コロサイ1:24「なぜ教会はあなたを必要とするか」(宣愛師)

2023年11月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コロサイ人への手紙』1章24節


24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。



「教会に行く必要なんてないのでは?」

 金曜日と土曜日に一泊二日で行われたJECA東北地区の青年集会は、幸いな二日間となりました。皆さんのお祈りに心から感謝いたします。今回の青年集会のテーマは「教会のうちに生きる者の歩み」ということでしたので、私もこのテーマに沿って、「なぜ教会はあなたを必要とするか」というタイトルでメッセージをさせていただきました。それで、青年集会が終わって、青森から盛岡に帰って来まして、こちらの礼拝ではいつものようにマルコの福音書から説教をするつもりだったのですが、「青年集会のために準備したメッセージは、盛岡みなみ教会でも語られたら良い内容なのでは?」と思いましたので、今日もこうしてお話しさせていただくことにしました。

 一人の青年の話から始めたいと思います。その青年は悩んでいました。コロナ禍の中で、礼拝が全てオンラインになった。それまで当たり前のように足を運んでいた礼拝堂に行かなくなり、全てがパソコン一つで済んでしまうようになった。そんな中で青年は、一つの疑問を持つようになりました。「そもそも、教会に行く必要なんてあったんだろうか? 教会に行かなくたって、自分の家で聖書を読んだり、祈ったり、賛美をしたりすればそれでいいんじゃないか? 教会に行かなくたって、クリスチャンとして十分に信仰を守ることはできるんじゃないか? 教会に行かなくたって、自分の好きなタイミングでクリスチャンの友達と会ったりすれば、それでいいんじゃないか? 少なくとも自分は、教会に行かなくても困らない。少なくとも自分は、教会に行く必要を感じない。それなら、教会に行く必要なんてないんじゃないか?」

 彼の疑問に対して、皆さんは何と答えるでしょうか。「教会に行かなくたって、少なくとも自分の信仰生活は問題ないのではないか」と悩んでいるこの青年に対して、皆さんだったら何と答えるでしょうか。一つの正解があるわけではないと思いますし、場合によっては答え方を変えなければならないことや、そもそも答えること自体しないほうがいいこともあるでしょう。それを踏まえた上で、私なりの答えを皆さんにお話しできればと思っています。「教会に行く必要なんてないのでは?」と悩む青年に対する、私なりの答え方です。

 コロサイ書1章24節で、パウロは少し不思議なことを言っています。


24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。

 普通、私たちが求める教会とは、祝福を受け、励ましを受け、喜び楽しむことのできるものであると思います。教会に行けば、元気がもらえる。教会に行けば、信仰が励まされる。そういう教会を、私たちは求める。しかし、パウロにとっての教会とは、「キリストの苦しみの欠けたところを満た」す場所でした。「キリストの苦しみ」というのは、イエス様の十字架のことです。でも、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、イエス様の十字架の贖いが不十分だったとか、イエス様の十字架だけでは救われない、という意味ではありません。そういう意味ではありませんが、それでもパウロは、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるのだと言うんです。そして、その「欠け」を満たすために、「教会のために」苦しんでいるんです。

 自分の家で聖書を読み、祈り、賛美をし、好きな時だけクリスチャンの友人と会ったりする。それも素晴らしい信仰生活かもしれません。クリスチャンたちそれぞれが、一人だけでそれぞれの信仰を守れれば、わざわざ教会に集まる必要なんてないのかもしれません。でも、それだけで「キリストの苦しみの欠けたところを満た」すことができるのでしょうか。


東中野の引きこもりクリスチャン

 私は神学校を卒業してから、盛岡みなみ教会に来るまでの間、一年間だけ東京の中野教会というところでインターンをしていました。教会の3階にある屋根裏部屋のようなところに住まわせていただいて、一年間奉仕をしていました。中野教会というのは、ちょっと歩くだけで駅に着き、ちょっと電車に乗るだけで新宿とか秋葉原とかに簡単に行けてしまう、ものすごく良い立地の教会なんですが、コロナ禍真っ最中で、教会に高齢の方が多かったり、幼稚園が付いていたりもしていたので、ほとんど出かけることはなく、屋根裏部屋に引きこもっていました。せっかく東京のど真ん中に住んでいたのにもったいないなあ、と妻からはよく言われます。

