マルコ9:30-37「だれが一番偉いか」(宣愛師)

2023年7月30日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』9章30-37節


30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」



「だれが一番偉いか」

 まずは、30節から32節をお読みします。


30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

 イエス様は、ガリラヤを通っておられた。しかし、ガリラヤの人々に「知られたくない」と思った。私たちからすれば、「イエス様、もったいないじゃないですか!もっとたくさんの人の病気を治したり、悪霊を追い出したりしてくださればいいのに、どうして隠れてしまうんですか!」と思ってしまうかもしれません。

 ところが、この時のイエス様には、病気を治すことや悪霊を追い出すことよりも、もっと優先すべきことがありました。それは、「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」ということを、弟子たちが理解するまで教え続けるということです。イエス様の十字架と復活。このことを弟子たちが理解しない限り、どれだけ多くの病気を治しても、どれだけ多くの悪霊を追い出しても、“神の国”はこの世界にやって来ない。“神の国”は完成しない。

 しかし、弟子たちにはまだまだ理解できないんです。イエス様のことばが理解できない。いや、もっと正確に言えば、理解したくないんです。理解するのが怖いんです。「イエス様は“神の国”の王様なのに、どうして殺されてしまうんだ? もしイエス様が殺されてしまうなら、おれたちが信じている“神の国”というのは一体何なんだ? “神の国”というのは、敗北者たちの集まりなのか?」

 弟子たちはイエス様に尋ねようともしません。自分たちの価値観が壊されてしまうことを恐れていたからです。弟子たちは、「力強い勝利者であるイエス様のもとで、自分たちも力強い勝利者になりたい、なるはずだ」と思っていたのでしょう。それが弟子たちの価値観でした。そんな自分たちの価値観が、自分たちの常識が、イエス様によって壊されてしまう。それが怖くて、質問もできない。

 このような弟子たちの価値観は、33節と34節でさらに明らかになります。


33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。

 「だれが一番偉いか論じ合っていた」。ヨハネの福音書を読むと、最初にイエス様の弟子になったのはアンデレだったようなので、「おれが最初にイエス様の弟子になったんだから、おれが一番偉いはずだ」などと言ったりしていたのかもしれません。もしくは、ペテロやヤコブやヨハネあたりが、「いや、おれたちだけがイエス様と一緒にあの山に登ったんだから、おれたちが特別な存在だ」と言ってみたり、イスカリオテのユダあたりが、「いや、おれはイエス様からお金の管理を任されているんだから、おれが一番信頼されているはずだ」などと言っていたのかもしれません。そうやってお互いの間でランク付けをし合って、喧嘩のようになっていたのかもしれないし、意外と楽しく盛り上がっていたのかもしれません。

 明日からは一泊二日で「岩手こどもキャンプ」が開催されますけれども、私も子どもの頃は、教会のキャンプに毎年参加していました。キャンプについては楽しい思い出がたくさんあります。でも、教会のキャンプだからといって、楽しい思い出や美しい思い出ばかりではありません。

 中学生くらいの頃に参加したキャンプでの出来事です。その日のキャンプのプログラムが終わって、就寝時間になると、男子部屋と女子部屋にそれぞれ分かれていく。すると、男子部屋では男子たちが布団の上に寝転がって、頭を近づけて、ひそひそ話をするんです。「どの女の子が一番かわいいか」みたいな話が始まるわけです。さすがに教会のキャンプだからか、「かわいくないのは誰か」みたいな話はしないんですが、実質的にランク付けのようなことをしている。スタッフの大人たちは先に眠っています。「あの子がかわいい」「いや、あの子がかわいい」と、褒め囃される女の子たちがいる一方で、そもそも話題に上げられなかった女の子たちもいる。

