マルコ10:17-27「あなたに欠けていること」(宣愛師)

2023年9月3日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』10章17-27節


17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
24 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」



「あなたに欠けていること」

 今日の聖書箇所には、ある一人の「金持ち」が登場します。まずは17節をお読みします。


17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」

 この17節では「一人の人」としか呼ばれていませんが、22節以降ではこの人が「金持ち」だということが語られます。また、マタイの福音書には、この人が「青年」であったと書かれていますし、ルカの福音書によれば、この人は聖書を教える「指導者」でもあったそうです。まだ若い青年だったのに、財産もたくさん持っていて、しかも指導者にまで上り詰めていた人。

 まさにエリート中のエリートという感じのこの人が、イエス様に質問をした。でもこの人は、パリサイ人とかサドカイ人のように、偉そうに質問をしたのではありませんでした。「駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。」服が汚れることも気にせず、地面にひざまずく。本気なんです。

 優秀で、しかも謙遜な人でした。聖書を教える指導者でした。しかし彼は、このままの自分では「永遠のいのちを受け継ぐ」ことができないと考えていたんです。自分はこのままでは不十分だと思っていたから、イエス様に教えを求めたんです。「イエス様なら、この先生なら、きっと私が知らないような新しい教えを教えてくださるに違いない」と思った。すでに十分完璧なのに、さらに完璧を目指そうとする。そんな青年に、イエス様はお答えになります。18節から20節。


18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」

 金持ちで優秀なこの青年は、自分がこれまで聞いたことがないような、新しい教えを求めていました。しかしイエス様は、「新しい教えを求める必要なんてない」と仰ったんです。「良い方は神おひとりだ。わざわざわたしに尋ねなくても、神がすでに、あなたに戒めを与えているだろう。良い戒めを与えているだろう。その戒めを守れば十分じゃないか」と。

 イエス様は、ユダヤ人なら誰でも知っている「十戒」の中から、いくつかの教えを引用しました。「『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」金持ちの青年は、イエス様が語ることを聞き逃さないようにと、一つ一つの戒めに真剣に耳を傾けたでしょう。何か新しい教えがあるのではないか。何か自分に足りないものを教えていただけるのではないか。しかし、新しい教えはありません。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。本当にそれだけなのですか。今の私に足りないものがあるはずなんです。それを教えていただきたいのです。」

 そんな青年の期待に応えるかのようにして、イエス様は次のように語ります。21節と22節。


21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

 21節で「いつくしんで」と訳されているギリシャ語は、「愛して」という意味の言葉です。直訳すれば、「イエスは彼を見つめ、愛して言われた。」先程も申し上げたように、この青年は、イエス様に敵対するパリサイ人やサドカイ人たちのように、イエス様を罠にかけたり、イエス様に嫌がらせをしようとして、質問をしたわけではありませんでした。イエス様を心から尊敬して、真摯な思いで質問をしに来た。だからイエス様も、彼をいつくしんで、愛して、彼にとって本当に必要なことを、まっすぐに語ってくださった。

 この青年に「欠けていること」とは何でしょうか。私たちはこのみことばを読むと、「この青年に欠けていたこととは、財産のすべてを売り払っていなかったことだ」と思うかもしれません。たくさんの財産を持っていること、そしてそれを売り払わないことが、この青年に「欠けていること」なのだ、と思うかもしれません。だから、すべてを売り払うことが必要だったのだ、と。たしかにそれも重要なことです。しかし、そこがポイントではないんです。21節と22節をギリシャ語から直訳してみると、次のようになります。


(私訳)21 イエスは彼を見つめ、彼を愛して、彼に言った。「一つがあなたに欠けている。あなたは出て行き、あなたが持っているあらゆる物を売り、貧しい者たちに与えよ。そうすれば、あなたは天において宝を持つことになる。そして、ここだ、わたしについて来い。」
22 彼はこのことばに愕然とし、悲しんで離れ去った。彼は多くの財産を持っていたから。

 もちろん、持ち物のすべてを貧しい人たちに施すことができれば、それはすばらしいことです。しかし、それだけで永遠のいのちを手に入れられるわけではない。神の国に入れるわけではない。「ここだ、わたしについて来い。」これが、イエス様が最も伝えたかったことです。日本語としては不自然ですけれども、「ここだ」と訳されることばです。「ここだ。ここがポイントだ。ここにこそ、あなたに欠けていることがある。わたしについて来い。」