 そんな生活を続けていた中で、ちょうど今くらいの季節、少し寒くなって来るような季節に、心の調子がおかしくなって来たんです。それまでの私は、人と会うことが好きで、人とお喋りすることによって元気がもらえるタイプの人間でした。でも、半分引きこもり生活を続ける中で、太陽の光もあまり浴びないような生活を続ける中で、人と会うことが面倒になってきた。Zoomで友達と喋ることさえ億劫になった。神学校時代の友達とZoomをする約束をした時も、約束をした時点ではすごく楽しみだったんですが、当日になってから、「ごめん、やっぱ無理」と断りました。

 心の調子がおかしくなって、一人で部屋に閉じこもっていた私には、一人で聖書を読むとか、一人で祈るなんてことは、全くできませんでした。生活が崩れていました。でも、それでも私は教会に行きました。なぜ教会に行き続けたのか。分かりますか? インターン生だったからです。私は教会の3階に住んでいて、すぐ下の2階が礼拝堂だったからです。教会学校や青年会の奉仕を任されていたからです。だから私は教会に行き続けました。礼拝に参加し続けました。その頃の私には、人に会いたいという気持ちはありませんでした。その頃の私にとって、教会は必要な場所ではありませんでした。インターン生という肩書きが無ければ、だんだんと信仰生活からフェードアウトしていたかもしれません。

 しかし、教会に集まる子どもたちが、青年たちが、おじいちゃんやおばあちゃんたちが、私に会うことを喜んでくれました。そして時には、それぞれの悩みを分かち合ってくれました。その頃の私は教会を必要としていませんでした。でも、教会は私を必要としてくれていました。そしてそのおかげで、一人では聖書を読むことも祈ることもできなかった私は、少しずつ信仰と健康を取り戻していきました。

 「教会に行かなくたって別にいいじゃないか。一人で聖書を読んで祈っていればそれでいいじゃないか。会いたくなったときにクリスチャンの友達に会えればそれでいいじゃないか。」たしかにそうかもしれません。でも、それができない人たちもいると思うんです。一人で信仰を守ることが難しい人たちもいると思うんです。そして、そのような兄弟姉妹は、あなたを必要としているかもしれないんです。別に具体的な奉仕がなくてもいい。良い奉仕者だからとか、役に立つとか、そういうことではない。あなたが教会にいてくれるだけで、信仰が励まされる人たちがいると思うんです。そしてもしかすれば、もしかすれば、そのようにして兄弟姉妹から必要とされるということが、あなたにとっても必要なことかもしれないんです。

 教会に行くことが億劫になることもあるでしょう。一人でいたほうが楽だと思うことがあるでしょう。しかし、それでも、教会にはあなたが必要です。もちろん時には、あまりにも多くの奉仕を担い過ぎたり、あまりにも多くの責任を任せられ過ぎたりして、疲れ果ててしまって、教会に行くこと自体をしばらく止めたほうがいい、そんなこともあるかもしれません。あまりに多くの重荷を背負ってしまったときには、その重荷を降ろしてしばらく休んだほうが良いということもあるでしょう。でも、それでも教会にはあなたが必要なんです。そして、あなたを必要とする教会が、信仰者として生きようとするあなたには必要なんです。


「互いの重荷を負い合いなさい」

 パウロは次のように言いました。「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」苦しみを喜びとするなんて、パウロにはもしかしてMっぽい気質があったのだろうかと心配になってしまいますが、たぶんそういうことではない。でも確かに、パウロの喜びは、教会のために受ける苦しみを通して、確かなものとなっていきました。パウロの信仰は、教会のために働き、教会のために苦しむ中で、ますます確かな信仰となっていきました。

