マルコ2:18-22「なぜ断食をしないのか」

2022年8月21日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』2章18-22節


18 さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」
19 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。
20 しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。
21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」



“聖餐”と“愛餐”

 今日の午後の「教会ミーティング」では、“聖餐式”について話し合いたいと思っています。新型コロナウイルスが広がっている中で、聖餐式を続けるべきか、それとも中止すべきか、という話し合いをしたいと思っています。ですから、この説教の中では、聖餐式について詳しくお話しすることはしませんが、聖餐式に関わることとして、「食事」ということについて考えたいと思います。

 まず最初に、確認しておきたいことがあります。それは、「初代教会」、つまり二千年前の教会においては、今私たちが礼拝の中で行っている“聖餐”と、礼拝の後に教会のみんなで食べる食事、すなわち“愛餐”というのは、本来は別々のものではなかった、ということです。むしろ、礼拝の前後や、礼拝の途中で、教会の仲間たちと一緒に食べる食事のことを、初代教会では「主の晩餐」と呼んでおり、それが“聖餐”でもあり、“愛餐”でもあったのです。

 2019年にコロナが広がり始めて以来、世界中のキリスト教会では、「聖餐式をどうすべきか」ということが話し合われてきましたし、今日の午後のミーティングでは私たちも、そのことについて話し合いたいと思っています。ただ、「愛餐をどうすべきか」という問題については、多くの教会では、ほとんど話題にされてこなかったように思います。

 もちろん、「聖餐のほうが愛餐よりも大切なんだから、愛餐について話し合う余裕なんてない」とか、「聖餐よりも愛餐のほうが感染リスクが高いんだから、聖餐は継続できたとしても、愛餐は継続できなくても仕方ない」ということは分かります。しかし、「聖餐のほうが愛餐よりも大切」とか、「愛餐はできなくても仕方ない」という考え方は、果たして問題がないのでしょうか。“聖餐式”がストップしてしまうということは、教会にとっては非常に重要な問題です。しかし、“愛餐”がストップしてしまった、つまり、教会の仲間たちと一緒にごはんを食べることが無くなったという事実は、実は私たちが考えている以上に重要なのではないか、ということを、この数年間を経て反省させられているんです。

 今日の聖書箇所のテーマはズバリ、「断食」と「祝宴」です。つまり、ここで問題となっているのは、〈食事をすべきかどうか〉という問題です。この聖書箇所は、今の時代の教会が、つまり私たち盛岡みなみ教会が、“聖餐”や“愛餐”をどのように考えていくべきか、ということについて、非常に重要なヒントを与えてくれる場面なんです。


“エルサレムの滅亡” と 「断食」

 まずは、18節をお読みします。


18 さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

 「断食」というのは、祈りに集中するために、食事をやめることです。当時のユダヤ人たちは、いろんなパターンの「断食」をしていました。たとえば、一年に一度、「大贖罪日」という日には、ほとんど全てのユダヤ人が断食をして、悔い改めの祈りを捧げていましたし、四月、五月、七月、十月、というように、ある特別な時期に断食をするというパターンもありました。

 また、ユダヤ人の中でも「パリサイ人」と呼ばれる人々は、毎週月曜日と木曜日に断食をしていたようです。バプテスマのヨハネの弟子たちについては情報が少ないので、彼らがどんな断食をしていたのかは不明ですが、おそらくパリサイ人と似たような形だったと想像されます。

 彼らが行っていた「断食」には、ある特別な意味がありました。彼らは、断食することによって、イスラエルの回復を待ち望んでいたんです。外国人によって滅ぼされてしまったイスラエルの国、エルサレムの町が、再び回復するようにと祈るわけです。彼らは「断食」をしながら、「どうか神様、イスラエルの罪をお赦しください」とか、「神様、ボロボロになってしまったエルサレムの町を復活させてください」と、真剣な祈りを捧げていたんです。

 もちろん、「断食」をして祈ったからと言って、それだけで本当に悔い改めができるとは限りません。むしろ、多くのイスラエル人は、「断食」を形だけの儀式にしてしまい、実際には全く悔い改めておらず、相変わらず神様に対して、隣人に対して、罪を犯し続けていました。

 しかし、イスラエルがどんなに罪深くても、どんなに頑なでも、神様は彼らを見捨てず、愛しておられました。そして神様は、どうしようもない彼らのために、一つの約束を与えてくださいました。その約束とは、いつの日か必ず、イスラエルの罪を赦し、エルサレムを回復させる、という約束です。悲しみの「断食」が、喜びの祝宴に変わる、という力強い約束です。ゼカリヤ書8章の19節(旧約1620頁)をお読みします。


