マルコ10:1-12「創造のはじめから」(宣愛師)

2023年8月27日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』10章1-12節


1 イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。
2 すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。
3 イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」
4 彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」
5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。
6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。
7『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
10 家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。
11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。
12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」



「イエスを試みるために」

 今日の聖書箇所は、「パリサイ人たち」の登場から始まります。1節と2節をお読みします。


1 イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。
2 すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。

 「パリサイ人」とはどういう人たちか。簡単に言えば、“モーセの律法を全力で守る人たち”でした。モーセの律法に本気で従えば、神様に喜んでいただけると信じていた人たちです。だから彼らにとっては、「律法にかなっているかどうか」が何よりも重要でした。聖書のルールを守っているかどうか。聖書のルールを破っていないかどうか。それが彼らにとって最も大切なことでした。

 そんなパリサイ人たちが、イエス様に質問をします。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか」という質問です。「夫が妻を離縁する」というのは、今の時代で言う「離婚」と同じではありません。今の時代の「離婚」というのは、もちろん例外もありますが、基本的には夫と妻の両方の合意の上で行われるものです。しかし、昔のユダヤ人たちが行っていた「離縁」というのは、夫が妻に対して、男性が女性に対して、一方的に「離縁」するというものでした。女性が男性を「離縁」することはできないのに、男性が女性を「離縁」することはできたんです。男性にとって都合の良いルールでした。

 どうしてパリサイ人たちは、こんな質問をしたのでしょうか。その目的は、「イエスを試みる」ということでした。パリサイ人たちは、イエス様のことを妬んでいたんです。イエス様が自分たちよりも人気者になっていることが許せなかったし、イエス様が救い主として持てはやされているのが気に食わなかった。イエス様は、病気や悪霊に苦しんでいる多くの人たちを力強く助けていましたし、当時の世界で差別されていた女性や子どもにも平等に優しく接していましたが、パリサイ人たちにはそんな力はないし、そんな優しさもない。悔しい。負けたくない。だからパリサイ人たちは、「イエスを試みる」ことにしたんです。このとき、パリサイ人たちの頭の中にはおそらく、3つの作戦がありました。

 作戦その1。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか」という質問に対して、もしもイエス様が、「分からない」と答えた場合。この場合は、パリサイ人たちの勝ちになります。「分からない、だって? おいおい、このイエスという奴は、モーセの律法のことがよく分からないらしい!皆、こんな奴は信用ならんぞ!」と言って、イエス様を批判することができるわけです。

 作戦その2。もしもイエス様が、「離縁してはいけない」と答えた場合。この場合にも、パリサイ人たちはイエス様をバカにすることができます。「離縁してはいけない、だって? そいつは驚いた! モーセの律法には、離縁しても良いと書かれているじゃないか! このイエスという奴は、律法のことが全然分かっていないらしい!」と言って、イエス様の人気を下げることができる。

 作戦その3。もしもイエス様が、「離縁しても良い」と答えた場合。この場合にもやはり、パリサイ人たちはイエス様を批判することができるんです。「離縁しても良い、だって? おいおい、このイエスという奴は、普段は女性たちに優しくしているくせに、夫に離縁された妻たちのことなんて考えていないらしい! 女性たちを差別するなと教えているくせに、実際には女性たちの立場なんて気にしていないんだ!」と言って、イエス様の教えの矛盾を指摘することができるんです。

 つまり、イエス様が「分からない」と答えたとしても、「離縁してはいけない」と答えたとしても、「離縁しても良い」と答えたとしても、パリサイ人たちはイエス様を人々の前で批判できる。これがパリサイ人たちの作戦であり、「イエスを試みる」ということでした。


「ダメと書かれていないからOK」?

