マルコ7:31-37「口止めされればされるほど」(宣愛師)

2023年4月30日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』7章31-37節


31 イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。
32 人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。
33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。
34 そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。
35 すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
36 イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。しかし、彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。
37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた。」



“新しすぎることへの口止め”

 みなさんは、“誰かに口止めをされた”という経験をお持ちでしょうか? 「このことについては誰にも秘密だよ」と口止めされる。「このことについては話さないでね」と、お願いされたり、脅されたりする。“口止め”には色々な種類があります。“だれかに聞かれたらマズイこと”に対する口止めもあれば、誕生日のサプライズのように、“だれかを喜ばせるために秘密にしておきたいこと”に対する口止めもあります。また、“あまりにも新しすぎることに対する口止め”というのもあるかもしれません。

 私が“口止め”という言葉を聞いて連想するのは、「ガリレオ裁判」です。「地球の周りを太陽が回っているのだ」と信じられていた時代に、「本当は太陽の周りを地球が回っているのだ」と主張したガリレオ・ガリレイ。彼が訴えたこの「地動説」を受け入れた人々もいましたが、その説のあまりの新しさに驚いて拒否する人々も多かった。そしてついに、「ガリレオ裁判」が二度にわたって起こり、ガリレオの「地動説」は“異端的な考え”として禁止されてしまいます。

 当時のキリスト教会にとって、「地動説」はあまりにも“新しすぎる考え”でした。当時の教会が信じていた教えに矛盾すると考えられたために、受け入れられなかったんです。そのため教会はガリレオに対して“口止め”を行ったわけです。しかし、「太陽が動いているのではなく、地球が動いているのだ」という考え方は、今となっては常識です。ガリレオの「地動説」は、天文学の世界及び科学の世界にとって、新しい時代を切り拓くものでした。最初は“口止め”されてしまったとしても、やがてそれが真実だったということが、全ての人にとって明らかになった。


「耳が聞こえず口のきけない人」(31-32節)

 マルコの福音書、7章31節と32節をお読みします。


31 イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。32 人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。

 「イエス様、耳が聞こえず口のきけないこの人を救ってあげてください。どうか癒やしてあげてください。」そんな慈しみの思いから、人々は彼をイエス様のところに連れて来たのでしょう。ただし、人々がこの人をイエス様のところに連れて来たのは、単にこの人をかわいそうだと思ったからだけではなかったかもしれません。なぜなら、旧約聖書のイザヤ書には、次のように預言されていたからです。イザヤ書35章3節から6節をお読みします。


3  弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。

4  心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。

見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。 

神は来て、あなたがたを救われる。」

5  そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

6  そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。 

荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

 〈そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。〉これこそ、イスラエルの人々が待ち望んでいた瞬間でした。疲れて弱った手、痛めつけられよろめいている膝、恐怖と不安によって騒いでしまう心が、救いと喜びを得る日。貧しい人々を苦しめていた権力者たちに向かって、神様の復讐の裁きが下り、弱い者たちのための救いが成し遂げられる日。〈荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れる〉。そんな時代が来ることを、イスラエルの人々は何百年もの間、待ち望んでいました。

 「この預言が成就するのはいつなのだろうか?」「私たちの苦しみが終わり、救いの時が始まるのはいつなのだろうか?」そのような疑問を抱いていたイスラエルの人々は、イエスという人に希望を見出します。「もしかすると、このイエス様こそが、来たるべき救い主なのではないか?」

 そんな期待を抱きながら、〈人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した〉のかもしれません。「もしこの人の耳が開かれたなら、もしこの人の口が開かれたなら、イザヤが予告していた新しい時代が、私たちの神の救いの時が、本当に始まったことになる…!」ドキドキワクワクしながら、イエス様に期待の眼差しを向けていた。


「天を見上げ、深く息をして」

 そして、ついにその時が来ました。33節から35節まで。


33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。
34 そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。35 すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。

