マルコ9:2-13「山を下りながら」(宣愛師)

2023年7月2日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』9章2-13節


2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。
5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。
7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。

9 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。
10 彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。
11 また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」
12 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。
13 わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」



折り返し地点、上り坂スタート?

 一年間をちょうど半分に割ると、7月1日までが前半、7月2日からが後半になるそうです。今日は7月2日なので、2023年も折り返し地点を回ったということになります。昨日までの半年間は、みなさんにとってどんな期間だったでしょうか。何事も絶好調で、右肩上がり、上り坂の毎日だったでしょうか。それとも、どちらかと言えばうまく行かない、下り坂のような、しんどい半年間だったでしょうか。

 昨年の5月から読み進めているマルコの福音書も、9章に入りました。マルコの福音書は全部で16章ですから、こちらもちょうど折り返し地点です。そしてこの福音書の後半は、“上り坂”から始まります。2節から4節をお読みします。


2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。

 イエス様の御姿が変わりました。救い主メシアとしての栄光、神の子としての輝き、人間には為し得ないほど、真っ白に輝いた御姿です。しかし、「御姿が変わった」というのは、「このとき初めてメシアになった」とか、「このとき初めて神の子になった」ということではありません。イエス様は最初からメシアであり、神の子です。「変わった」というのは、最初からメシアであり神の子であるイエス様のその輝きが、このとき初めて、弟子たちに対してはっきりと示されたということです。

 弟子たちが山に登ったことは、私たちが教会に集まることと似ているかもしれません。山に登って、光り輝くイエス様に出会う。これは、私たちが毎週の日曜日に経験していることと似ています。もちろんイエス様は、私たちがわざわざ教会の礼拝堂に行かなくとも、いつでも私たちとともにいてくださいます。私たちは日曜日以外の普段の生活の中でも、イエス様を礼拝し続けますし、イエス様がメシアであるということも分かっています。しかし、それでも日曜日にこうして集まって礼拝をおささげするとき、イエス様は私たちのために、輝く御姿を見せてくださる。「あなたたちといつも一緒にいるこのわたしは、普段はそんな風に見えないかもしれないけれど、真の救い主なんだよ」ということを、週の初めに教会でささげるこの礼拝の儀式の中で、はっきりと確認させてくださる。私たちはそのことをはっきりと確認した上で、新しい一週間を始めることができる。

 イエス様がメシアであるということは、エリヤとモーセの存在によっても証しされます。当時のユダヤ人たちは、来るべきメシアが現れる前に、エリヤとモーセが現れると信じていました。この二人が現れたなら、その後に必ず、メシアがやって来るのだと。弟子たちの目は釘付けになっていました。そして、ペテロが口を開きました。5節と6節。


5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。

 「幕屋を三つ造りましょう」と、それらしいことを言ってみたペテロでしたが、実際には「何を言ったらよいのか分からなかった。」マルコの福音書は、ペテロの証言によって書かれたと言われますから、ペテロ自身が恥ずかしそうにしながら、「いやあ、あの時はホント、何を言ったらいいのか分からなかったんだよね」と語ったのかもしれません。ペテロとしては、この素晴らしい場所に立ち会って、自分にもできることはないだろうかと思って、気の利いたことを言ったつもりなのでしょう。でも、実際にはこのとき、ペテロは少なくとも二つの間違いを犯しました。


「彼の言う事を聞きなさい」

 ペテロの一つ目の間違い。それは、救い主メシアであるイエス様を、モーセやエリヤと同列に並べてしまったことです。「あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは、預言者たちと同レベルの存在であるかのように、イエス様を取り扱ってしまった。しかし、このペテロの言葉は、神ご自身によって否定されます。7節と8節。


7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。

 「これはわたしの愛する子。彼の言う事を聞け。」この御言葉によって父なる神様が指し示したのは、モーセでもなく、エリヤでもなく、イエス様ただお一人でした。そこにはもう、モーセもエリヤもいなかった。ただイエス様だけがおられたんです。

 旧約聖書を読んでいると、モーセの教えがたくさん出て来ます。エリヤを含む預言者たちも、モーセの教えを守るようにと繰り返し語っています。もちろん、旧約聖書も神のことばですから、私たちは旧約聖書の教えも大切にしなければなりません。しかし、私たちが従うのは、モーセの言葉ではなく、預言者たちの言葉でもなく、イエス様の言葉です。マタイの福音書には次のように書かれています。マタイ5章21節と22節。


