Ⅰヨハネ3:16-20「愛が分かったのです」(宣愛師)

2023年6月11日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの手紙 第一』3章16-20節


16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。



「愛が分かったのです」

 もともとの予定ではマルコの福音書を読むつもりでしたが、今日は予定を変更して、ヨハネの手紙を開きたいと思いました。変更の理由はいくつかありますが、一番大きな理由は、先週の聖書箇所のテーマだった「いのちを捨てる」ということを、もっと深く、強く、私たちの心に刻みたいと思ったからです。まずは16節の前半をお読みします。


16a キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

 「それによって愛が分かった」というのは、とても正直な言葉だなあと思います。「それまでは、私たちには愛が分からなかった」という告白だからです。「それによって、愛が分かったのです。それまでは、愛が分かっていなかったのです。愛とは何なのか、分かっていなかったのです。」

 「愛」とは何か。私たちは分かったつもりかもしれません。小説を読んだり、漫画を読んだり、映画を観たりして、「ああ、これが愛か」と分かったつもりでいる。そして、分かったつもりの「愛」という言葉で、「いつまでも君を愛しているよ」と言ってみたり、「自分は本当に愛されているんだろうか」と悩んだりする。「もっと愛してもらうにはどうしたらいいんだろう」と考えて、優しい人間になろうとしてみたり、勉強や仕事をがんばってみたり、有名人になろうと努力してみたりする。

 しかし、聖書が語るのは、「キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださった時に初めて、私たちには愛が分かった」ということです。小説や映画の世界ではない。イエス様が、十字架にかかって、私たちのために死んでくださった。血を流してくださった。痛みに耐えてくださった。

 どうしてイエス様は、私たちのために死んでくださったのでしょうか。私たちが優しい人間だったからでしょうか。勉強や仕事をがんばっていたからでしょうか。有名人だったからでしょうか。そうじゃない。でも、それならどうして、イエス様は私たちのために死んでくださったのか。

 私たち人間が考える「愛」は、「だからの愛」です。「あの人は優しい人だ。だからあの人を愛している。」「あの人は頭が良くて尊敬できる。だからあの人を愛している。」「あの人には色々とお世話になった。だからあの人を愛している。」これが、私たち人間が考える「愛」です。

 もちろん、こういう「愛」が悪いというわけではありません。優しい人を愛したくなるのは良いことだし、尊敬できる人やお世話になった人を愛するのも良いことです。でも、こういう「だからの愛」だけでは、私たちの心は満たされません。なぜなら、「だから」というのはいつでも、逆の方向に進む危険があるからです。「勉強をがんばって良い成績を保ってきたけれど、最近は全く点数が取れなくなってしまった。だから、私はきっと愛されなくなる。」「自分は色々な才能や能力のある人間だったけれど、歳を取って身体が動かなくなったら、誰の役にも立たない人間になった。だから、私はもう誰にも愛されない。」「いつも優しい人間であろうと努力しているけれど、今日は大切なあの人を傷つけてしまった。だから、私は今日から愛されない。」

 しかし、イエス様が教えてくださった「愛」は、「だからの愛」ではなく、「だけどの愛」です。「あなたは勉強が得意ではない。だけど、わたしはあなたを愛している。」「あなたは歳を取って、思うように動けないかもしれない。だけど、わたしはあなたを愛している。」「あなたは優しい人間ではない。だけど、わたしはあなたを愛している。」イエス様は、私たちのためにいのちを捨ててくださった。何の役にも立たない罪人を救うためにいのちを捨ててくださった。「罪人だから、愛していない」ではなく、「罪人だけど、愛している」。


「ことばや口先だけではなく」

 16節後半から18節をお読みします。


16b ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

 イエス様に愛され、本当の「愛が分かった」私たちは、周りの人々を愛するようになっていきます。しかも、形だけの愛ではない。「兄弟のために、いのちを捨てる」ほどの愛です。「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」と言われる愛、目に見える愛です。

 17節には、「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」とあります。もし神の愛を知っているなら、神様に愛されているなら、どうして兄弟姉妹を愛さないのか。周りの人々を愛さないのか。「この人にこれをあげるのはもったいない」「あの人にこんなにも良くしてあげるなんてもったいない」「自分だってそんなにお金持ちじゃないんだし」と言って、なぜブレーキをかけてしまうのか。いのちを捨てるつもりで愛しなさい。たとえ、相手から何もお返しがもらえないとしても、それでも愛しなさい。あなたの持っているものを与えなさい。

 しかし、そうやって誰かを愛そうとしても、その愛を受け取ってもらえない、ということもあるでしょう。残念ながらこの世界には、“受け取ってはいけない愛”というものがあるからです。たとえば、最近ニュースにもなっていた、「グルーミング」という犯罪の手口があります。「グルーミング」というのは、インターネットやSNSなどで大人が子どもに話しかけ、親切に話を聞いてあげたり、優しくしてあげたりして、子どもがその大人をすっかり信じるようになったところで、外に連れ出して犯罪を行うという手口です。「愛」を使って子どもたちの心を奪い、悪さを働くんです。