19 万軍の主はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」

 “断食”が“祝宴”に変わる日。エルサレムを滅ぼした神様が、エルサレムに帰って来てくださる日。この約束の日を、イスラエル人は待ち望んでいました。ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちが「断食」をしていたのは、この約束の成就を祈り求めていたからです。この約束が成就することを願って、彼らは「断食」をし、悔い改めの祈りをささげていたのです。ですから、彼らにとっては、「断食」というのは、真剣な儀式だったんです。形だけのものに成り下がってしまうこともありましたが、しかし、やはり断食の祈りというのは、彼らにとって何よりも大切な祈りだったんです。


「なぜ断食をしないのですか」

 ところが、これほどまでに大切な「断食」を、行なわないどころか、むしろその逆で、宴会ばかりしているような人々がいました。しかもその人たちは、「罪人」と呼ばれるような人の家で、楽しそうに食事会をしていたのです。「なぜあの人たちは断食しないのだろうか?」これは、当然の疑問でした。「なぜあの人たちは、断食をしないのだろうか? なぜあの人たちは、エルサレムの回復を祈らないのだろうか? なぜあの人たちは、もう一度、神様がイスラエルの国に帰ってきてくださるようにと、断食をして、悔い改めて、祈らないのだろうか?」そして彼らは、おそらく我慢ができなくなって、居ても立っても居られなくなって、本人に質問を投げかけたのでしょう。「なぜあなたの弟子たちは、断食をしないのですか?」それに対するイエス様の答えが、19節。


19 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。

 「“なぜ断食をしないのか”だって? 逆に聞くけど、そもそも何のために断食をしてたんだい?お前たちが断食をしているのは、“神の国”の到来のためだろう? お前たちが断食しているのは、イスラエルの罪が赦されるためだろう? それなら、もう断食をする必要なんて無いじゃないか。」これが、イエス様の答えでした。「だって、待ち望んでいた“花婿”が、もう来ているんだから。待ち望んでいた“祝宴の時”が、もう始まっているんだから。イスラエルの救い、エルサレムの回復が、すでに始まっているんだから。今まさに、この場所に、“神の国”が到来しているんだから。」

 20節を読む前に、先に21節と22節をお読みします。


21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 少しややこしい聖書箇所ですが、イエス様が言いたいことはシンプルです。簡単にまとめれば、「古いものは新しいものを受け入れられない」ということです。「古いものにとって、新しいものは新しすぎる」ということです。「古いもの」というのは、ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちのことです。断食をしながら、「“神の国”はいつ来るんだろうか」と、待ち望んでいた人々のことです。そして、「新しいもの」というのは、イエス様がもたらした“神の国”のことです。

 ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは、“神の国”がすぐそこに来ていたのに、“断食が祝宴に変わる時”がすぐそこに来ていたのに、それに気づけませんでした。自分たちが祈り求めていたことが、すでに成就し始めているのに、それに気づくことができませんでした。

 なぜでしょうか? なぜ彼らは、自分たちの祈りが成就しているというのに、それに気づけなかったのか? それはおそらく、イエス様がもたらした“神の国”が、彼らが待ち望んでいた“神の国”とは、あまりにも違っていたからでしょう。

 先週の聖書箇所では、「罪人たち」と一緒に食事をしていたイエス様の姿を確認しました。イエス様にとっては、“神の国”というのは、“罪人の家”で始まるものでした。しかし、パリサイ人たちが祈り求めていた“神の国”というのは、エルサレムの神殿のような立派な場所で始まるものであって、「罪人たち」の“汚れた家”で始まるようなものでは、決してなかった。

 「古い衣」は、「新しい布切れ」を受け入れられない。「古い革袋」は、「新しいぶどう酒」を受け入れられない。それと同じように、“古い時代”を生きていた人々は、イエス様がもたらした“新しい時代”を受け入れられなかったんです。彼らは確かに、神の国の到来を祈り求めていました。しかし、彼らにとって、本物の“神の国”は、あまりにも新しすぎたのです。


日曜日は“愛餐”の日

 最後に、20節をお読みします。


20 しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。

 この箇所は、マルコの福音書の中で初めて、イエス様がご自分の死について語った場面です。ご自分の十字架について語った場面です。今、イエス様の隣で楽しそうに食事をしている弟子たちは、やがて、悲しみの中で断食をするようになる。“祝祭の時”が終わってしまう、その時が必ず来る。

 イエス様が十字架で殺された時、弟子たちは絶望していました。悲しみのあまり、食事をする元気もなかったでしょう。意図的に“断食”をしたわけではないでしょうが、ほとんど“断食”のような状態になったかもしれません。