5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と〔モーセによって〕言われていたのを、あなたがたは聞いています。
22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 モーセは、「殺してはならない」と教えました。もちろん、この教えは大切です。私たちはモーセの教えに従う必要があります。しかしイエス様は、モーセよりもさらに優れた教えを語られました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」

 単に殺さなければ、命を奪わなければそれでよい、ということではない。怒って人を傷つけてはいけない。「ばか者」と言って人を傷つけるな。「愚か者」と言って人を見下すな。神がお造りになった人間の尊厳を傷つけるようなことは、一切してはならない。それは殺すことと同じだ。

 私たちは、モーセの言葉ではなく、イエス様の言葉に従います。なぜなら、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」と言って神様が指し示したのは、イエス様だからです。旧約聖書と新約聖書が矛盾するということではありません。新約聖書は旧約聖書に基づいています。しかし、私たちキリスト教会がまず第一に従うべきは、イエス様の御言葉です。このイエス様を、モーセやエリヤと同列に並べたこと。これが、ペテロが犯した一つ目の間違いでした。


「山を下りながら」

 では、ペテロの二つ目の間違いとは何だったのでしょうか。ペテロが犯した二つ目の間違い。それは、“イエス様を山の上にとどまらせようとしたこと”でした。光り輝くイエス様を見た時、そしてモーセとエリヤの姿を見たとき、ペテロは「まさにこれが神の国だ!」と思ったのでしょう。「この山の上から、神の国がスタートするに違いない!」と。しかし、このようなペテロの願いは、イエス様のご計画とは違っていました。高い山の上にとどまって、輝き続ける。これは、イエス様のご計画ではなかったんです。マルコの9章に戻って、9節と10節をお読みします。


9 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。
10 彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。

 イエス様は山を下りました。しかも、「人の子が死人の中からよみがえる時までは」と言って、ご自分の死と復活について予告された。ただ山を下りただけではありません。イエス様は、もっと低い場所まで下ろうとされていたんです。十字架の死という、最も惨めで低い場所まで、下りて行こうとされた。弟子たちには、そのことがまだ理解できません。11節から13節。


11 また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」
12 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。
13 わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」

 律法学者たちは、このように考えていました。「まずエリヤが来て、イスラエル民族のすべてを立て直す。その後、メシアが来て、イスラエルの敵を滅ぼし、神の国が完成する。」つまり、律法学者たちが想像していた“エリヤ”や“メシア”というのは、“勝利者”としての存在だったんです。イスラエルの敵を力づくで滅ぼし、神の国を完成させてくれる、圧倒的な強さを持った勝利者。

 しかし、イエス様はそのような考えに対して、疑問を投げかけます。「それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。」つまり、イエス様が言いたいのはこういうことです。「メシアは必ず苦しみを受けると、聖書に書いてあるじゃないか。律法学者たちが想像している“メシア”は、真のメシアとは違っている。真のメシアは、敵を力づくで滅ぼすような救い主ではない。多くの苦しみを受け、蔑まれるメシアなのだ。そして、メシアがそのような苦しみを受けるならば、エリヤもまた、苦しみを受けるのだ。」

 そしてイエス様は言います。「エリヤはもう来ています。」それは、山の上で光り輝いていた、あのエリヤのことではありません。イエス様がここで仰った「エリヤ」とは、ヘロデ王によって殺された、バプテスマのヨハネのことです。バプテスマのヨハネ。彼こそが、来るべき「エリヤ」だった。そして、彼が権力者たちのわがままによって殺されたように、真のメシアもまた、好き勝手なことをされて、バカにされて、蔑まれて、殺されなければならない。


“有頂天”から下り坂へ

 何ヶ月か前に、一人の男性がこの教会に来られました。「キリスト教のことを知りたい」とのことで、礼拝堂で2時間ほどお話をしました。とても明るくて、賢くて、素敵な方でした。その方とお話するのはとても楽しく、キリスト教とはどのような教えか、聖書は何を語っているのかなど、その方の質問に色々とお答えして、その方もとても喜んでくださったように思います。「僕が求めていたものにぴったりはまったような気がします。また来ます」と言って、帰って行かれました。

