マルコ8:11-21「まだ証拠が足りないのか」(宣愛師)

2023年5月21日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』8章11-21節


11 すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。
12 イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません。」
13 イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた。

14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。
15 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」
16 すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。
17 イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。
18 目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
19 わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
20 「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。
21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」



パリサイ人の“高慢”

 先日、一つの興味深い記事を読みました。2022年に書かれた National Geographic の記事です。その冒頭には次のように書かれていました。「1973年以来、アメリカ合衆国では8,700人以上の人々が死刑囚として投獄されたが、少なくとも182人は無罪だった」。実際には罪を犯していないのに、死刑判決を受けてしまった人が、この50年間で182人もいた、というわけです。

 なぜこのような冤罪事件が起こってしまうのでしょうか。その記事によれば、冤罪事件の三分の二以上で、警察官や検察官による証拠隠滅などの不正行為が行われていたとのことです。「この人は犯人ではない」と示す証拠が出ているのに、それを隠してしまう。すでに十分な証拠が出ているのに、それを隠して、無理やり有罪判決に持っていこうとする。

 11節を改めてお読みします。


11 すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。

 〈パリサイ人たちがやって来て……イエスを試みようとした〉とあります。〈イエスを試みようとした〉というのは、“イエスが本物の救い主キリストであるのか、それとも偽キリストであるのかを確かめようとした”という意味です。「もしお前が本物のキリスト、救い主メシアであるなら、何かものすごい奇跡を見せてみろ。確かな証拠を見せてみろ」と言って、イエス様を試みた。

 それに対して、イエス様は次のようにお答えになります。12節と13節。


12 イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません。」
13 イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 「なぜおまえたちは証拠を求めるのか。おまえたちには証拠は与えられない。」イエス様はこう言って、パリサイ人たちから離れていきます。おそらく、証拠を求めること自体は、悪いことではありませんでした。もしパリサイ人たちが、真心からイエス様を信じたくて証拠を求めたなら、イエス様も彼らに証拠を与えてくださったかもしれません。

 しかし、彼らが「証拠を出せ」と言ったのは、イエス様を信じたかったからではなく、イエス様が偽メシアだということを証明するためでした。それが〈イエスを試みようとした〉ということです。その試みを見て、イエス様はため息をついてガッカリされた。

 キリスト教には、「聖書論」とか、「教会論」とか、「人間論」という風に、様々な学問の分野がありますけれど、その中に「弁証論」というものがあります。「弁証論」というのは、「キリスト教は本当に信じるに値するのか?」「キリスト教は嘘つきなのではないか?」という批判に対して、様々な証拠を示して反論をするという分野です。私自身はクリスチャンの家庭で生まれましたが、高校生くらいになると「納得できる証拠や根拠がなければ信じないぞ」と思うようになったので、様々な「弁証論」の本を読みました。ですから今でも、「キリスト教が信じられる根拠は何か」と尋ねられれば、色々な証拠や議論をお伝えすることができます。

 しかし、そうやって証拠や議論を並べ立てたとしても、信じる人は信じるけれど、信じない人は信じません。私からすれば、「ちゃんと考えれば十分な証拠が揃っているはずなのに」と思うわけですが、信じない人からすれば、「いや、十分な証拠は揃っていない。これじゃ信じられない」というわけです。「もっと確実な証拠がなければ、自分は信じません」と。

 そんなふうに証拠を求め続けている人というのは、確実な証拠があれば信じるのかと言えば、実はそうでもなかったりするんですね。「十分な証拠が無いから信じない」と言いながら、本当は“信じたくないから証拠が足りないことにしている”だけかもしれない。イエス様を信じると、自分にとって色々と不都合が起こるから、どれだけ証拠が揃っていても、最初から信じるつもりがないのかもしれない。

 そういう人たちに対してイエス様は、「これ以上の証拠は与えられないよ」と断言されました。「あなたたちの態度が変わらなければ時間の無駄じゃないか」と。イエス様はパリサイ人たちから離れて、舟に乗り込みます。「最初から信じるつもりもない人々のために時間を使うくらいなら、一緒にいる弟子たちのために時間を使ってあげたほうが良い」と思われたのかもしれません。


弟子たちの“鈍感”

 14節と15節をお読みします。


14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。
15 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」

