伝道者12:1-2, 13-14「十字架の喜」(宣愛師)

2024年1月7日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『伝道者の書』12章1-2節, 13-14節


  1  あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。 
  わざわいの日が来ないうちに、
  また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
  2  太陽と光、月と星が暗くなる前に、
  また雨の後に雨雲が戻って来る前に。

13   結局のところ、
  もうすべてが聞かされていることだ。 
  神を恐れよ。神の命令を守れ。 
  これが人間にとってすべてである。
14   神は、善であれ悪であれ、
  あらゆる隠れたことについて、 
  すべてのわざをさばかれるからである。



「わざわいの日」

 本日の礼拝後に「二十歳祝福式」を行う予定だったのですが、H君が急遽実家に帰省することになったので、祝福式はまたの機会に延期することになりました。「二十歳祝福式」ということで、今日の礼拝では“若者”へのメッセージである伝道者の書の12章をお開きしようと考えていたので、H君がこの場にいないことは残念です。しかし、この伝道者のみことばは必ずしも、若者だけに向けられたメッセージではないはずです。今日は12章の1節2節と、13節14節に注目してお話ししたいと思います。まずは1節と2節をお読みします。


あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。 
 わざわいの日が来ないうちに、
 また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
太陽と光、月と星が暗くなる前に、
 また雨の後に雨雲が戻って来る前に。

 確かにこれは、二十歳の門出を迎えるH君にぜひ聞いてほしいと思って選んだ聖書箇所でした。これからの人生をどのように生きていくべきか。元気いっぱいの若いうちに、何を大切にして生きていくべきか。そのことを確認してほしくて、この聖書箇所を一緒に読みたいと思っていました。

 しかし、いかがでしょうか。新年が始まってまもなく、能登半島で突然の大地震。私たちは、石川県や周辺地域の甚大な被害を目にしています。新しい年を迎え、楽しいお正月を過ごそうとしていたはずの人々が、突如として家を失い、安全を失い、命を失ったのです。私たちは、「わざわいの日が来ないうちに」というこの聖書の言葉を、自分には関係のない言葉として読むことができるでしょうか。「これは若者たちに向けられた言葉だ」と、他人事のように言えるでしょうか。

 私たちの人生には必ず、「わざわいの日」がやって来ます。「何の喜びもない」と言うしかない、そんな日が訪れます。暖かい太陽が光を失い、月も星も消えてしまう。やっと雨が止んでくれたかと思えば、また雨雲が戻って来てしまう。人生に喜びがない。“楽しみなこと”が何もない。

 「伝道者」と名乗る謎の人物は、この世界の有り様を鋭く分析し、そこにある「空しさ」に気づいてしまいました。「伝道者」は、この世界の誰よりも知恵があり、賢く優秀な人間でした。しかし、どんなに知恵がある人も、どんなに優秀な人も、最期には死んでしまう。空しいのです。

 そこで「伝道者」は、「愚かな者」として生きてみることにしました。様々な快楽を味わってみました。お酒をたくさん飲みました。持ちきれないほどの財産を手に入れました。たくさんの女性との関係を楽しみました。しかし、どんなに愚かになって、どれだけ人生を楽しんだとしても、やはり最期には死んでしまう。空しいのです。

 どれほど知恵がある人でも、必ず死んでしまう。どんなに愚かであっても、必ず死んでしまう。真面目に生きていた人も、悪いことばかりしていた人も、同じように死んでしまう。神を信じて生きる人も、神を信じず生きる人も、同じように死んでしまう。いやむしろ、正しく真面目に生きている人よりも、そうでない人のほうが長生きすることさえある。7章15節をお読みします。


 7:15   私はこの空しい人生において、 
すべてのことを見てきた。 
正しい人が正しいのに滅び、 
悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。

 東日本大震災が起こった時、「なぜ東北の人たちがこんなにも苦しまなければならないのか?」という疑問を持った人々がいました。それは当然の疑問だと思います。しかし、その疑問に対してある人々は、というか、一部のキリスト教徒は、「東北地方の人々はイエス・キリストを信じず、偶像礼拝をたくさんしていたからだ」という答えを提示しようとしたのです。「東北地方の人々がキリストを信じなかったから、神が地震と津波によってさばきを下したのだ」というわけです。

 私は、そのように考えるクリスチャンがいると聞いて、心の底から残念に思いました。正しい人は必ず長生きし、悪い人は必ず早死にすると言うのでしょうか。神を信じる人は必ず幸せな人生を歩み、神を信じない人は事故や災害で死んでいくのでしょうか。そんなはずはないでしょう。「伝道者」が語っているように、「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」これが現実です。正しい人も悪人も関係なく、信仰者も無神論者も関係なく、震災は全てを飲み込んだのです。