 もちろん、パウロは独りぼっちではありませんでした。パウロの苦しみを理解してくれる仲間たちがいました。同じコロサイ書4章を見てみると、多くの仲間たちが、教会のために苦しむパウロの苦しみをともに苦しんでいたことが分かります。コロサイ書4章10節から12節を読んでみます。


4:10 私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。
11 ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼のある人では、この三人だけが神の国のために働く私の同労者です。彼らは私にとって慰めになりました。
12 あなたがたの仲間の一人、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。

  パウロは一人ぼっちではありませんでした。パウロは教会のために苦しむ人でしたが、それと同時に、教会とともに苦しむ人でもありました。多くの仲間たちとともに苦しみを分かち合う教会の交わりの中で、パウロの喜びは本物の喜びとなっていきました。別の手紙の中で、パウロは次のようにも言っています。ガラテヤ人への手紙6章2節をお読みします。


6:2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

 「キリストの律法」とは、私たちクリスチャンの目標です。少なくともパウロにとっては、「互いの重荷を負い合」うということこそがキリスト教でした。教会に行くということは、重荷を負い合うということは、面倒なことかもしれません。でも、そこにおいて私たちの目標は成就される。

 最後に一つ、私が大好きな物語をご紹介して終わりたいと思います。ウィリアム・ウィリモンという牧師が教えてくれた物語です。


 この話は、ずっと昔にミシシッピに住んでいたアメリカ先住民の小さな部族の物語です。その部族は急流の川の近くに住んでいました。その川は流れが非常に激しくて、渡ろうとしても流されて溺れてしまうため、向こう岸まで渡ることのできた人はだれもいませんでした。
 ある日のこと、敵の部族が村を襲いました。村人たちはその川を背にして闘いましたが、急流の中以外どこにも逃げ場がなくなりました。生き延びるにはもはや川を渡るしかない。村人たちは覚悟しました。そこで、まず部族の幼い者たちと年老いた者たちが集められました。そして、強い者たちがこれらの弱い者たちを肩にかついで、川を渡りはじめました。すると驚いたことに、肩の上の仲間の重みによって足をしっかりとつけることができ、ついにその急流を渡りきり、無事に逃げることができました。

ウィリアム・H. ウィリモン『教会を必要としない人への福音』平野克己・笠原信一共訳、日本キリスト教団出版局、2008年、151-152頁

 一人でいるほうが楽な時があるでしょう。実際、一人で休まなければならない時もあります。一人で神様と向き合わなければならない時もあります。でも、それだけでは、信仰を守り通すことはできない。なぜなら本物の信仰とは、苦しみを分かち合う教会の交わりの中で育まれるものだからです。最後にもう一度言います。教会にはあなたが必要です。そしてあなたには、あなたを必要としてくれる教会が必要です。一人で重荷を背負いすぎてはいけません。でも、重荷がなければ、川を越えることもできないんです。互いに重荷を負い合うことによって初めて、私たちは激しい人生の荒波の中でも、溺れることなく進んで行くことができます。なぜ教会はあなたを必要とするのでしょうか。なぜ神様は、教会があなたを必要とするようにされたのでしょうか。それは、実のところあなたにも、一人で信仰を守っていけると思い込んでいるあなたにこそ、教会に必要とされ、教会とともに生きることが必要だからです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちが一人ぼっちにならないようにと、あなたは教会を造ってくださいました。でも、正直なところ、ごめんなさい、ときどき教会が面倒になってしまうのです。教会なんて無くてもいいんじゃないかと思うのです。むしろ、教会が重荷になりすぎて、一人で信仰を守っていくほうが楽だと思うこともあります。でも本当は、私たちには教会が必要です。どうか、ここにいる私たちの中に、重すぎる重荷を背負っている人がいるのでしたら、その人の重荷を軽くしてあげてください。どうか、ここにいる私たちの中に、背負うべき重荷を見失って、足取りがふらついている人がいるのでしたら、その人に重すぎない、ちょうどいい重荷を分けてあげてください。そのようにして私たちが、イエス様の苦しみを分かち合い、その欠けを満たしていく、そのような教会として歩み、確かな信仰を育んでいくことができるように、聖霊様の豊かな交わりをますますお与えくださいますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。