マルコ10:46-52「あの人を呼んで来なさい」(宣愛師)

2023年10月22日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』10章46-52節


46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。



「黙らせようとたしなめたが」

 子育て世代の方を、「ぜひ礼拝に来てみてください」とお誘いすると、「うちはまだ子どもが小さいので…」と遠慮されてしまうことがあります。「礼拝中に子どもがうるさくしたら申し訳ないので…」と。もしかしたら、本当はご自分が行きたくないだけで、子どもを理由にして断っているという可能性もありますけれど、たしかに、礼拝中に自分の子どもがうるさくしてしまったら周りのみなさんにご迷惑なのではないか、と心配する気持ちはよく分かります。

 もしかすると、多くのお母さんやお父さんたちは、「礼拝中に子どもがうるさくしてしまったら、神様にもご迷惑なのではないか」という風にも思っているのかもしれません。「礼拝中に子どもが叫び出してしまったら、神様に失礼でしょう。ご迷惑でしょう。だから、もっと子どもが大きくなって、静かに座っていられるようになったら、連れて行きます」と遠慮される。

 10章46節から48節までをお読みします。


46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。

 「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と、叫び続ける男がいました。「ティマイの子のバルティマイ」という男でした。福音書にはたくさんの人が登場しますが、名前まで記される人は多くありません。なぜ、この人の名前が記録されたのかと言えばそれは、この福音書を書いたマルコが、このバルティマイという男のことをよく知っていたからでしょう。もしくはマルコが所属していたと思われるローマの教会も、この男のことをよく知っていたのかもしれないし、もしかすれば、バルティマイはローマ教会のメンバーになったのかもしれません。

 マタイの福音書やルカの福音書にも同じ出来事の記録がありますが、「バルティマイ」という名前が出てくるのはマルコだけです。「ああ、あのバルティマイか!」と、マルコたちの教会にとっては馴染みの深い人だったのでしょう。「あのおじさん(おじいちゃん)にこんな過去があったなんて」と、驚きながらこの福音書の内容に耳を傾ける人もいたでしょう。

 来年5月に、私たち盛岡みなみ教会は創立20周年を迎えます。ということで、それに合わせて、「創立20周年記念誌」を作る予定です。そこには、教会メンバーそれぞれの“証し”を書いていただきたいと考えています。なぜイエス様を信じるようになったのか、どうやってイエス様と出会ったのか。もしくは、イエス様と一緒に生きて来た中で、どんな恵みを受け、どんな試練を乗り越えてきたのか。そのような“証し”を、それぞれの名前付きで書いていただきたいんです。それを読む人々が、「ああ、あの人にこんな過去があったのか」と驚き、また励まされるためです。

 バルティマイの“証し”は、叫び続けることから始まりました。そして、そんなバルティマイを、多くの人たちが黙らせようとした、というところから始まりました。「多くの人たち」と呼ばれる人々の中には少なくとも、イエス様の弟子たちも含まれていたはずです。私たちはついつい、「助けを求める人を黙らせようとするなんて、弟子たちは相変わらずひどい奴らだなあ」と思ってしまいますけれども、しかし、弟子たちにも“黙らせなければならない理由”がちゃんとありました。

 「ダビデの子」という表現は、とても危険な表現でした。なぜなら、「ダビデの子」という言葉は、“エルサレムの王様”という意味だったからです。目の見えないこの男は、“エルサレムの王よ”と叫んでいるわけです。「エリコ」という町は、エルサレムのすぐ近くにある町でしたから、そのエリコで、「ダビデの子よ、エルサレムの王よ」なんて叫んではいけない。すぐ近くに、“エルサレムの王”として君臨しているヘロデがいるからです。さらには、イエス様を殺そうとしている、エルサレムの権力者たちもいるからです。だから弟子たちは、バルティマイを黙らせなければならなかった。「おいおい、イエス様をそんな風に呼んだら危ないんだぞ。イエス様の命がますます狙われてしまうじゃないか。だから頼む、静かにしてくれないか。」