 正直なところ、私自身はそういう話題についていくことができませんでした。人を格付けするようなことはしてはいけないと、中学生なりに考えていたのかもしれません。でも、朝になって、実は女の子たちも同じようなことをしているらしい、男子たちを格付けしているらしいと聞いて、興味が湧いてしまう。「自分は話題に上がっているのだろうか、高い順位に入っているのだろうか」と気になってしまうんですね。「人を格付けするようなことはしないぞ」と立派そうなことを考えていても、いざ自分が評価される側になると、やっぱり気になってしまう。

 また、こんな話を聞いたことがあります。関東の都市部の教会でスタッフとして働いていた人から聞いた話です。そのスタッフの方がある日、教会の働きに関することで、教会の宣教師と衝突してしまったそうです。宣教師との意見が合わず、言い合いになってしまった。その時、宣教師との喧嘩の中で、こんなことを言われてしまったそうです。「あなたはそんな考え方をしているから、洗礼を授けた人数が少ないんだ。私はあなたよりももっと多くの人に洗礼を授けている。」

 宣教師や牧師でさえも、「だれが一番偉いか」という議論に囚われてしまうものです。「どれだけ多くの人に洗礼を授けたか」「どれだけ立派な礼拝堂を建てたか」「どれだけ大人数の教会を作り上げたか」「あの牧師はどうだ、あの教会はどうだ」と比べてしまう。優越感に浸ったり、嫉妬をしたりする。自分よりも優秀な牧師について“あら探し”をしてみれば、その逆に、なかなか上手く行かない自分の働きについては、色々な言い訳を並べ立てて納得してみたりする。

 だれが一番偉いか。こういう価値観の中では、私たちは幸せになれません。しかし、幸せになれないと分かっていても、抜け出すこともできない。こういう議論というのは、結構楽しかったりする。自分がどういう順位にいるのか気になるからです。もしくは、低い順位にいるとなると、悔しい。悔しいけど、やはり気になってしまう。もっと高く評価されたい。もっと褒められたい。優れた人だと思われたい。でも本当は苦しい。息苦しい。こんな議論には、本当は巻き込まれたくない。でも、やめられない。

 そんな私たちに対して、「何を論じ合っていたのですか」と、イエス様が問いかける。私たちは黙ってしまいます。自分たちが論じ合っていることがいかに恥ずかしいことか、愚かなことか、本当は分かっているからです。イエス様は、その愚かな価値観から、息苦しい価値観から、私たちを救い出そうとされる。“神の国”とはどういうものか。「偉い」というのは本当はどういうことか。病気を治すことよりも、悪霊を追い出すことよりも、何よりも大切なことを、イエス様は私たちに教えようとされるんです。私たちが理解できるようになるまで、「一番偉い」はずのイエス様が、なぜ十字架にかからなければならないのか、そのことの意味を理解できるようになるまで。


「わたしの名のゆえに」

 35節から37節をお読みします。


35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 イエス様は子どもを連れて来て、「子どもが一番偉いんだ」と仰いました。なぜ子どもが偉いのでしょうか。「子どもは素直だから偉い」とか、「子どもはかわいいから偉い」とか、そういうことではありません。当時の世界では、子どもは“価値の低い存在”だったんです。子どもは大人のようにお金を持っていない。子どもは大人のようには社会の役に立たない。だから、価値が低い、と考えられていたんです。そんな時代に、子どもを連れてきて、「一番偉いのはこの子たちだ」と、イエス様は言ったんです。「あなたがたが信じている常識は、なんと間違っていることか」と言われたんです。

 「受け入れる」とはどういうことでしょうか。たとえて言うなら、誰かを家の中に招き入れるようなことかもしれません。私たちがだれかを家の中に招き入れるとすれば、その人を受け入れているということです。逆に言えば、「この人は私の家に入れたくない」「この人は家に招きたくない」と思っているなら、私たちはその人を受け入れていない、ということになる。

 私たちは大抵の場合、「受け入れる価値がある」と判断した人のことは家に招きたがります。「この人と仲良くしておけば、何か自分に得になるはずだ、メリットがあるはずだ」と判断して、人を家に招く。偉い人のためになら、喜んでおもてなしをする。偉い人をもてなせば、自分にもメリットがあるかもしれないから。自分も偉くなれるかもしれないから。相手がお金持ちなら、喜んで仲良くする。お金持ちと仲良くすれば、自分もお金持ちになれるかもしれないから。

