」これがイエス様の確信の根拠です。

 「贖いの代価」という言葉は、「囚われ人を解放するためのお金」という意味の言葉です。借金が返せなくなったために奴隷として働かされている人たちとか、戦争中に敵軍に捕まって捕虜となってしまった人たちのような、囚われ人たちを解放するためのお金です。「贖い」というのは、「お金を払って解放する」という意味の言葉です。では、囚われ人とは誰のことか。

 日本人には真面目な人が多いですから、「あなたは罪人です」なんて言われても、ピンと来ない人が大半かもしれません。「いやいや、自分は法律を破ったりしていないし、特別悪いことをしているわけでもないよ」と思うわけです。しかし、「あなたは罪人です」という言葉を、「あなたは囚われ人です」と言い換えるなら、受け取り方が変わってくるかもしれません。

 私たち人間は必ず、何かしらの力に囚われているものです。ある人は、お金の力に囚われます。ある人は、外見の美しさや、性的魅力に囚われます。ある人は、「だれが一番偉いか」という思いに囚われます。「自分は愛されているのだろうか」とか、「自分はこの先どうなってしまうのだろうか」という不安に囚われる人もいるでしょう。人間は誰しも、何かに囚われている囚われ人です。

 そこから抜け出すことは、簡単ではありません。囚われ人は、自分の力では抜け出すことができないから、囚われ人なんです。救い出していただかなければ、贖い出していただかなければ、いつまで経っても囚われたまま。イエス様がこの世界に来たのは、そんな私たちを贖い、解放するためでした。お金とか、外見とか、「だれが一番偉いか」という思いに囚われ、互いに傷つけ合い、苦しんでいた私たちを解放するために、イエス様が十字架にかかってくださった。

 ヤコブとヨハネは、「イエス様の右と左に座らせてください」と願いました。しかし、実際にイエス様の「右」と「左」に座ったのは、ヤコブやヨハネではありませんでした。ほかの弟子たちでもありませんでした。イエス様の「右」と「左」に座ったのは、十字架上で裁かれていた犯罪人たちでした。マルコの福音書15章25節から27節をお読みします。


15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。

 イエス様の右と左に座ったのは、イエス様にお仕えする弟子たちではありません。その逆です。イエス様にお仕えする弟子たちではなく、イエス様がお仕えになった罪人たちが、イエス様の右と左に座ったんです。イエス様は、ご自分の右と左に座る人々にさえ、「仕えられるためではなく仕えるために」十字架にかかった。このことを深く受け止めたいと思うんです。

 ともすると私たちは、「自分はイエス様に救い出していただいた。だから今度は、自分がイエス様にお仕えする番だ」と意気込むかもしれません。「イエス様、今度は私があなたにお仕えする番です」と言って、イエス様のために必死に働こうとする。イエス様の右と左、とまではいかなくても、イエス様のなるべく近くで、イエス様のために一生懸命働こうとする。

 しかし、そうやって頑張る私たちが、イエス様にお仕えしようと試みるまさにその時にも、実は、イエス様のほうが私たちのために仕え続けてくださっていたのだということに気づくんです。「今の私はもう、イエス様にお仕えしていただく必要なんてない。むしろ私がイエス様のためにお仕えしなくては」と思い込んでいるその私は実は、イエス様に仕え続けていただかなければ、イエス様の十字架の恵みがなければ、今もなお囚われたままの罪人だということに気づくんです。

 「私はイエス様の隣でお仕えすることができる人間だ」という思い上がりを捨てない限り、私たちはイエス様の右と左に座らせていただくことなどできないと思います。むしろ、自分の罪を深く深く自覚する時に初めて、私たちはイエス様の隣に座らせていただけるのではないでしょうか。自らの罪を深く深く認める人こそ、イエス様が献げてくださったいのちの重みを深く深く知り、イエス様が自分を罪から解放してくださったことの喜びを知ったゆえに、イエス様の隣でイエス様にお仕えし、また周りの人々にお仕えすることができるのではないでしょうか。精一杯へりくだって、謙遜になって、「よし、自分はすべての人にお仕えするしもべになるんだ!」と意気込んでも、そんな私の足元には今日もイエス様がいて、私の汚い汚い足を洗っていてくださる。

 バプテスマを受け、聖餐の杯を飲む時、私たちは、イエス様のために苦しみ、イエス様のためにお仕えする覚悟を新たにさせられます。しかし、それと同時に思い出さなければならないことは、私たちがイエス様のために苦しむ前に、イエス様が私たちのために苦しんでくださったこと、そして今も私たちの苦しみを苦しんでくださっているということです。私たちがイエス様にお仕えする前に、イエス様が私たちのしもべとなって、私たちに仕え続けてくださっているということです。その恵みを確認するのが、バプテスマの儀式であり、聖餐の儀式です。クリスチャンとして生きるということは、イエス様の右と左に座るということは、「贖いの代価」を必要とする囚われ人として、イエス様に仕えていただかなければ生きていくことのできない罪人として、自らを差し出すことです。私たちの苦しみを苦しんでくださり、しもべとなって私たちを支えてくださるイエス様が、この一週間も私たちとともにいてくださいます。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。イエス様の右と左に座って、イエス様にお仕えすることができるような、立派なクリスチャンになれればと願っていました。しかし、本当は私たちは、イエス様にお仕えすることもできず、他の人々に仕えることもできないほど、罪に支配されている囚われ人なのだということを、あなたの御前に告白しなければなりません。私たちには今もなお、イエス様に仕えていただくことが必要です。今もなお、イエス様の十字架が必要です。どうか、「贖いの代価」であるあなたのいのちを、私たちがもう一度受け取り直すことができるようにお導きください。私たちとともに苦しんでくださり、どうしようもない罪人をその隣に招いてくださり、罪の支配から解放し続けてくださるお方、私たちの主イエスの御名によってお祈りいたします。アーメン。