 しかし私は、その方が端々に仰っていた、「前向きになれる教えがいいんです」という言葉に引っかかっていました。そこで私は、その方と会話をする途中で、次のようなお話をしました。「たしかにキリスト教は、前向きになれる教えです。イエス様を信じると、心は明るくなります。でも、キリスト教はいわゆる“上昇志向”ではありません。たとえば仏教では、人間が仏になるための方法を教えてくれます。人間が、今よりももっと高い存在になれる方法を教えてくれます。しかし、聖書が教えているのは、神が人間になってくださったということです。栄光に輝く神の子が、十字架の死にまで低く下ってくださったということです。だからキリスト教は、いわゆる“上昇志向”ではありません。クリスチャンの生き方というのは、低く下り続ける生き方です。」

 その方にはそれ以来、お会いできていません。単にお忙しいだけかもしれないし、他の教会に行っているのかもしれません。でも、もしかしたらその方は、「キリスト教は低く下るものだ」という言葉に、つまずいてしまったのかもしれない。「思っていたのと違う」「自分には合わない」と思わせてしまったのかもしれない。あとになってから、「ああ、余計なこと言っちゃったかな」とも考えました。でも、それを抜きにして、キリスト教を語ることはできないとも思いました。

 信仰生活を続けていると、少しずつ階段を登っているような感覚になるかもしれません。礼拝に毎週参加して、聖書をちゃんと学んで、お祈りもちゃんとして、「クリスチャンレベル」のようなものが一歩一歩上がっていく、そんな感覚になるかもしれません。「自分は真面目にクリスチャンをやってきて、今はここまで登って来れた。イエス様にだんだん近づいてきた」と。

 でも、それだけならまだいいんですけれど、いつのまにか他の人と“高さ比べ”を始めてしまう。「自分はこんなに高く登ってきたのに、あの人はまだここまでしか登っていない。あっちの人もまだまだだ」と言って、人をさばくようになる、そういう危険が私たちの中にはあります。誰にでも必ずあります。もともとは仏教の用語で、「有頂天」という言葉がありますけれど、自分の信仰生活がうまくいっていると、まるで自分が天に昇っているかのように、「有頂天」になって、調子に乗って、まるで自分が人よりも高いところにいるかのように錯覚する。高い山の上に登って、そこにとどまろうとする。自分は優秀なクリスチャンだと思うようになる。その逆に、自分よりも高い場所にいる人を見ると、見下されたような気分になったり、惨めな気持ちになったりする。

 しかし、そんな私たちの間違いに気づかせてくださって、一緒に山を下りてくださるのが、イエス様です。真のクリスチャンの生き方とは、先に進めば進むほど、下に降りていくものです。他の人を見下すどころか、自分自身の罪深さに気づいて、見下すことなどできなくなっていく。兄弟姉妹に対して怒れなくなる。自分こそが神様から怒られるべき存在だと、ますます知るようになるからです。周りの人に「ばか者」と言えなくなる。自分こそが「ばか者」だと分かるようになる。

 “山の上”にとどまろうとする罪。「有頂天」になって、人を見下す罪。この罪から解放してくださるのは、イエス様ただお一人です。下り坂にこそ、イエス様が伴ってくださる。低い所にこそ、イエス様は来てくださる。キリスト教は“上昇志向”ではありません。十字架以外に、私たちに誇るべきものはありません。階段を登っていく必要なんてないんです。そんなことをしても、イエス様とすれ違うだけです。疲れるだけです。高さ比べは止めましょう。ひざまずいて祈りましょう。調子に乗りがちな私たちの頭を低くして、一緒に山を下りてくださる主に感謝を献げましょう。

 イエス様と一緒に山を下りる人生は、つまらない人生ではないはずです。低く下れば下るほど、見えてくる世界の美しさがあります。それまでは気づかなかった人の優しさがあります。不必要なこだわりを捨てることによって、無用な争いから離れることによって、自分の新しい才能や賜物を発見することもあるでしょう。イエス様が一緒に歩いてくださるなら、そこは恵みの世界です。2023年の残る半年も、階段を降りてまいりましょう。一歩ずつ、一歩ずつ、主イエスの御姿に近づかせていただきましょう。お祈りします。


祈り

 父なる神さま。高い場所を目指し、そこにとどまろうとしてしまう私たちです。自分勝手な高さ比べをして、偉そうに人を見下したり、誰かに見下された気分になってしまう私たちです。イエス様、私たちの手を取って、山を下りさせてください。だれのことも見下すことのできないような、低い場所に連れて行ってください。そして、そこにしかない、山を下りたその先にしかない、あなたの恵みを味わわせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。