 教会だって、そうやって人を判断する危険があるかもしれません。教会に新しい人が来る。「おお、この人が教会メンバーになってくれたら、教会会計は助かるかもしれない」と思ってしまう。その一方で、小さな子どもが教会に来ると、それはもちろん嬉しいんだけれども、「まあ、献金は期待できないかな」と考えてしまったり、「将来の教会を支えてもらえるかも」と考えたりする。能力があるかどうか、役に立つかどうか、そういう価値観が、教会の中に入り込む危険がある。

 二千年前のイエス様の時代に比べれば、今の子どもたちは大切にされているかもしれません。しかし、「子どもたちを大切にする」といっても、なぜ大切にするのか、その理由が重要だと思います。「子どもは国の宝だ」と言われることがあります。それはその通りでしょう。しかし、「子どもは国の宝だ」という言い方の中には、「子どもは将来の国家の繁栄のために役立つ存在だから大切だ」というニュアンスが入り込んでいるかもしれません。そうなると、逆に言えば、「国の繁栄のために役に立たない子どもは宝ではない」ということにもなりうる。「国」という存在のために役に立つ、都合の良い子どもたちが「宝」と呼ばれ、大切にされる一方で、そのレールからはみ出てしまった子どもたちや、役に立たないと判断された大人たちは、軽んじられる危険がある。

 イエス様は、「子どもたちは将来的に役に立つから受け入れなさい」とは言いませんでした。「子どもたちは将来的に教会を支えるクリスチャンになってくれるから受け入れなさい」とも言われなかった。ただイエス様は、「わたしの名のゆえに受け入れなさい」と仰った。「わたしの名のゆえに」というのは、「経済力のゆえに」とか、「素直さのゆえに」とか、「かわいさのゆえに」ということとは違います。ただ、イエス様の名によって、子どもたちを受け入れる。何も見返りが期待できないとしても、イエス様の名のゆえに受け入れる。神の子であるイエス様が十字架にかかったことによって、この世界の価値観は破壊され、ひっくり返され、新しくされた。その新しくされた価値観の中で、私たちは小さな人々を喜んで受け入れるんです。

 『靴屋のマルチン』という物語をご存知でしょうか。トルストイという有名な小説家が書いたもので、クリスマスの時期によく読まれる、冬の寒いロシアを舞台にした物語です。少し長くなりますけれども、ぜひこの物語をご紹介させてください。


 ある町に、マルチンという名前の靴職人が住んでいました。マルチンは、地下室の小さな部屋に一人で住んでいました。その地下室の窓からは、町行く人々の足元が見えます。マルチンは町中の人たちの靴を修理していたので、靴を見ただけでも、だれが通ったかすぐに分かるのです。

 朝から晩まで、マルチンは丁寧に靴の修理を続ける、熱心で真面目な職人でした。しかし、彼の心には悲しみがありました。マルチンの妻は、ずいぶん前に亡くなってしまいました。マルチンは小さな息子と二人暮らしをしていましたが、ついに息子も病気で死んでしまいました。以前のマルチンはクリスチャンでしたが、今ではもう、教会にも行かなくなっていました。

 そんなある日、マルチンは一人の友人との会話の中で、「聖書を読みなさい」と促されます。その言葉のとおり、マルチンは本屋に行って聖書を買い、福音書を読み始めました。毎晩毎晩、熱心に読みました。そんなある日、マルチンは夢の中でこんな声を聞きました。「マルチン、マルチン、わたしは明日、おまえに会いに行くよ。」目が覚めたマルチンは、「あれはイエス様の声だ」と思いました。「本当にイエス様が会いに来てくれるのだろうか。」マルチンの胸は躍ります。

