マルコ9:14-29「祈りの中にいなければ」(宣愛師)

2023年7月16日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』9章14-29節


14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」



「祈りの中にいなければ」

 まずは、14節から18節までの部分をお読みします。


14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

 イエス様の弟子たちが、律法学者たちと論じ合っていた。おそらくこんなことを論じ合っていたのでしょう。「おいおい、おまえたちはあのイエスという奴の弟子たちなんだろう? それなのに、どうして悪霊を追い出すことができないんだ?」と、律法学者たちが弟子たちを責め立てる。それに対して弟子たちは、「いやいや、今日はたまたま調子が悪かっただけですよ。明日もう一度試してみれば、きっと追い出せるはずです」などと、言い訳がましく答えていたのかもしれません。

 しかも15節には、「群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚」いた、とあります。なぜ群衆たちは、イエス様を見て驚いたのか。その理由は分かりませんけれども、少なくとも分かることがあります。それは、「もうすぐイエス様が来てくださるはずです」とは、弟子たちが言わなかったということです。もし弟子たちが、「私たちには悪霊を追い出すことができないけれど、イエス様がきっと助けに来てくださるはずだ。イエス様が来れば大丈夫だ。だから、もうしばらくここで待ちましょう」と言っていれば、群衆たちはイエス様を見て驚いたりしなかったはずです。しかし弟子たちは、イエス様が来て助けてくださるなんて一ミリも考えず、自分たちの力で問題を解決しようとして、でもそれができなくて、結局は議論をすることしかできなかった。

 実は、以前の弟子たちは、悪霊を追い出すことができたんです。マルコの福音書6章を見てみれば分かるんですが、以前は弟子たちにも悪霊を追い出すことができたんです。弟子たちはイエス様から力を頂いて、権威を頂いて、イエス様の力と権威によって、悪霊を追い出していた。それではなぜ、今はそれができなくなってしまったのか。9章28節と29節をお読みします。


28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」

 なぜ弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのか。イエス様の答えはシンプルです。「祈りによらなければ」です。この言葉は、「祈りの中にいなければ」と翻訳することもできます。「祈りの中にいる」ということは、自分の力でやろうとしない、ということです。しかし弟子たちは、祈りの外に出てしまった。自分の力を信じ始めた。

 ある牧師の話を思い出します。少し汚い話ですけれども、その牧師がこんな風に言うんです。「私は、トイレに行く度に、神様に感謝するんです。おしっこをする度に、うんちをする度に、神様に感謝の祈りを献げるんです。『神様、今日もおしっこができて感謝します。うんちができて感謝します』と祈るんです。」初めて聴いたときは、「なんだか変なことを言う人だなあ」と思いましたけれど、でも今では、「祈りの中にいる」というのは、そういうことなんだなと納得するんです。トイレで用を足すことだって、当たり前のことではない。身体が健康でなければ、神様が私たちの健康を守ってくださるのでなければ、何をすることもできない。私たちには、自分の心臓を自分で動かすことさえできない。ただ神様の権威の中で生きている。生かされている。

 子どもの頃や、神様を信じたばかりの頃は、どんな時にもお祈りしたものです。食事の前には、「おいしいごはんを感謝します」と素直に祈る。でもいつの間にか大人になって、色々なことが自分でできるようになって、たとえばお金を稼ぐようになって、自分で食事の用意をするようになって、「ごはんを感謝します」という祈りが疎かになっていく。だって、自分で用意したごはんなんだから。自分で稼いだお金なんだから…。

 こうして、祈りの中にいたはずの自分が、いつの間にか祈りの外に出て、一人で生きていけるかのように思い込む。祈らなくても生きていけるようになる。自分の力で生きているように錯覚する。そして、少しずつ高慢になる。自分で稼いだお金。自分で整える生活。自分で解決する問題。気づけば祈りの外に出てしまっている。神様への感謝を忘れる。悪霊の力に打ち勝てなくなる。19節をお読みします。


19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 自分の力では無理だと分かっているのに、イエス様が帰って来てくださるのを待つことさえしないで、ただ議論を繰り返している。言い訳を並べ立てている。そんな弟子たちの不信仰に、いや、弟子たちだけではない、私たちも含めた全ての人間の不信仰に、イエス様はほとほと呆れておられる。「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 怖い言葉です。イエス様は怒っておられる。でも、これは恵みに満ちた言葉でもあるはずです。「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」というのは、言い換えれば、「いつになったら、あなたがたは私を心から信頼するようになるのか」ということです。「いつになったら、あなたがたは自分の力に頼ることを止めるのか」ということです。「自分たちの力でやろうとしないで、わたしのところに来なさい。どうして自分たちの力で立ち向かおうとするのか。」

 イエス様は、「もっとがんばれよ!」と言って、怒っているわけではないんです。「もっとがんばれよ!」「もっと努力しろよ!」ではない。そうではなくて、「なんで自分でやろうとするんだ!どうしてもっとわたしに頼らないんだ!」これがイエス様の怒りです。恵み深い怒りなんです。


「できるなら、と言うのですか」

 20節から23節までをお読みします。


20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 悪霊に憑かれた子どもが地面を転げ回る。今の時代で言えば、癲癇(てんかん)の症状に似ていますが、それ以上に激しいものだと思われます。暴れ回って、火の中に自ら飛び込んだり、水の中で溺れ死のうとする。