 「令和6年能登半島地震」と名付けられた今回の災害は、私がこの原稿を準備していた土曜日の時点で、避難している方が3万人以上、重軽傷者は600人以上、そして、亡くなった方は126人。この中には、イエス様を熱心に信じていたはずのキリスト者がおられたでしょう。キリスト者でなくても、真面目に働き、家族や友人を愛し、困っている人がいれば助けを差し伸べる、そんな立派な人生を歩んでいたような方々がたくさんおられたでしょう。さらに、まだ良いことと悪いことの違いも分からないような、幼くかわいい子どもたちでさえも、命を落としているのです。

 「わざわいの日」は、どのような人々にも関係なく、容赦無く襲ってきます。もちろん、真面目に生きていれば、少しは良い人生を送れるかもしれません。しかし、真面目な人が幸せになれるとは限らない。神を信じて生きていれば、多少は有意義な人生を歩めるかもしれません。しかし、正しい信仰を持つ人が、病気や事故や災害から守られるとは限らない。それなら、真面目に生きる必要なんてあるのでしょうか? 正しく生きる意味なんてあるのでしょうか? 神を信じて生きることに、何の益があるのでしょうか?

 困っている人々がいれば、できる限り助けたいと思います。貧しい人々がいれば、自分にできることをしたいと思います。私たちの教会としても、今回の地震の被害にあっている方々を覚えて、少しばかりでも支援をしたいと思っています。しかし、私たちの力によって、誰かを助けることができたとしても、その人がその後も幸せに生きていけるかどうかは、私たちには分かりません。私たちが精一杯の力で助けたその人は、翌日には死んでしまうかもしれません。もっと言えば、私たちが余計なことをしたせいで、その人はもっと苦しむことになる、そんなこともあるでしょう。良いことをしたいと願って実行しても、それが良い結果に繋がるとは限らない。どのような未来が待っているかは、私たちには分からない。

 真面目に生きても、不真面目に生きても、困っている人を助けても、助けないで見捨てても、結果は分からないのです。何をしてもしなくても、何も変わらないかもしれないんです。私たちのおかげで何かが変わったように見えたとしても、それはほんの一瞬のことに過ぎないかもしれないんです。しかも、誰かのために良いことをしたはずなのに、誤解されて、勘違いされて、かえってこちらが酷い目に遭わせられるような、そんなことさえ起こり得ます。

 そういう世界なんです。空しい世の中なんです。空気のように、煙のように、掴もうとしても、掴みどころがないんです。捉えどころがないんです。それなら、真面目に生きる意味なんてあるのでしょうか? いや、そもそも、生きている意味なんてあるのでしょうか?


それでも神を信じて

 こんなことをぐるぐると考え続け、ぐるぐると悩み続けているのが、『伝道者の書』という書物なんです。この世界の現実について、ぐるぐるぐるぐると思い巡らし続けた人の言葉なんです。「聖書のことはよく分かんないけど、伝道者の言葉はなんだか良く分かる」という人がたくさんいます。悩んで来た人には、よく分かるのでしょう。人生がそんなに甘くないということを、肌で実感してきた人には、この言葉が身に沁みてよく分かるのでしょう。「神様を信じればハッピーだよね」なんてことを、「伝道者」は言いません。「真面目に生きてれば良いことあるよね」なんてことも言いません。「しっかり勉強して、良い大学に入って、良い仕事に就くことができれば、幸せな人生を歩むことができる」なんてことも、彼は絶対に言いません。人生はそんなに甘くない。

 しかし、それにもかかわらず、それにもかかわらず「伝道者」は、ぐるぐると考え続ける中で、ぐるぐるぐるぐる悩み続ける中で、「神を恐れて歩みなさい」と語り続けるんです。「人生は空しい」と言うくせに、至る所に「それでも神を信じて生きていけ」というメッセージを散りばめているんです。「神を信じても信じなくても、幸せな人生を歩めるかどうかは分からない」と語っているくせに、「でも、それでも神を信じて生きろ」と言うんです。

 なぜでしょうか? どうして「伝道者」は、「それでも神を信じて生きろ」と語るのでしょうか?  どうして「伝道者」は、「最期にはみんな死んでしまうんだから、どうな生き方をしても一緒さ」とは言わないのでしょうか? 「伝道者」が語ろうとしていた結論は、この書物の最後の部分にまとめられています。12章の13節と14節をお読みします。


13   結局のところ、
  もうすべてが聞かされていることだ。 
  神を恐れよ。神の命令を守れ。 
  これが人間にとってすべてである。
14   神は、善であれ悪であれ、
  あらゆる隠れたことについて、 
  すべてのわざをさばかれるからである。