 両耳に指を入れられるなんて、普通に考えれば嫌だなあと思います。今日の説教を準備していたとき、妻のまなか先生が近くにいたので、お願いして試してみました。まなか先生の両耳に指を入れてみると、すぐに嫌な顔をして、「あ、無理っ」と。「ああそうか、耳は無理か」と思って、今度は指に唾を付けてみましたが、触ろうとするまでもなく、まなか先生はそのまま逃げて行ってしまいました。

 イエス様が“耳に指を入れる”なんてことをしたのはおそらく、「今からわたしがあなたの耳を開く」ということを分からせてあげるためでした。言葉で説明されても理解できない彼のために、イエス様は最も分かりやすい方法を用いられた。それと同じように、“唾をつけて舌にさわる”というのも、言葉が理解できない彼にとっては一番分かりやすい方法でした。「今からわたしが、あなたのこのもつれた舌を動かしてあげよう。」

 34節に〈深く息をして〉と訳されている言葉があります。この言葉を原文のギリシャ語で見てみると、単なる深呼吸というよりはむしろ、「ため息をついて」という意味の言葉です。何か重大なことが起こったり、大変なことが起こったりする時に出る「ため息」です。

 どうしてイエス様は「ため息をついた」のでしょうか? それは、重大なことが起ころうとしていたからです。“新しい時代”が始まろうとしていたからです。新しい時代の始まりは、イエス様にとって必ずしも楽しいことばかりではありませんでした。なぜなら、“古い時代”の人々との戦いがいよいよ激しくなるからです。ガリレオが「地動説」を主張した時、“古い人々”はそれを揉み消そうとしました。新しい時代が始まろうとすれば、必ずそれを拒否する人々がいます。“古い時代”と“新しい時代”の戦いが始まる。その重大な瞬間に際して、イエス様は深くため息をついた。

 天を見上げたイエス様は、父なる神様に向かって、ため息をつきながら、短く祈りを捧げたのかもしれません。「天の父よ、ついにこの時が来ました。この人を癒やせば、新しい時代の到来が明らかになるでしょう。そうすれば、古い時代の人々はわたしをますます迫害し、ついにわたしは十字架に向かうこととなるでしょう。しかし天の父よ、これがあなたの御心であれば、従います。」そのように祈りながら、深く息を吐いたのかもしれません。

 そしてイエス様は、「エパタ」と言われました。マルコの福音書はギリシャ語で書かれているのに、なぜかここではイエス様が仰った言葉をそのまま、「エパタ」というアラム語で記録しています。これはおそらく、この「エパタ」という言葉が、人々の心に強い印象を与えたからでしょう。いずれにせよ、この「エパタ」によって、彼の人生は新しく始まりました。イザヤが預言していた“新しい時代”が、弱く貧しい人々への救いの時代が、まずこの人から始まった。


〈口止めされればされるほど〉

 36節と37節をお読みします。


36 イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。しかし、彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた。」

 イエス様は、人々に口止めをします。〈このことをだれにも言ってはならない〉。イエス様にはまだやるべきことがありました。まだまだ弟子たちに教えなければならないことがあるし、もっと多くの人々に福音を伝えなければならない。けれども、もしこのタイミングで必要以上に噂が広まってしまったら、ユダヤ人の権力者たちはますます怒り狂って、すぐにイエス様を殺そうとするかもしれない。だから今はまだ、だれにも言ってはならない。

 しかし、人々は我慢できないんです。〈この方のなさったことは、みなすばらしい〉と、喜びを隠すことができないんです。彼らがこんなにも喜んだのは、ただ単に、「ものすごい奇跡を見た!すごかった!」というだけの話ではありません。彼らがこんなにも驚いたのは、「何百年も待ち望んでいた預言が成就した!」という喜びがあったからです。「“新しい時代”がついにやって来た!神様のさばきの時、貧しい人々が救われる日がやって来たんだ!みんな、聞いてくれ!」

 この時、彼らに口止めをしたのはイエス様です。しかし、ある意味、彼らに本当に“口止め”をしようとしていたのは、イエス様ではなく、むしろユダヤ人の権力者たちでした。「いや、違う!新しい時代なんて来ていない!救い主なんて来ていない!おまえたちは黙っていろ!」と言って、まるでガリレオを裁判にかけて異端扱いした当時のキリスト教会のように、新しい時代に対して“口止め”をしようとしていたのは、新しい時代を受け入れることのできない権力者たちでした。