 このような「試み」に対して、イエス様はどのように対応されたか。3節と4節をお読みします。


3 イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」4 彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」

 イエス様は、「離縁しても良い」とも、「離縁してはいけない」とも、「分からない」とも答えず、むしろ質問に対して質問でお答えになりました。パリサイ人たちにとって、質問を質問で返されることは想定外だったかもしれません。パリサイ人たちも、「分からない」とは言えませんから、自分たちの考えをひとまず答えるしかない。「モーセは、離縁することを許しました」と。

 そもそも、モーセのこの戒めはどこに書いてあるのでしょうか。モーセは本当に、夫が妻を離縁することを許したのでしょうか。申命記24章1節から4節をお読みします。


24:1 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、
2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、
3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、
4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

 この戒めは少し複雑です。ある男性がある女性を妻にした。しかし妻のことが嫌いになって離縁した。離縁された女性は、二人目の男性の妻になった。しかし、二人目の男性もその女性を離縁したか、もしくは死んでしまった。そうなった場合、一人目の男性がもう一度その女性を妻とすることはできない。「それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。」こういう戒めです。

 どうして、一度離縁した女性をもう一度妻とすることが「忌み嫌うべきこと」なのでしょうか。もしかすると当時の世界では、自分の妻を他の男性に、お金でこっそりと売るような習慣があったのかもしれません。相手の男性としても、他人の妻と肉体関係を持つのは姦淫の罪になってしまうわけですが、一度離縁してもらって自分が結婚したことにすれば問題ない。満足行くまで関係を持った後で、また一人目の男性に女性を返す。このように、ルール違反にならないようにと策略を練って、自分の妻や他人の妻を売ったり買ったりするような酷いことが行われていたのかもしれません。いや、そこまで露骨なことは行われていなかったとしても、一度離縁した女性をまた妻にするということは、まるで女性をいつでも売り買いできる商品のように扱うことでしょう。

 そう考えると、このモーセの戒めは、離縁を許すものではなく、むしろ簡単に離縁をさせないためのものだったはずです。男性が女性をまるで自分の所有物のように扱っていた世界で、出来る限り女性たちの立場が守られるようにと定められた戒めです。それなのにパリサイ人たちは、このモーセの戒めを根拠にして、「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」と主張したわけです。「離縁するなというルールは書かれていない。だから離縁してもOKだ」と。

 そんなパリサイ人たちに対して、イエス様は次のようにお答えになりました。マルコの10章に戻って、5節をお読みします。


5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。

 イエス様はパリサイ人たちの間違いを鋭く指摘します。「あなたがたの心があまりにも頑固なので、モーセは妥協したのだ。」これがイエス様の指摘です。「あなたがた男性たちは、好き勝手に離縁することを止めない。女性を所有物のように扱うことを止めない。離縁するなと言っても、あなたがたは色々な理屈をこねる。だからモーセは、少しでも女性たちの尊厳が守られるようにと、この戒めを書いたのだ。百歩譲って、妥協して、仕方なくこの戒めを書いたのだ。」

 私たちクリスチャンは、「聖書は神様のみことばだ」と信じていますから、聖書に書かれている戒めや教えに従おうとします。「これが神様の御心だ」と信じて、聖書に書かれていることをそのまま実行しようとします。しかし、実は聖書の中には、そのまま従うだけでは不十分な、“妥協した戒め”というのもあるわけです。人間たちがあまりにも自分勝手なので、せめてこれ以上状況が悪くならないようにと、神様が仕方なく命じた命令というものがあるわけです。

 たとえば、また申命記に戻ってしまいますが、申命記23章15節と16節には、次のような戒めがあります。


23:15 主人のもとからあなたのところに逃れて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。
16 あなたがたのうちに、あなたの町囲みの中のどこでも彼が好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼を虐げてはならない。

 「奴隷を虐げてはならない」というこの戒めもまた、神様が仕方なく書いた“妥協した戒め”です。本当は神様は、奴隷を持つこと自体を喜んではおられない。しかし、この戒めを読んで、「奴隷を持つこと自体は禁止されていない。だから、奴隷を持つことは問題ない」と解釈する人もいるわけです。「モーセは、奴隷を虐げてはならないと書いたけれども、奴隷を持ってはならないとは書かなかった。だから奴隷を持つことは問題ないんだ」と。

 実際に、黒人を奴隷にし続けていたヨーロッパ人たちやアメリカ人たちは、「聖書は奴隷を持つこと自体を禁止していないから、黒人たちを奴隷にすることは問題ない」と主張していました。「聖書では禁止されていないからOK」「聖書にそんなルールは書かれていないからOK」というふうに短絡的に考えて、奴隷制を正当化し、自分たちにとって都合の良い世界を守ろうとしたんです。