 〈パリサイ人のパン種とヘロデのパン種〉というのはおそらく、“イエス様を信じようとせず、粗探しばかりをする人々の教え”という意味です。パリサイ人たちも、ヘロデとその部下たちも、イエス様の粗探しばかりをしているような人々でした。イエス様が救い主であることを認めようとしない頑なさ。頑固さ。それが〈パリサイ人のパン種とヘロデのパン種〉です。

 〈パン種〉というのは、今の言い方で言えば、パン生地を膨らませるイースト菌のことです。パン種がちょっと入り込んだだけでも、パン生地の全体がたちまちに膨らんでしまう。イエス様を信じず、粗探しをするような頑固さが、あなたがたの中に入り込んで、膨らんでしまうことのないよう気をつけなさい。イエス様はそのように、弟子たちに注意を促しました。

 ところが弟子たちには、イエス様が言いたいことが全く伝わっていませんでした。イエス様は信仰のことについて話しているのに、弟子たちは食糧のことしか考えていないんです。16節から21節まで。


16 すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。
17 イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。
18 目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
19 わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
20 「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。
21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

 「どうしよう、パンが一つしかない!」「なんだって?おい、今日の食事当番は誰だ?」「さっきあいつがつまみ食いしてました!」みたいな風に、ああだこうだと言い合っていたのかもしれません。そんな弟子たちに対して、イエス様は問い詰めます。〈なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。〉あなたたちが気にするべきことは、もっと別のことじゃないか?

 弟子たちにとって重要だったことは、“パンを持っているかどうか”でした。しかし、イエス様が弟子たちに考えてほしかったことは、“パンを持っているかどうか”ではなく、“救い主がともにいるかどうか”でした。イエス様が真の救い主であるということ、そしてイエス様が一緒にいれば何も心配する必要はないということ。そのことに注目してほしくて、イエス様は「パリサイ人たちのパン種に気をつけなさい」と言ったのに、弟子たちは目の前のパンの数しか気にしていない。

 パリサイ人たちがイエス様を信じなかったのは、彼らが“傲慢”という罪を持っていたからです。十分な証拠が与えられていたにもかかわらず、パリサイ人たちがイエス様を信じようとしなかったのは、最初から信じるつもりがなかったからです。その一方、弟子たちはパリサイ人とは違って、イエス様を信じるつもりでしたし、粗探しをするつもりもなかったでしょう。しかし、弟子たちもまた、十分すぎるほどの証拠が与えられていたにもかかわらず、イエス様を信じられませんでした。それは、弟子たちが“鈍感”という罪に囚われていたからです。十分な証拠が与えられていたのに、その証拠の意味が理解できていなかったんです。


まだ証拠が足りないのか?

 私はクリスチャンの家庭で育って、聖書の話もいっぱい聞いて育ったので、小さな頃からイエス様のことはなんとなく信じていました。でも、「洗礼を受けたい」という一言が、なかなか言い出せなかったんですね。いまいち決め手に欠けるなあ、という感じがしていたからです。

 他のクリスチャンたちの話を聞くと、「イエス様を信じる前はめちゃめちゃ不良だったけど、聖書を読んで人生が180度変わりました」とか、「人生に絶望していた時に、突然神様の声が聞こえて、その日から信じました」とか、すごいはっきりとしたきっかけみたいなのを話している人が多くて、「ああ、自分にもそういうきっかけがあればなあ」みたいなことを思っていました。

 その後、中学生の時に一つの聖書のみことばに出会って、「これだ!よし、洗礼を受けよう!」と思い立つことができて、中学3年生のイースターに洗礼を受けましたけれど、それでもやっぱり小さな頃からイエス様のことは信じていたし、めちゃめちゃ不良だったわけでもなかったので、「人生が180度変わった!」みたいな感じはしなかったわけです。

 なので、洗礼を受けた後も私は、「ああ、自分も他のクリスチャンみたいに、もっとはっきりとしたきっかけがあれば、今よりも強くてしっかりとした信仰になるかもしれないのになあ」とか思ったりしたんですね。これは今でも思います。なんだか自分の信仰は生ぬるい気がして、もっと良いきっかけがあれば、なんて思ったりするんです。

 「もっとはっきりとした証拠があれば、自分はもっと強く信じられるのに。」私はずっとそう思って来ましたし、今でもそう思ってしまいます。でも、そんな私に対してイエス様はきっと、「いや、もうすでに証拠は十分じゃないか。おまえが覚えていないだけじゃないか。おまえが信じようとしないだけじゃないか」と仰るだろうなと思うんです。