 そういう卑劣な大人たちの「愛」はもちろん、偽物の愛ですから、絶対に信じてはいけません。優しくされたとしても、「何か裏があるのかもしれない」と、疑わなければいけません。騙されることのないように、愛を差し出されても、簡単に受け入れてはいけない……。そのせいで、そういう偽物の「愛」がはびこっているせいで、私たちは愛を素直に受け取れなくなってしまいました。誰かに愛されても、その愛をいつも疑って、「この人の愛は本物だろうか」とチェックしなければならなくなってしまいました。

 どうすれば、本物の愛を見分けることができるのでしょうか。それは決して簡単なことではありません。でもやっぱり、「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」ということに尽きると思います。「この人の愛は、自分を騙すための愛ではなく、本物の愛だ」と分かるのは、「行いと真実」がともなっているかどうか。もっと究極的なことを言えば、「この人は自分のために死んでくれるかどうか」です。「ことばや口先だけ」で自分を丸め込もうとしているのか、それとも本当に自分を愛しているのか。この人は自分のために犠牲を払ってくれるだろうか。

 「愛」を疑わなければ生きていけない時代です。息苦しい時代です。しかし、そのような時代だからこそ、本物の愛で愛する人々が必要です。誰かのためにいのちを捨てる用意のある愛。裏切られても愛し続ける愛。盛岡みなみ教会は、このイエス様の愛を目指して集まる共同体です。偽物の「愛」に傷けられ、愛を信じることができない人々が大勢いるこの時代に、イエス様の本物の愛があることを証しするために、「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」と勧められているんです。


「たとえ自分の心が責めたとしても」

 19節と20節をお読みします。


19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。

 ここで注目したいのは、20節の御言葉です。「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。」私たちは、イエス様に愛されたように、周りの人を愛せるようになりたいと思います。でも、そうすることができない自分がいて、自分の心が自分を責めてしまうこともある。「おまえはまた人を傷つけたのか。おまえは本当にダメな奴だな。おまえはクリスチャン失格だ」と、自分で自分を責めてしまう。

 そして再び、「だからの愛」に縛られてしまう。「こんな私は愛される資格がない」と考え始めてしまう。「自分は人を愛することができない。だから、自分は愛される資格がない。」「自分は他の人のためにいのちを捨てることができない。だから、神様は私を愛しておられない。」

 しかし聖書は、「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます」と語ります。私たちは不完全な愛しか持っていない。完全な愛で愛することができない。でも、そんな当たり前のことは、私たちよりも、神様のほうがよく分かってくださっている。「すべてをご存知」の神様は、私たちの弱さも罪もすべてご存知でいてくださる。人を愛することができない、人のためにいのちを捨てることなんてできない、そんな私たちの罪をよくよく知っていてくださって、そんなことは百も承知で、その上で、私たちのためにいのちを捨ててくださった神様が、今日も私たちを愛してくださっている。「だけどの愛」で、愛し続けてくださっている。

 「こんな自分が愛されるはずがない」と決めつける時、私たちは「愛」を分かったつもりでいます。分かったつもりの愛に囚われているんです。私たち人間には愛が分からない。愛が何なのか、本当は分かっていない。この事実を認めることから、本当の愛を知る人生が始まります。

 大切なのは、あなたがどう思うかではなく、イエス様が何と言われるかです。イエス様はあなたを愛しているのに、あなたのためにいのちを捨てられたのに、そのことに文句を言って、「いや、こんな自分が愛されるはずがない」と決めつけるなら、あなたはイエス様を嘘つき呼ばわりすることになります。「私なんて誰にも愛されない」というあなたの言葉が本当で、「それでもあなたを愛している」というイエス様の言葉が嘘なのでしょうか?

 「だけどの愛」で、今日も愛されています。疑う必要のない、安心すべき、本物の愛があります。すぐに信じられなくてもいいんです。少しずつでも、疑いながらでも、確かめていけばいいんです。イエス様の愛は、あなたを裏切りません。イエス様の愛は、あなたを見捨てたりはしません。イエス様はあなたに、「愛が分かった」と言ってほしいんです。「イエス様のおかげで、愛が分かった」と言ってほしいんです。「愛が分かったのです。こんな私にも、愛が分かったのです。」そのように確信できる日が来るまで、私たちはこれからも一緒に、この盛岡みなみ教会で一緒に、イエス様の愛を知り続けていきたいと思います。お祈りをします。


祈り

 神様。自分で「愛」が分かったつもりになっていました。でもそれは、「だからの愛」でした。何かができれば愛されるけど、何かができなければ愛されない。そんな「愛」しか知りませんでした。しかし、何もできない私を、何の資格もない罪人の私を、愛してくださった愛があることを知りました。どうか神様、この愛がもっと分かるようになるまで、私を見捨てないで、愛し続けてください。偽物の「愛」に傷ついた人々がこの多い時代に、どうか私たち盛岡みなみ教会を通して、あなたの愛を伝えさせてください。「ことばや口先だけ」ではなく、いのちを捨てて愛する愛を、私たちを通して広げてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。