 しかし、バルティマイは黙りません。48節をギリシャ語から直訳すると、次のようになります。〈多くの人たち(ポリーが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、彼はもっと多く(ポロー・マロン)叫んだ。〉どれだけ多くの人たちにたしなめられようと、それよりももっと多く叫び続ける。「ダビデの子よ、エルサレムの王よ、私をあわれんでください。」

 弟子たちからすれば、かわいそうではあるけれども、やはり迷惑な男でした。迷惑行為を止めない男でした。でもバルティマイには、「もっと静かにできるようになったら、またいつか来ます」なんていう余裕はなかったんです。イエス様にお会いできるのは、今日が最後かもしれない。「また今度でいいか」なんてことは考えられなかったんです。たとえ迷惑になってしまうとしても、それでもイエス様、私はあなたを信じています、あなたにはどんなことでもおできになると信じています。だから私をあわれんでくださいと、必死に叫び続けた。


「あの人を呼んで来なさい」

 彼の叫びは届いたのでしょうか。49節と50節をお読みします。


49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

 「あの人を呼んで来なさい」というイエス様の言葉は、この時点ではまだ、どういう意味の言葉かは分かりません。「◯◯さん、今すぐ校長室に来てください。校長先生がお呼びです」と言われても、大抵の場合は「どうしよう、何かやらかしたかな。怒られるのかな」と思うでしょう。しかし、「あの人を呼んで来なさい」というイエス様の表情は、少なくとも怒っているふうには見えなかったようです。むしろ、とても穏やかな顔だったのでしょう。だから弟子たちは、「心配しないでよい」と言うことができました。

 イエス様に迷惑がかかるのではないかと、弟子たちも心配していたんです。でも、心配しないで良いらしい。イエス様があなたを呼んでおられる。あなたを叱りつけるためではない。あなたを黙らせるためではない。あなたの迷惑行為に文句を言うためでもない。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる。」

 「その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」エリコという町は、比較的暖かい町でした。盛岡とは違って、日中に上着が必要になるようなことはほとんどありません。では、なぜ彼は「上着」を持っていたのか。当時の世界では、物乞いをしていた人々は、上着を自分の前に敷いて、その上着の上にお金や食べ物を置いてもらっていました。彼にとって上着は、物乞いをしながらなんとか生きていくための唯一の道具でした。

 その上着を脱ぎ捨てた。もっと正確に翻訳すれば、脱ぎ捨てたというより、投げ捨てた、というギリシャ語です。もうこの道具は要らない。もう物乞いとして生きていく必要はない。私は今から生まれ変わるのだ。私の新しい人生が始まるのだ。なぜなら、イエス様が今、この私を呼んでおられるから。51節と52節。


51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

 「見えるようになる」と訳されているギリシャ語は、もともとは「目を上げる」とか「上を見る」という意味の言葉です。私たちはバルティマイとは違って、自分は盲目ではない、自分はしっかり見えている、と思っているかもしれません。しかし、たとえ目が見えているとしても、下ばかりを向いているとしたら、それは何も見えていないのと同じでしょう。下ばかりを向いている人は、神を見ることができない。みなさん、下ばかり向いてはいないでしょうか。もしくは、自分のことばかりを見つめているせいで、神様がくださる希望に対して盲目になってはいないでしょうか。

 私は昔から猫背でして、そのせいで腰が痛くなりやすかったり、肩が凝りやすかったり、目が疲れやすかったりするので、「どうして自分はこんなに猫背なんだろう」と考えてみたことがあります。身長が高いせいなんじゃないか、椅子や机の高さが合わなかったりするせいなんじゃないか、とも考えました。でも、身長が伸びる前から、自分はまあまあ猫背だった気もするので、身長だけが原因ではない。