 でも不思議なのは、普通ならこの悪霊は、「暴れ回る霊」とか、「身体を操る霊」などと呼ばれそうなものですけれど、17節ではこの悪霊が、「口をきけなくする霊」と呼ばれ、25節でも、「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」と呼ばれていることです。もちろん、暴れ回ることは問題です。火や水の中に飛び込もうとすることも問題です。しかし、それは根本的な問題ではないのかもしれない。もっと根源的なところには、「口がきけない」「耳が聞こえない」ということがある。何が言いたいのか分からない。分かってあげられない。こちらの言いたいことも通じない。これこそが一番深いところにある問題なのだと。

 口がきけないから、耳が聞こえないから、暴れ回ることしかできない。言葉が通じない。心が通わない。誰も自分の気持ちを分かってくれない。分かり合える人がいない。悪霊の力は、今の時代にも働いています。今の時代こそ、目に見えにくい形で、至るところに広がっているとも言えます。私たちの社会の中に染み込んでいるんです。自分のことを分かってくれる人がいなければ、人は生きていけません。誰にも心が通じないのであれば、生きていくことはできない。

 「私たちをあわれんでお助けください」と父親は懇願します。悪霊に憑かれた子どもだけではない。父親にも、家族にも、限界が来ている。愛する子どもが一人で苦しんでいる。でも、分かってあげられない。もはや、「この子をお助けください」ではない。「私たちをお助けください。」ここには、分かってもらえない人の苦しみがあり、分かってあげられない人の苦しみがあります。

 イエス様は、この子どもの苦しみ、父親の苦しみを、痛いほどに感じてくださったでしょう。しかし、イエス様には決して聞き流すことのできない言葉がありました。「おできになるなら」という言葉です。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 「できれば」というのは、私たちの口癖かもしれません。「神様、できればで構いませんから、私の祈りを聞いてください。」私たちはなぜ、「できれば」と祈ってしまうのでしょうか。「もしかしたら、神様にもできないかもしれない」と疑っているのかもしれません。もしかすれば、祈りが聞かれなかったときのために、保険をかけておくのかもしれません。もし本気で信じていたのに、お祈りが聞かれなかったら、本気で信じた自分がバカみたいだから、「できれば」と保険をかけておく。本気で祈ったのに、それが叶わなかったら、自分の信仰が揺らいでしまう気がするから、「もしできればでいいんですけど」と付け加えておく。だから、現実的に叶えられそうな祈りしか祈らない。もし難しそうだったら、「できれば」と付け加えておけば、なんとなく自分の信仰が守れるような気がする。傷付かないで済むような気がする。

 もしくは、私たちが「できれば」と祈るのは、「もし神様にできなければ、自分でやってみます」という気持ちがどこかにあるからかもしれません。まだ自分の力でやれる余地があると思い込んでいるんです。神様が助けてくれなくても、他に方法があると思っているから、「できればでいいんです。できなかったら別の方法を探しますから」と祈ってしまうんです。神様以外に別の救いがあると思っているんです。別の救い主がいると思っているんです。

 「できれば」という祈りは、謙遜な祈りに聞こえるかもしれません。しかし、実のところ、こういう祈り方というのは、偶像礼拝なんです。神様以外の別の何かを信じている人の祈りなんです。もし神様以外に頼れる方がいないなら、他に信じられる方が居ないなら、「できれば」なんて祈れないはずなんです。「もうあなたしかいないんです。他に頼れるものはないんです。あなたにできなければ、私はもう終わりなんです。」これが本来あるべき祈り、信仰者の祈りであるはずです。

 最後に、24節から27節をお読みします。


24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。

 「信じます。不信仰な私をお助けください。」矛盾しているようにも思えるような祈りです。「信じます」と言いながら、「不信仰な私」と言っている。信じているのか、信じていないのか、どちらなんだと言われてしまうような祈りかもしれません。でもこの祈りは、私たちにはよく分かる祈りだと思います。「信じます」と言いたい。でも、信じきれない。本当に神様は助けてくださるのだろうかと、どうしても疑いの心が残ってしまう。「できれば」と付け加えたくなってしまう。でも、もう他に頼れる方はいない。もう他に私を救うことのできる神はいない。だからイエス様、不信仰な私をお助けください。信じきれない私をお赦しください。

 私たちは祈りの中にいたい、祈りの中で歩み続けたいと願います。お米を一粒食べることも、トイレで用を足すことも、神様の力によらなければ、本当は何もできない私たちだということを忘れて、祈りの外に飛び出してはいけません。人と人の心の繋がりを断ち切ろうとする悪霊の力に、自分たちの力で打ち勝てると思ってはいけません。人に分かってもらうことも、人を分かってあげることも、私たち人間の力では不可能なのだということを、まず認めなければいけません。イエス様だけが、人と人の心をつなぐことができるお方です。悪霊の力を追い出すことができるお方です。私たち人間の小手先が通用しない時、祈りだけが、困り果てた私たちのいるべき場所です。ただイエス様だけが、追い詰められた私たちの救い主、まことの神です。お祈りいたします。


祈り

 神様、自分の力で生きているかのように錯覚してしまう私たちです。本当は神様に頼らなければ何一つできないはずなのに、自分で心臓を動かしているかのように誤解をし、祈らず生きている私たちです。そして、気づけば悪霊の力に支配され、人の心を理解することも、理解してもらうこともできなくなってしまう、愚かで弱い私たちです。どうぞ、祈りの中におらせてください。あなたの力の中におらせてください。信じきれず疑ってしまう不信仰な者ですけれども、それでも何かをする時には必ず、祈りによって事を始め、祈りによって事を終える者とならせてください。自分の力ではどうしようもなくなったとき、議論をしたり、言い訳を並べたりするのではなく、ただイエス様が助けに来てくださるその時を、祈りつつ待ち望むことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。