 “新しい時代”が来たからと言って、すぐにこの世界の苦しみや悲しみが無くなるわけではありません。“新しい時代”と“古い時代”との戦いは続きます。この世界の至るところで、“新しい時代”と“古い時代”の戦いが繰り広げられています。私たちキリスト者は、イエス様に従う者として、この戦いに参加しなければなりません。今もこの世界には、貧しい人々を苦しめる古い習慣や、弱い人々を排除し続ける無意味な伝統など、さまざまな“古い時代の力”が存在しています。これらのものに対して、私たちクリスチャンは“新しい時代の力”によって立ち向かわなければなりません。

 もちろん、「古いものはすべて悪い」というわけではありません。「古いもののほうが良い」ということもあります。しかし、“古い時代の力”は消し去る必要があります。この世界を明らかに破壊している“古い力”というのは、私たちの身の回りにもあるはずです。何千年も変わらない人間の暴力や、一部の人間の利益のために成り立つ社会システム。もしくは、私たちそれぞれの中にも、私自身の中にも、“古い時代の力”があるかもしれません。もし、私たちの中に“古い力”があるのだとすれば、イエス様に取り除いていただく必要があります。イエス様の力によって、私たちも日々“新しく”されなければ、この戦いには勝てません。

 聖書が語る「永遠のいのち」というのは、ギリシャ語から訳せば、「新しい時代のいのち」とも訳せる言葉です。イエス様を信じたときから、私たちにはすでに「新しい時代のいのち」が与えられています。イエス様を信じる人は、「古い時代のいのち」によってではなく、「新しい時代のいのち」によって生きているんです。「永遠のいのち」というのは、「死んだ後は天国に行けるから、それまでのんびり暮らしていよう」というものではありません。「永遠のいのち」「新しい時代のいのち」というのは、“古い時代”に立ち向かい、戦いを挑む人たちの「いのち」です。

 イエス様も一度、この“古い時代の力”によって、“口止め”をされてしまいました。十字架という最も残酷で暴力的な“口止め”です。しかし、イエス様に対する“口止め”は、失敗に終わりました。十字架という暴力でさえ、イエス様を黙らせておくことはできなかった。イースターというのは、イエス様の復活というのは、権力者たちの悪どい“口止め”に対する勝利であるとも言えます。このイースターがあるから、イエス様の弟子たちもまた、福音を語り続けることができたんです。死者の中から復活されたイエス様が、「部屋の中に閉じこもっていないで、全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われたからです。「悪魔の口止めに負けて、黙り込んでしまってはいけない。わたしが一緒にいるから大丈夫だ」と励ましてくださるからです。

 復活のイエス様はもう、私たちに口止めをしてはおられません。私たちが黙らなければならない理由は、もう何もありません。悪魔は相変わらず、私たちを黙らせようと必死に働いています。「新しい時代なんて来ない!」と言って、私たちを諦めさせようとします。しかし、そのような“口止め”に負けてはいけません。「新しい時代がやって来た!もう古い時代は終わりだ!」と、叫び続けたいと思います。黙ってしまうことなく、諦めてしまうこともなく、ますます叫び続けたいと思います。

 最後にもう一度、イザヤ書35章からみことばをお読みします。5節と6節、そして10節。


5  そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

6  そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。 

荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

……

10  主に贖われた者たちは帰って来る。 

彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。 

楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

 お祈りをします。


祈り

 天の父なる神様。私たちは、“新しい時代”を信じて生きることができているでしょうか。“古い時代”との戦いに参加できているでしょうか。悪魔の策略によって“口止め”をされてしまい、「新しい時代なんて本当に来たんだろうか」「いや、新しい時代なんて来なかったんだ」と絶望し、黙り込んでしまうこともあります。どうか、私たちが負けてしまうことのないように、喜びと驚きを与えていてください。悪魔の策略による“口止め”に負けて、黙り込んでしまうことのないように、喜びの叫びを、“新しい時代”の希望を歌う歌を、私たちの口に与え続けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。