 それで、ふと思い出しました。私が小学生の頃(と言っても私は小学3年生からはホームスクールだったので、小学校には2年間しか通っていませんが)私はずっと、下を向いて学校に通っていたんです。別に、学校が楽しくなかったとか、いじめられていたとか、そういうことではないんですが、ただひたすら、何かにつまずかないように、変なものを踏んでしまわないように、自分の足元に注意しながら、下を向いて歩いていたような記憶があるんです。

 時には、下を向いて歩くことも大切だと思います。つまずいて転んでしまわないように、足元に気をつけて歩く。一歩一歩、慎重に慎重に足を進めていく。それも大切です。でも、下ばかり向いていると、周りの景色は見えなくなります。綺麗な景色も星空も見えなくなりますし、猫背になって、身体がちぢこまって、固くなって、のびやかに生きることができなくなります。

 「わたしに何をしてほしいのですか。」この質問に、私たちは次のように答えたいと思います。「先生、目が見えるようにしてください。天を見上げることができるようにしてください。身体も心も縮こまってしまった私が、希望を抱いて生きていけるように、目を上げさせてください。」すると、イエス様は言われます。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」下ばかりを向いて生きていた私たちが、上を見上げ、天を見上げることができるようになる。アブラハムのように、天の星の数を数え、神様のご計画を信じて生きることができるようになる。天を見上げる信仰こそが私たちを救うのだと、聖書は語っています。


静かにできないからこそ

 「ダビデの子よ、ダビデの子よ」という叫びは、多くの人たちにとってはうるさい“雑音”であり、“迷惑行為”でした。しかしイエス様は、その叫びを退けることも、黙らせることもありません。静かに黙っていることが難しい人たちも、周りから迷惑だと思われているような人たちも、イエス様には招かれているんです。

 小さな子どもたちだけではありません。知的障害を持つ方々の中にも時々、礼拝中に叫び出したりする方がいます。ほかの皆が静かに座っている中で、「アーメン!アーメン!」と叫んでしまう。「イエス様!ハレルヤ!」と叫んでしまう。私たちは、そういう人たちが礼拝に来たらちょっと困るなあ、と思うかもしれません。もしくは、どうやって静かにしてもらおうか、ということばかり考えるかもしれません。でも、イエス様はそうではない。

 もちろん、礼拝中になるべく静かにして、礼拝に集中することは大切です。しかし、そもそも、静かに座って礼拝をするということ自体、聖書が教えていることというよりも、日本人の宗教的な感覚に基づいたものなのかもしれません。仏教でも、静かな場所で座禅をしたり、お経をしみじみと聞いたりします。神社でも、小鳥のさえずりが聞こえるような静かな森の中で、柏手の音が響くような風情を大切にします。日本人の宗教的感覚は、静かであることを大切にするんです。

 それも確かに良いことです。しかし、聖書が大切にしているのは、静かであるとか静かでないということよりも、あらゆる人が神の御前に集まるということです。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません」とイエス様は仰りました。私たちは、「うるさい子どもたちが礼拝に来たら迷惑だなあ」とか、「ああいう人が礼拝に来たらうるさくて仕方ないなあ」と思ってしまうかもしれませんけれど、イエス様はそういう人たちこそ、「あの人を呼んで来なさい」と言われるんです。「あのうるさい人を呼んで来なさい。わたしはあの人と話したい。」

 その逆に、「ああいう人は来てほしくない」と思ってしまう私たちの考えのほうが、イエス様にとってはうるさい“雑音”なのかもしれません。たしかに私たちは、礼拝中に黙って座って静かにしています。しかし、心の中はどうか。静かに座っていても、イエス様とは関係のないことが心の中で騒ぎ立っていないだろうか。静かにしているように見えても、心は余計なことで騒がしい私たちのほうこそ、本当は礼拝をするにふさわしくない人間であるのかもしれません。周りの人のことばかり気にして、もしくは自分のことばかり気にして、イエス様に心が向いていない、そんな私たちのほうが、心の中まで見透かされるイエス様からすれば、よっぽど“うるさい”はずです。そんな私たちよりもむしろ、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫び続けたバルティマイの声のほうが、イエス様の耳には喜ばしい声として聞こえたのではないでしょうか。