 少なくとも当時の世界では、多くの財産を持つということは、権力者たちとの繋がりを持つということでもありました。権力者たちとの繋がりを持っていなければ、金持ちであり続けることは難しかったし、指導者になることも難しかったはずです。しかし、当時のユダヤの権力者たちは、イエス様のことを目の敵にしていました。イエス様と権力者たちは敵対関係にありました。だから、もしこの金持ちの青年が、イエス様に従うとなれば、イエス様について行くとなれば、当然のことながら、今までのように権力者たちと仲良くすることはできなくなります。自分の財産も守りながら、イエス様にもお従いする、ということは不可能だったんです。財産を捨てなければ、イエス様に従うことはできなかった。イエス様の仲間になることができなかった。

 この金持ちの青年は、イエス様を「先生」と呼びました。「良い先生」と呼んだ。しかし、彼がイエス様を「主よ」と呼ぶことはありません。「あなたこそ王様です」とか、「あなたこそ救い主です」と呼ぶこともない。彼にとってイエス様は、「先生」でしかなかった。「先生」から教えを聞いて、ふむふむと頭に入れて、あとは自分の家に帰ってその教えを実践する。この青年が求めていたことはそれだけでした。彼が求めていたのは、「良い先生」であり、「良い教え」でした。

 しかしイエス様が求めておられたのは、ただ「良い教え」を聞いて、「ふむふむ、なるほど」と言って、家に帰ってそれを実践する人ではなかった。イエス様が求めておられたのは、ご自分の旅について来てくれる仲間です。イエス様とともに歩み、イエス様とともに食事をし、イエス様とともに寝泊まりをする。そして、イエス様が権力者たちと闘う時には、イエス様の味方となって一緒に闘う。イエス様が求めていたのは、そのような弟子であり、そのような仲間です。

 私たちもこうして、礼拝の場に集まって聖書の説教を聞きます。しかし、説教を聞く私たちが、「ふむふむ、この教えは役に立ちそうだな」とか、「これは勉強になった」と言って、それで満足してしまうのなら、イエス様が求めておられることとはズレている。私たちが聖書のみことばを聞くのは、“役に立ちそうなこと”を持ち帰るためではなく、イエス様の弟子となるためです。イエス様は、ご自分について来る人を求めているのであって、ご自分の教えを綺麗にノートにまとめて、時々思い出してくれる人を求めているのではありません。聖書の教えを完璧に覚えたとしても、イエス様の弟子にならないのであれば、聖書を読む意味も、説教を聞く意味も、ほとんどなくなってしまいます。私たちが何かを持ち帰るのではなく、私たち自身をイエス様に持ち帰っていただく。イエス様の旅に連れて行っていただく。それが聖書を読む目的であり、説教を聞く目的です。


「神の傍らでは」

 23節から27節をお読みします。


23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
24 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

 当時の世界では、金持ちというのは、神様から祝福されているから、金持ちになれるのだと考えられていました。豊かな財産というのは、神様からの贈り物であり、神様からの祝福なのだと。だから弟子たちは、当然のことながら、神様に祝福されている金持ちたちこそが、神の国にふさわしいのだと思っていました。金持ちこそが真っ先に神の国に入るのだと思っていました。

 もちろん弟子たちも、金持ちの中には悪どい奴らが大勢いることも知っていたでしょう。いやらしい権力者たちがたくさんいることを知っていたでしょう。でも、この青年は明らかに、そういう悪どい金持ちたちとは違っていた。礼儀正しく、謙遜なこの青年を見て、弟子たちも「この若者は立派だ」と思ったでしょう。好意的な気持ちさえ抱いたかもしれません。だから、「こんなにも立派な若者が神の国に入れないなら、いったいだれが神の国に入れるのですか?」と尋ねた。

 イエス様の答えはこうです。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」この言葉も、ギリシャ語から直訳すると次のようになります。


(私訳)27……「人々の傍らでは不可能だ。しかし、神の傍らでは違う。神の傍らでは全てが可能だから。」

 これもまた不自然な翻訳ですけれども、ここにヒントがあるように思われます。人間がどんなに正しい生き方をしたとしても、それで神の国に入ることにはならない。たとえ、自分の財産のすべてを捨てて、貧しい人たちに施すことができる、正しい人間がいたとしても、それだけでは永遠のいのちを受け継ぐことはできない。「人々の傍ら」にとどまっているかぎりは、神の国に入ることは不可能である。でも、その人が「神の傍ら」に近づくなら、「人々の傍ら」を離れて、「神の傍ら」に近づくのなら、たちまち「全てが可能」となる。

 問題は、「神の傍ら」とはどこなのか、ということです。「神の傍ら」とは一体どこにあるのか。私たちはどこに向かうべきなのか。今日の聖書箇所の続きの部分については、また次回の説教で詳しくお話ししたいと思いますが、28節だけ先にお読みしたいと思います。