 いつものようにマルチンは仕事を始めましたが、イエス様が来ると思うと、窓の外が気になって仕方ありません。すると、雪かきの仕事をしているおじいさんが、疲れて倒れ込んでいることに気が付きました。「ああ、あんなに年をとって雪かきだなんて大変だ」と心配になったマルチンは、「少しあたたまっていきませんか」とおじいさんに声をかけて家に招き入れ、温かいお茶を出しました。雪かきのおじいさんは、「ありがとう」とお礼を言い、元気になって帰っていきました。

 おじいさんを見送ったマルチンが再び仕事を始めると、今度は、女の人が赤ちゃんをあやしているのが窓の外に見えました。赤ちゃんは泣き止まないし、女の人は寒そうな格好をしています。「お母さん、よかったらうちであたたまっていきませんか」と、マルチンは声をかけて家に招き入れ、あたたかいスープを出し、赤ちゃんにも温かいミルクを飲ませてあげました。「この寒さで上着もないなんて辛いだろう」と、マルチンは自分の上着もあげてしまいました。女の人は泣きながら何度も何度もお礼を言い、上着の中に赤ちゃんと一緒にくるまって、帰って行きました。

 マルチンが再び仕事に戻ると、今度は大きな声が聞こえました。「今日こそはゆるさないぞ!」どうやら、リンゴを盗もうとした男の子が、お店のおばあさんに捕まえられたようです。マルチンは飛び出して行って、「まあ、まあ、おばあさん、ここはどうかゆるしてやってはくれませんか。リンゴのお金は私が払います」と言い、男の子に対しても、「これからは盗んだりしてはいけないよ」と諭しました。カンカンに怒っていたおばあさんは、男の子が反省しながら「ごめんなさい」と言っている様子を見て、ゆるしてやりたい気持ちになりました。おばあさんは男の子の頭を優しく撫でました。男の子もおばあさんに申し訳ない気持ちで、「荷物を運ぶのを手伝わせてくれませんか」と言いました。マルチンが見送ると、二人は仲良く歩いていきました。

 家に戻ったマルチンは、仕事を再開しましたが、もうすっかり暗くなってきたので、ランプを灯して、道具を片付けました。「イエス様は来てくださらなかった。」マルチンはため息をつきながら、棚から聖書を取り出して、昨日の続きを読もうとしました。するとその時、マルチンの目の前に不思議な光が現れ、昼間に出会った雪かきのおじいさんが、女の人と赤ちゃんが、おばあさんと男の子が現れました。そして、あたたかな声が聞こえました。「マルチン、マルチン、わたしはおまえに会いに行ったよ。」この声を聞いて、マルチンの胸は喜びでいっぱいになりました。

参照:「「くつやのマルチン」のお話」(塩山カトリック幼稚園HP:https://therese.jp/pages/87/detail=1/b_id=839/r_id=157/)など

 トルストイが書いたこの物語のもともとの題名は、『愛あるところに神あり』です。愛あるところに神あり。小さな人々の中に、偉大な神様が臨在しておられる。小さな人々を招き入れることによって、私たちの小さな家もまた、偉大な神の家となる。神が会いに来てくださる家となる。

 最後にもう一度、マルコの9章35節から37節をお読みして、今日の説教を閉じたいと思います。


35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 一言お祈りをいたします。


祈り

 神様、「だれが一番偉いか」などという愚かな議論から抜け出すことができず、疲れを覚えている私たちです。どうか、イエス様が十字架にかかってくださったことの意味を、神の子であるはずのお方が最も低い場所にまで降りてくださったことの意味を、私たちがはっきりと理解することができるようにお助けください。そして、愚かで間違った私たちの価値観を新しくしてください。価値が低いとされている人々をこそ、私たちが喜んで受け入れることができますように。見返りを求めず、利益を求めず、ただイエス様の名のゆえに、イエス様にお会いしたいというその願いのゆえに、イエス様をお招きしたいというその求めのゆえに、小さな人々を喜んで招き入れることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。