マルコ10:28-31「百倍の家族」(宣愛師)

2023年9月24日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』10章28-31節


28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」
29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
30 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」



「それでは、あなたとわたしは兄弟だ」

 本日の礼拝には、まなか先生が東京の市役所で働いていたときの同期であり、友人でもあるAさんとYさんが参加してくださっています。お二人は木曜日から盛岡旅行に来られていて、今日の午後には東京に戻られる予定です。四日間という限られた日程の中で、こうして礼拝に参加することは、お二人からすれば「せっかくの観光の時間が……」と思われてしまうことかもしれませんが、私たち盛岡みなみ教会にとってはとても嬉しいことですし、「まなかちゃんはどんなところで働いているんだろう?」と興味を持っていただければ、それも嬉しく思います。

 先週の日曜日にも、旅行で盛岡に来ていたDさんご一家が、私たちの礼拝に加わってくださいました。先週は秋山先生が盛岡みなみ教会で説教をしてくださる日でしたが、実は秋山先生がまだ牧師になる前、日立製作所の社員として働いていた頃に、日立の教会でお世話になっていたのが、Dさんのお母様だったそうです。秋山先生が牧師になることを志した時、秋山先生のご両親が「牧師になるなんてとんでもない」と猛反対され、日立の教会まで乗り込んで来たそうですが、その時に秋山先生を助けてくださったのも、Dさんのお母様だったということでした。

 日立製作所といえば、日本でも有数の大企業ですから、秋山先生がそこで働き続けていれば、今頃は「遊んで暮らせる」とまではいかないとしても、ゆったりとした余裕のある生活ができていたことでしょう。そんな大企業を辞めてしまって、牧師なんていう、少なくとも一般常識的には不安定な職に就こうというわけです。ご両親が心配して、反対された気持ちもよく分かります。

 秋山先生は今年で71歳ということで、とっくに退職をされていてもおかしくないわけですけれど、今でも仙台と盛岡の教会を車で往復されたり、東北宣教区の宣教区長として、広い東北地方の教会を訪ねて回ったりしておられます。しかも、牧師や宣教区長の仕事と並行して、週に数日の夜勤もしています。70歳を超えているとは思えない生活です。でも、もし私が秋山先生に、「会社を辞めて、牧師になったこと、後悔していませんか?」と尋ねても、答えは明らかだろうと思います。

 仕事を辞めて牧師になる、とまではいかないとしても、イエス様を信じてクリスチャンになるというだけで、みなさんも様々な犠牲を払って来られたでしょう。「クリスチャンになるなんてけしからん!」と家族からの反対を受けて、関係が難しくなった、そういう話も少なくありません。盛岡みなみ教会の中にも、イエス様を信じたせいで、苦い経験をされた方々がおられます。

 しかし、クリスチャンになったことで、一度は家族との関係がぎこちなくなったけれども、それでも聖書の教えを学び続け、イエス様の教えを少しずつ学んでいく中で、家族との関係が元通りになるどころか、以前よりもさらに良い関係になった、話せなかった家族と話せるようになった、赦せなかった家族を赦せるようになった、そんな経験をした人も少なくないはずです。イエス様のために何かを失ったとしても、それが失われたままになってしまうとは限らない。むしろ、もっと素晴らしい形でそれを取り戻すということもあるわけです。

 改めて、本日のみことばをお読みします。28節から31節まで。


28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」
29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
30 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」

 イエス様のために、福音のために、家や家族や畑を捨てる。すると、それがみんな「百倍」になって戻ってくる。いやいや、そんな虫の良い話があるかいな。そもそも、家が百倍になるなんて大変だ。そんなにたくさんいらないよ。固定資産税がすごいことになるよ、と思うわけです。「兄弟、姉妹」が百倍になるだって? 私は男だけの四人兄弟なので、男だけで四百人か。名前も覚え切れないかもしれない。「母」も百倍。一人だけでも手に負えないあの愉快な母が百人になるなんて、考えただけで恐ろしい。LINEの通知を確認するだけで、一日が終わってしまう。

 イエス様の言葉をじっくり読んでみると、いくつか発見があります。29節の“捨てるものリスト”の中には、「父」という言葉が出てくるのに、30節の“受けるものリスト”の中には「父」が出てこないんです。「兄弟、姉妹、母」は百倍になるのに、「父」はない。なぜかと言えばそれは、私たちの「父」は、ただお一人の神様だけだからです。

 1800年代に働いていたカナダ人の宣教師で、エガトン・ヤングという名前の人がいましたが、彼について次のようなエピソードが残っています。


サスカチワン(カナダの西部)でアメリカ・インディアンにエガトン・ヤングが最初に福音を語ったとき、神が父であるという考えが、今まで、神をただ雷と稲妻と嵐と突風との中に見て来た人々を魅惑してしまった。一人の年老いた首長がエガトン・ヤングにいった、「あなたは神に『われらの父よ』といったのか」と。エガトン・ヤングが「そういいましたよ」というと、「神はあなたの父なのか」と首長がたずねた。「その通り」とエガトン・ヤングが答えた。「そして、彼はまた、わたしの父なのか」と首長が続けた。「たしかにそうだ」とエガトン・ヤングがいった。突然、首長の顔は新しい光に輝いた。彼は手を差しのばし、「それでは、あなたとわたしは兄弟だ」と、まばゆい発見をした人のようにいった。人がクリスチャンになるためには非常に大切な結びつきを犠牲にしなければならないかも知れないが、しかし彼らがそうしたとき、彼は大地や天国と同様に広い家族や兄弟の一員となるのである。