28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」

 ペテロたちは、「神の傍ら」に近づいていたんです。イエス様の周りには、不完全な人ばかりが集まります。ペテロを始めとして、弟子たちは皆、でこぼこだらけの不完全な人たちでした。あの優秀で謙遜な青年に比べたら、欠けだらけのペテロたちでした。しかし彼らは、イエス様と一緒にいたんです。イエス様と一緒に生きていたんです。全てのものを持っているかのように見えた、完璧に見える青年に「欠けていること」。これを持っていたのは、欠けだらけの弟子たちでした。

 私たちがイエス様について行くために、邪魔になるものがあります。財産だけではありません。「学歴」とか「役職」のようなものが邪魔になることもある。「私はあの有名な大学を卒業した。しかも優秀な人が集まるあの大企業で働いている」というようなエリート意識を持っているせいで、「こんな普通の人たちばかりが集まっている教会なんて自分は行かない」と言って教会を見下す人もいます。その人にとっては「学歴」とか「役職」という財産が、イエス様に従うことを邪魔しているわけです。

 また、ある人にとっては、「あの人は立派なクリスチャンだ」という他人からの評価が、イエス様に従うことを邪魔するかもしれません。きちんと礼拝に出て、きちんと献金をして、「あの人は素晴らしいクリスチャンだ」と思われている自分。「あの人は立派なクリスチャンだ」と尊敬されている自分。そういう自分が好きで、教会に熱心に通う。しかし、人生の中に思いがけない変化が起こって、これまでのように礼拝に参加できなくなる。これまでのように献金をきちんと献げる余裕がなくなる。「ああ、こんなはずじゃない。自分はもっと立派なクリスチャンとしてやってきたはずなのに。ああ、教会の人たちに顔を合わせるのが恥ずかしい」と思い、だんだんと教会に行きづらくなる。「きちんと礼拝に参加している」とか、「きちんと献金を献げている」という自分へのこだわりが捨てられず、それが邪魔をして、かえってイエス様から遠ざかっていく。

 なぜ私たちは、学歴や役職にこだわるのでしょうか。なぜ、「立派なクリスチャン」という評価にこだわるのでしょうか。それは、私たちが心のどこかで、「自分には欠けていることがある」と分かっているからかもしれません。「コンプレックス」という表現を使うこともあるでしょう。「自分には欠けていることがある」ということがよく分かっているから、その「欠け」を、学歴で埋めようとしてみたり、他人からの評価によって埋めようとしてみたりする。でも、私たちに本当に欠けているものは何なのか。そのことが分からない限り、私たちの努力は空回りし続けます。いつも空しさが残るんです。欠けを埋めようとすればするほど、「永遠のいのち」から離れていく。

 欠けだらけでいいんです。コンプレックスがあっていいんです。どんなに完璧な人でも、完璧であるという理由では、「永遠のいのち」をいただくことはできないからです。どこからどう見ても完璧だったあの青年は、イエス様について行くことができませんでしたけれど、どこからどう見ても完璧には程遠い、不揃いなじゃがいもみたいなあの弟子たちは、イエス様と一緒にいたんです。「神の傍ら」にいたんです。そして、ひとまずはそれだけで良かったんです。

 私たちがまず捨てるべきことは、完璧であろうとすることです。もしくは、完璧でない自分を無理に隠そうとすることです。自分の欠けを全て、自分で埋めてしまおうとすることです。そりゃ、完璧な自分になれたらかっこいいし、コンプレックスはいつまで経っても無くならない。でも、私たちは今、イエス様と一緒にいます。イエス様が一緒にいてくださいます。それで十分じゃないでしょうか。それ以外の何かを求める必要があるでしょうか。完璧ではない私たちだけど、「永遠のいのち」をいただくことができる。それだけで満足できる私たちでありましょう。「永遠のいのち」は、完璧なあの人のものではなく、欠けだらけの私たちのものです。「神の国」は、優秀で謙遜で非の打ち所のないあの人のものではなく、非の打ち所ばかりだけれども、それでもイエス様にお従いさせていただく、不完全で未熟な私たちのものです。みっともないけれど、それでいいんです。みっともなくてもいいから、余計なものは捨てて、邪魔なものは全部捨てて、イエス様の弟子とならせていただきましょう。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。私たちは欠けだらけですけれども、本当に「欠けていること」とは何か、そのことは分かっています。どうか、あなたの近くに引き寄せてください。ただでさえ不完全な私たちですから、これ以上何かを捨ててしまったら、何も残らなくなってしまうのではないかと不安にもなります。でも、「それでいいから、ついて来なさい」とあなたが言ってくださるなら、私たちは、完璧を求めてあなたから離れる道ではなく、不完全なままであなたにお従いする道を選びます。余計なものを捨てて、あなたの弟子となります。どうぞ、あなたの弟子とならせてください。あなたの傍らにおらせてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。