 マルコの福音書が完成した時、そしてそれが教会で朗読された時、もしかすればバルティマイはまだ生きていて、礼拝に参加していたかもしれません。「ティマイの子のバルティマイ」という名前が朗読されるのを、すでに高齢になったバルティマイも聞いていたかもしれません。あの日、イエス様がエリコに来られた日、多くの人から「静かにしろ」とたしなめられても、なりふり構わず叫び続けた、あの日のことを思い出して、少し恥ずかしい気持ちにもなったかもしれません。

 高齢になったバルティマイはもはや、礼拝中に突然叫び出すようなことはしなかったでしょう。むしろ、年をとるに連れて、静かに座って礼拝をするようになったと思います。でも、礼拝中に小さな子どもたちが泣き出しても、突然だれかが叫び始めても、バルティマイはにっこりと穏やかな顔をしていたはずです。「私も昔はそうだった。うるさい奴だと思われて、イエス様にご迷惑をおかけして、でも、赦していただいて、受け入れていただいて、そのおかげでここにいる。あの日、イエス様だけは、私を黙らせようとはしなかった。」バルティマイは誰よりも穏やかな心を持つクリスチャンとして、マルコの教会で尊敬され、愛されていたのではないかと、私は勝手な想像をしてしまいます。あながち見当外れな想像ではないだろうとも思います。

 「子どもが礼拝中にうるさくしてしまったら迷惑なのではないか」と心配するお母さんやお父さんたちがいます。もしくは、「静かにするのは自分の性に合わない」と考えて教会に来ることを遠慮してしまう方々がいます。そんな人たちに、私たちはこう言ってあげたいと思います。「大丈夫ですよ。心配しないでください。イエス様は意外と、うるさい人たちがお好きなんです。」

 今日もイエス様が私たちを呼んでいます。心の中を見透かされるイエス様からすれば、迷惑で、うるさくて、余計なことばかり考えている私たちですが、それでもイエス様は呼んでくださっています。礼拝中なのに、礼拝に集中しないといけないのに、あのことが心配になり、このことが心配になり、心がしっちゃかめっちゃかになってしまうような私たちのことをも、イエス様は呼んでくださる。「わたしのところに来なさい。こっちに来て、そのしっちゃかめっちゃかを聞かせなさい」と言ってくださる。「うるさくてもいいから、まとまらなくてもいいから、漠然とした不安でもいいから、あなたの叫びをわたしに聞かせなさい。わたしに何をしてほしいのですか。」

 このみことばによって、足元の不安や心配事ばかりを見つめていた私たちの目が、イエス様に向けられていくんです。縮こまっていた身体が、のびやかになっていくんです。うるさくて、騒がしくて、静かにしていられない私たちだからこそ、イエス様は喜んで招いてくださるんです。このことをまず私たち自身が受け止めたとき、この盛岡みなみ教会は、子どもも大人も、静かな人もそうでない人も、あらゆる人が心から安心して集まることのできる教会となっていくはずです。イエス様を中心とした、騒がしくも温かい教会となっていくはずです。お祈りをいたします。


祈り

 天におられる父なる神様。下を向いて静かにしていることだけが、あなたに喜ばれる礼拝ではないことを、心から感謝します。静かな人も、そうでない人も、あらゆる人がこの教会に集い、喜びを持って礼拝をおささげすることができますように。まず私たち自身が、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫ぶことができますように。礼拝の間でさえ余計なことを考えてしまい、心配事でいっぱいになってしまう、騒がしい心を持つ私たちですけれども、イエス様が今日も招いてくださいますから、私たちは今日もイエス様について行きます。騒がしい心のままで、主のみもとに近づかせてください。イエス様の御名によってお祈りします。