 たしかに聖書の中には、奴隷を持つことを禁止する教えは書かれていません。旧約聖書にも新約聖書にも、「奴隷を持ってはならない」というルールは書かれていません。でも、だからといって神様が、「奴隷を持つことは全然OK」と言っていることにはならない。聖書に書かれたルールに単純に従うだけでは、神様の御心を理解することにはならないんです。神様の“妥協した戒め”をただ守るだけでは、神様が本当に願っておられる御心とは違う方向に進むことさえあるわけです。


「創造のはじめから」

 では、戒めに従うだけでは不十分だとすれば、私たちは何に従えばよいのでしょうか。何を大切にすればよいのでしょか。イエス様は次のように仰います。マルコ10章の6節から9節。


6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。
7『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」

 パリサイ人たちは、「律法にかなっているかどうか」ということだけを考えていました。「ルールさえ守ればいい。ルールに違反していなければいい」と。しかしイエス様は、一つ一つのルールだけでなく、むしろ「創造のはじめ」に目を向けなさい、とお語りになったんです。「創造のはじめ」はどうだったのか、「創造のはじめ」はどのような世界だったのか。このことが重要なのだ、と。

 私たち人間は、特に日本人は、与えられたルールを忠実に守ることなら得意かもしれません。「これをしなさい」「はい、わかりました」「これをしてはいけない」「はい、わかりました」と、言われたことをただ行っている方が楽かもしれません。しかし、ルールを守り、表面的には正しい生き方をしているように見えても、根本的には間違った生き方をしている、ということがあります。神様が造られた人間の本来の生き方とは程遠い生き方をしてしまう、ということがあります。

 もしくは、「ルールに違反した人は罪人で、ルールに違反していない自分は罪人ではない」と、安易な考え方をしてしまうこともあるかもしれません。「イエス様は離婚を禁止した。だから、離婚をしたあの人は罪人だけれど、離婚をしていない自分は罪人ではない」「自分は離婚はしていないから、自分は問題ない。ルールを破っていないから問題ない」と。

 有名な芸能人が離婚をした、あの俳優と女優が破局した、というようなニュースが流れると、ネット上では多くの人が言いたい放題です。誰かが失敗をする。誰かが社会的なルール違反をする。そういうニュースに飛びついて批判ばかりしている人たちに限って、自分の結婚生活は上手くいっていなかったりする。「自分のほうがまだマシだ」とか、「自分は離婚はしていない」というふうに比較して、安心しようとする。ルールに固執して、ルールを自分の都合の良いように解釈して、「自分は正しい人間だ」「自分は問題のない人間だ」と主張する。

 私たちは、「ルールを守っているつもりの自分自身も、実際にはどうしようもない罪人である」という事実に気づかなければならないんです。私たちに聖書が与えられたのは、私たちがルールを守って自己満足を得るためではありません。「あ、あの人はまたルール違反をしている。ダメな罪人だ」と言って、誰かを見下すためでもありません。神様が私たちに戒めをお与えになった理由。それは、「あなたがたの心が頑ななので」ということです。私たちの心が頑なだから、神様はたくさんのルールを造らなければならなかったんです。どんなに多くのルールを作っても、私たちの心がいつまで経っても頑ななままだから、聖書はこんなに分厚くなってしまったんです。

 「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」このイエス様のみことばでさえ、パリサイ人のように自分勝手に解釈できるかもしれません。たとえば中央アジアの国々では、弱い立場にある若い女性が、好きでもない男性のところに無理やり連れて行かれて、強制的に結婚させられてしまう、そういう悲しいケースが少なくありません。そうやって結婚させられた女性たちの中には、「もっと自分を大切にしてくれる人と結婚したかった」とか、「早く家族のもとに帰りたい」と苦しんでいる人もいるわけです。