 「180度変わった!」みたいな経験がなかったとしても、イエス様を信じる証拠は十分すぎるほど与えられている。あとはその証拠を、自分がしっかり受け止めれば良い。自分の信仰の弱さを、イエス様のせいにしてはいけない。「もっと確かな証拠をくださいよ!」とイエス様に文句を言う前に、自分の高慢さや鈍感さに気づかなければならない。

 このあと、『望みも消えゆくまでに』という讃美歌をご一緒に歌いますが、この曲の歌詞は次のようになっています。


望みも消えゆくまでに
世のあらしに悩むとき
かぞえてみよ主の恵み

なが心はやすきをえん

かぞえよ主の恵み
かぞえよ主の恵み
かぞえよひとつずつ

かぞえてみよ主の恵み

教会福音讃美歌413番『望みも消えゆくまでに』1節

 私にとって小さな頃から慣れ親しんだ曲で、大好きな讃美歌の一つですけれども、今回の説教を準備するまで、自分はこの歌詞の意味を誤解していたかもしれないなあと思いました。この曲が何度も「かぞえよ主の恵み」と語るのは、てっきり「神様にちゃんと感謝しないと、神様ががっかりしちゃうよ」みたいな意味だと思っていましたが、この曲の歌詞を改めて読んでみたら、おそらくそういうことではなさそうだ、と。

 この曲が伝えようとしているのは、「感謝しないと神様ががっかりする」ということではなく、「感謝することはあなたの信仰を強める」ということです。「望みも消えゆくまでに  世のあらしに悩むとき  かぞえてみよ主の恵み  なが心はやすきをえん」。「どんなに絶望的な状況でも、主の恵みを思い出せば、あなたの心に平安が与えられる」というのは、そういうことでしょう。

 しかし、絶望的な状況の中で、主の恵みを思い出すというのは、難しいことです。「いつも主の恵みを覚えていたい」と思いつつ、いざ大変な状況に陥ると、あっという間に忘れてしまう私たちかもしれません。そんなどうしようもない私たちのために、イエス様は「あの時、いくつのかごがいっぱいになりましたか」と尋ねてくださる。「あの時、どんな恵みが与えられたか、覚えているかい?」と尋ねて、思い出させようとしてくださる。困難にぶつかって、あたふたしてしまって、自分では主の恵みを数えることさえできない私たちを見かねて、イエス様が数えさせてくださる。

 「目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか」というイエス様の問いかけは、とても厳しい問いかけです。しかし、そうやって問いかけてくださること自体が、イエス様のあわれみだなあと思うんです。目の前のことしか見えなくなってしまう私たちの愚かな目。一度聞いてもすぐに忘れてしまう私たちの愚かな耳。そういう私たちの愚かさや弱さをよく知っていてくださるイエス様が、私たちの耳や目を開こうとして、忍耐強く何度も何度も問いかけてくださる。

 私たちにはすでに、十分すぎるほどの恵みが与えられています。イエス様を信じるための証拠は十分すぎるほど与えられています。足りていないのは証拠ではなく、その証拠に対する私たちの態度です。主の恵みを数えましょう。数えさせていただきましょう。「パンが足りない。あれが足りない。これが足りない」と右往左往するような信仰ではなく、「イエス様がいれば大丈夫だ」と安心できる信仰を持てるように祈りましょう。「もっと証拠をください」という自分勝手な祈りではなく、「頑なで鈍感な私の心を開いてください。あなたの恵みを思い出させてください」という祈りによって、謙遜になって願い求めましょう。お祈りをいたします。


祈り

 神様。あなたがすでに与えてくださっている数多くの証拠を、十分すぎるほどの恵みを、私たちはどれほど見落としてきたでしょうか。「もっと証拠をください。そうすれば信じられます」と、どれだけ自分勝手な祈りを重ねて来たでしょうか。どうか神様、私たちの頑なな心を開いてください。一度聞いても理解できない私たちの鈍感な耳を、目の前のことばかりを見てしまう愚かな目を開いてください。あなたの恵みをよく覚え、悟り、確かな信仰を持つことができますように。どんなに絶望的な状況にあったとしても、あなたの恵みを数え、あなたにますます信頼し、平安を得る者となることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。