 この世界には、理不尽な現実があります。「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きする」という現実があります。しかし、もしも神がおられて、すべてを知っておられて、「善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる」のだとすれば、正しい人が滅んだとしても、そこで終わりではない。悪しき者が長生きして幸せに死んでいったとしても、そこで終わりではない。「すべてのわざをさばかれる」神が、その先に待っておられるのです。この世界は不平等です。この世界は理不尽です。しかし、この世界の先に、すべての不平等と理不尽を終わらせてくださる神がおられるのです。


「十字架の喜」

 私たちは、歴史上のすべての人間の中で、最も不平等な扱いを受けて死んだ人を知っています。すべての人間の中で、最も理不尽な死に方をした人を知っています。「すべてのものを与えし末、死のほか何も報いられで」と歌われた人を知っています。イエス様よりも「空しい」人生を歩んだ人がいるでしょうか。人々を愛し、人々を助け、人々のために全てを捧げたのに、濡れ衣を着せられ、犯罪者として扱われ、蔑まれながら殺されてしまったのです。世界一不平等で、理不尽で、空しい人生です。でも、そこで終わりではなかったということも、私たちは知っています。

 日本が大東亜戦争を行っていた頃、天皇を神とは認めず、「イエス・キリストだけが神です」と主張したことによって、投獄されたクリスチャンたちがいました。その中に、「耶蘇基督之新約教会」と名乗ったり、「森派」と呼ばれたりしたグループがいました。その人々の指導者であった森勝四郎(1873-1920年)という人物は、次のような言葉を弟子たちに残していたそうです。


吾々が一番善い事をして、
しかも一番悪い結果になり、
其時に平安である事が、
十字架の喜(よろこび)である。

川口葉子・山口陽一『知られなかった信仰者たち:耶蘇基督之新約教会への弾圧と寺尾喜七「尋問調書」』いのちのことば社、2020年、3頁。

 どんなに善いことをしたとしても、悪い結果が待っているかもしれない。しかし、それでも平安である。たとえ「一番悪い結果」になったとしても、神様はその「一番悪い結果」の先に、復活とさばきという希望を用意していてくださるから。だから、不平等で理不尽な世界だけれども、真面目に生きていく意味があるんです。上手く行かないことがあるとしても、誠実に生きる意味があるんです。誰にも理解してもらえないかもしれないけれど、神様は見ていてくださるからです。誰にも知られなかった善い行いにも、誰にも知られなかった悪い行いにも、必ず相応しい報いをお与えになるからです。突然の災害によって、突然の事故によって、突然の病によって、理不尽な結末を迎えたとしても、神様は必ず、その結末の先にある報いを与えてくださるからです。

 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。」私たちはもう、ぐるぐると悩む必要はありません。「もうすべてが聞かされていることだ」と言われているからです。もしも私たちが、これ以上ぐるぐるぐるぐると悩むのだとすれば、それは「伝道者」よりも賢くなろうとすることであり、神様よりも賢くなろうとすることです。私たちが今すべきことは、新しいことを学ぶことではありません。私たちが今すべきことは、「聞かされていること」から逃げることなく、神の言葉から逃げることなく、向き合うことです。もうすべてが聞かされています。結論は出ています。

 だから、上手く行かない人生だとしても、神様を信じて生きていきましょう。たくさん失敗をするかもしれないけれど、「どうしてこんなに上手く行かないんだ」と落ち込むような毎日だとしても、神様を恐れて生きていきましょう。最期まで何も良いことがなかったとしても、“最期の最期”には必ず報いがあるからです。一番善いことをしたのに、一番悪いことが起こったとしても、“最期の最期”には、一番の報いが待っているからです。だから、上手く行かない毎日にも、めげずに生きていきましょう。神様はすべてを見ていてくださいます。神様はあなたの努力も、あなたの涙も、あなたの罪も、あなたの悔い改めの祈りも、すべてを知っていてくださいます。すべてを覚えていてくださいます。ですから、「神を恐れよ。神の命令を守れ。」お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。真面目に生きても、上手く行かないことがあります。あなたを信じて生きていても、わざわいは襲ってきます。災害に苦しむ方々を見て、他人事のようには思えません。この世界の理不尽に、ついていけなくなることがあります。何が起こるのか、私たちにはわかりません。しかし、それでもあなたを信じることができますように。死の先にある、終わりの先にある、あなたのさばきを信じることができますように。どんなに上手く行かない毎日でも、最悪の事態に直面している時にも、「十字架の喜」を握って、希望を握って、イエス様のように歩んでいくことができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。