 そういう女性たちに対して、「でも、イエス様が離婚はしちゃいけないって言ってるじゃないか。『神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません』って言ってるじゃないか。だから諦めなさい」と言い捨てることもできます。しかし、それはイエス様が言いたかったこととは真逆のことでしょう。イエス様は、自分勝手な男性たちから女性たちを守るためにみことばを語ったのであって、女性たちを絶望させるためにみことばを語ったのではありません。「聖書に書かれていることをただそのまま守ればいい」という考え方では、神様が本当に願っておられるみこころからかけ離れてしまうこともある。

 もちろんイエス様は、「女性たちはただただかわいそうな存在だから、無条件に守ってあげなければならない」と仰ったわけでもありません。10節から12節をお読みします。


10 家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。
11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。
12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」

 イエス様は、男性の好き勝手な行いを戒めるのと同じように、女性の好き勝手な行いをも戒めます。「聖書は男性の離縁についてしか書かれていないから、女性が離縁するのはOK」というような安易な考え方を、イエス様はお許しになりません。イエス様は、男性か女性に関わらず、全ての人間を平等に扱われます。イエス様は女性たちを、ただ「守られるべき存在」としてだけでなく、むしろ「責任ある一人の人間」として見ておられます。「創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました」と語るイエス様は、男であろうと女であろうと、一人の人間として、ただ守られるだけではなく、互いに守り合う存在として生きていくようにと願っておられるんです。

 イザヤ書65章17節から19節には、次のように予告されています。


65: 17 見よ、わたしは
新しい天と新しい地を創造する。 
先のことは思い出されず、
心に上ることもない。
18 だから、わたしが創造するものを、
いついつまでも楽しみ喜べ。 
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、
わたしの民を楽しむ。 
そこではもう、
泣き声も叫び声も聞かれない。

 この世界の至る所で、「泣き声」と「叫び声」が聞こえてきます。傷ついて、倒れてしまって、助けを求める人々が大勢います。神様がお造りになった世界は、皆が助け合って平和に暮らす素晴らしい世界だったはずなのに、人間たちの罪によって、私たちの罪によって、見るも無惨な世界になってしまいました。しかし、神様はもう一度、新しい世界を造ろうとしておられる。そのために神様は、イエス様をこの世界に遣わしてくださった。イエス様を私たちに与えてくださった。

 「自分はルールを守っているから良い。」「あの人はルールを破ったからダメだ。」こういう考え方では、新しい世界を造り出すことはできません。新しい世界を造り出すためには、この世界をお造りになった神様に目を向け、「この世界は本来、どうあるべきだったのか」ということに目を向けなければなりません。神様は、たくさんのルールを作って私たちをがんじがらめにしようとしているのではありません。神様は、ルールだらけの窮屈な世界ではなく、「新しい天と新しい地」を造ろうとしておられるんです。この世界がもう一度、神様が造られた素晴らしい世界に生まれ変わること、夫婦が愛し合い、家族が愛し合い、人々が愛し合う世界になること。これが神様の願いです。

 このあと皆さんとご一緒に歌う讃美歌、『輝く日を仰ぐとき』には、次のような歌詞があります。


天地(あめつち)造りし神は

人をも造りかえて
正しく清きたましい
持つ身とならしめたもう

教会福音讃美歌21番『輝く日を仰ぐとき』4節

 この世界を造り、新しい世界を造ろうとしておられる神様は、私たちをも新しく造り変えてくださいます。「正しく清きたましい」を持つ者として造り変えてくださいます。ルールにこだわってしまって、大切なものを見落としたり、人を見下したりするようなたましいではなく、自分自身の罪を素直に認めることのできるたましい、そして、新しい世界を見つめて生きることのできるたましいを、私たちに与えてくださるんです。私たちが求めるべきことは、戒めを完璧に守ることではなく、神様の力をいただくことです。大切なのは、自分の頑なさを認めて悔い改め、“新しいいのち”をいただくことです。お祈りをいたします。


祈り

 神様、パリサイ人たちのような頑なな心が、私たちのうちにもあります。「ルールを守っている自分は正しい」と思い上がる心があり、「ルールに違反したあの人は罪人だ」と見下す心があります。神様、私たちはあなたが造られた世界の美しさを見つめ、あなたが新しく造られる世界を待ち望みます。どうか、私たちに正しく清きたましいをお与えください。自らの罪を悔い改め、新しい世界につながる歩みを始めさせてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。