 しかし、そのような“断食”は、たった二日間で終わったのです。ルカの福音書の最後の章には、復活したイエス様が、弟子たちと一緒に食事をしておられる場面があります。たしかに、“花婿”は取り去られました。“祝宴”は中断されてしまいました。しかし、“花婿”はすぐに戻って来て、「ほらほら、もう断食は終わりだよ。ごはんの時間だよ」と言って、パーティーを再開したのです。

 もちろん、断食自体は悪いものではありません。たとえば、新約聖書の『使徒の働き』には、クリスチャンたちが断食をしてお祈りをしている場面が登場します。ですから、もしも誰かから、「お祈りに集中したいので、断食をしてみたいんですけど、どうでしょうか?」と相談されたら、私はきっと、「体調を崩さない程度なら良いと思いますよ」と答えると思います。

 ただし、もしもその人が断食をしようとしているのが、日曜日だったとしたら、私は、「日曜日だけはダメです」と言うでしょう。なぜなら、日曜日というのは、断食をすべき日ではなく、祝宴をすべき日だからです。復活の日だからです。喜びの日だからです。19節に書いてあるように、「花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。」

 私たちの人生には、嫌でも断食をしたくなるような、悲しくて辛い日があります。教会だって、苦しい日々を歩むことがあります。また、一週間の中で、たくさんの失敗をしたり、恥ずかしい罪を犯したりすることもあります。でも、日曜日には喜びたいと思うんです。もちろん、どんなに悲しいことがあっても、教会に来る時は作り笑顔でいなきゃいけない、というような意味では全くありません。そうではなくて、むしろ、悲しくて、辛くて、笑顔なんて到底作れない、という時にも、罪深い自分に落ち込んで、「今日は喜べるような気分じゃないなあ」と思う時にも、教会に来て、礼拝をして、みんなでごはんを食べる。それが、日曜日という日なんです。

 別に、クリスマスの特別な食事会とかじゃなくてもいいんです。豪華なメニューが並んでなくてもいいんです。一緒におにぎりを食べる、とかでもいいんです。近くのお店に食べに行ってもいいんです。ただ、そうやって日曜日に、教会の仲間たちと一緒にごはんを食べるということは、単なる礼拝後の栄養補給とか、「午後にミーティングがあるから、とりあえず教会で食べる」というだけでは、もったいないと思うんです。日曜日の食事というのは、教会における食事というのは、“復活の喜びを祝う祝宴”だからです。“新しい時代の幕開けを祝うお祭り”だからです。悲しみの日々、断食の日々が終わり、喜びの時代が始まったことを祝う、非常に重要な事柄だからです。

 もちろん、コロナウイルスが広がっている今、誰かと食事をするのには、十分注意が必要です。人それぞれの危機感の違いもありますし、職場などの関係で、人一倍気を遣わなければいけないという方もいるでしょう。ですからもちろん、体調の安全を優先して、教会では食事をしない、という選択が間違っているわけではありません。むしろ、その人が他の人たちと一緒に食事をしないという理由で、教会の交わりから追い出されるような感覚とか、仲間外れにされたような感覚をその人に与えてしまうなら、そんな食事は最初からやめたほうがいいでしょう。

 ただ、今日私たちが覚えておきたいことは、キリスト教にとって、イエス様にとって、「食事」というものは、私たちが考えている以上に重要な事柄だった、ということです。だから初代教会では、教会における食事会のことを、「アガペー」すなわち「愛餐」と呼んだのです。神様の愛、イエス様の愛は、教会の交わりの中で、教会の食事の交わりの中で、分かち合われ、深められ、広げられていくものだからです。

 私たちに必要なのは、“断食”ではなく、“愛餐”です。少なくとも毎週の日曜日に必要なのは、悲しみではなく、祝宴です。毎日がどんなに苦しくても、どんなに辛くても、日曜日だけは特別な日だから、イエス様が復活した日だから、みんなでごはんを食べながら、励まし合う。どんなにしんどい一週間を過ごしたとしても、失敗だらけの、罪だらけの一週間だったとしても、日曜日は、日曜日だけは、イエス様の御前に集まって、みんなで一緒に喜び祝う。これが、イエス様がもたらしてくださった“神の国”の祝宴です。お祈りをします。


祈り

 神様。私たちには、多くの苦しみや悲しみがあり、また、悔い改めなければならない罪があります。本当なら私たちの人生は、生まれてから死ぬまで、“断食”をし続けなければならないような、そんな暗い人生かもしれません。しかし、イエス様が来てくださいました。“花婿”が来てくださいました。だから、私たちはもう、“断食”はしません。神様、私たちに日曜日を与えてくださってありがとうございます。ともに食卓に着く仲間たちを与えてくださって、ありがとうございます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。