ウィリアム・バークレー『マルコの福音書(聖書注解シリーズ3)』大島良雄訳、ヨルダン社、1968年、300頁。一部表現を変更。

 家が百倍になるとか、兄弟姉妹が百倍になるなんて言われても、馬鹿らしい話だ、と思うかもしれません。しかし、イエス様を信じてクリスチャンになるということは、文字通り、世界中に家族を持つということです。私たちの、血の繋がった「家族」であれば、親戚を入れても数十人かもしれません。ところが、イエス様を信じる家族は、おひとりの神様に「われらの父よ」と呼びかけることのできる家族は、今生きている人だけでも、全世界に10億人、20億人です。クリスチャンは、世界中のどこに行ったとしても、そこに自分の「家族」を見つけ、自分の「家」を見つけることができるんです。「百倍」どころではない、もっともっと多くの祝福がある。そして、その先には「永遠のいのち」という最大の祝福が待ち構えている。


「家族でもないのに」?

 もちろん、クリスチャンになることは、楽しいことばかりではありません。もう一度、マルコの10章に戻っていただいて、30節を見てみますと、「迫害とともに」という言葉があることに気づきます。イエス様に従うということは、ただ楽しい祝福をうけるというだけではなく、イエス様のために迫害をも受けるということです。イエス様の味方になる、つまり、イエス様の敵の敵になるということです。イエス様が攻撃される時、私たちも攻撃されます。イエス様が十字架にかかる時、私たちも十字架にかかります。イエス様を信じたからと言って、すぐに幸せいっぱいになるわけではない。すぐに永遠のいのちを手に入れて、ハッピーハッピーというわけにはいかない。

 ペテロは、「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました」と、かっこよく宣言しました。しかし、かっこいい宣言をしたペテロの頭の中では、「だから私たちは、そろそろ幸せにしていただけますよね?たくさん捨てた分、いっぱい祝福を与えていただけますよね?」というような下心があったのかもしれません。そして、そんなペテロの下心を諫めるために、イエス様は31節で、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」と仰ったのかもしれません。「ペテロ、いいかい。たしかにお前は、わたしのためにすべてを捨てて、ついて来てくれた。おまえには必ず、百倍の祝福が与えられる。でもね、わたしについてくるということは、祝福をいっぱいもらって、人々の先頭に立って、偉そうに振る舞うことではないんだよ。むしろ人々の後ろに下がって、一番後ろに下がって、人々のために仕えるということなんだよ。迫害されても、迫害する者たちのために祈り続けるということなんだよ。」

 世界中に10億人、20億人もいる、キリスト教会という大家族。この大家族は、「自分たちこそ選ばれた民だ」などと偉そうに言い張るために造られた家族ではありません。教会という家族は、この世界の人々の後ろに下がって、一番後ろにいる人たちのさらに後ろに下がって、お仕えするために造られた家族です。疲れている人々、餓えている人々、差別されている人々の後ろに立って、その倒れそうな背中を支えるために、私たちは選ばれました。だから私たち、まず私たちクリスチャン同士が、互いを支え合う家族となっているかどうかを、いつも確認する必要があります。

 私とまなか先生は、結婚して半年が経ちました。いつだったか忘れましたが、夫婦の顔写真を選ぶと、二人の顔を合成してくれて、「子どもが生まれたらこんな顔になるでしょう」みたいなアプリを使って遊んだことはありますが、今のところ、まだ子どもが与えられているわけではありません。子どもが与えられたら幸せだろうなと思います。でも、もちろん、子どもを望んでも与えられない、ということもあるかもしれません。神様が命をお造りになろうと決定されない限りは、尊い一つ一つの命が生まれて来ることはありません。

 しかし、たとえ私たち夫婦の間に子どもが与えられなかったとしても、もうすでに「百倍」の子どもたちが与えられている、なんてことを言ったら、みなさんは驚かれるでしょうか。冗談を言っているわけではありません。私たち夫婦には、もうすでにたくさんの子どもたちが与えられています。今日も一緒に礼拝しているMくんも、Iちゃんも、(みんなは嬉しいかどうか分からないけど)かわいいかわいい子どもたちです。今日はここに来ることができなかった子どもたちもみんな、私たちにとって大切な家族です。もちろん、私たちと同世代のAちゃんも、大切な兄弟姉妹ですし、盛岡みなみ教会に連なるみなさんお一人ひとりは、子どもであろうと大人であろうと、神の家族です。ただお一人の神様に向かって、「天にいます、私たちの父よ」と祈る私たちは皆、同じ父を持つ家族です。

 私は時々、この教会で働いていて、みなさんと関わっていて、少し寂しくなることがあります。みなさんが抱えている悩みを、家族として受け止めて、一緒に悩みたい、なんでもお手伝いしたいと思っているのに、やっぱりどこか他人行儀になってしまうというか、「宣愛先生にそこまでさせるのは申し訳ない」と思わせてしまっている気がして、少し寂しくなるんです。「そんなことまでお願いするのは申し訳ない。宣愛先生やまなか先生も忙しいし、まだ一年目や二年目で大変だろうから」と、みなさんが気遣ってくださる気持ちは嬉しいんです。でも、「そんなことまでお願いするのは申し訳ない」というみなさんの言葉の裏に、「家族でもないのに……」みたいな、そんな雰囲気がもしかすると聞こえてくるような気がすると、少し寂しくなるんです。私たちは家族ではなかったのか。血の繋がった家族よりも、さらに深い絆で結ばれた家族ではなかったのか。本当に大変な時には、「家族でもないのに、そこまで頼る訳にはいかない」と思わせてしまうのかと、申し訳なくなる。

 「家族」という言葉を使っても、大げさに聞こえてしまうでしょうか。「私たちは家族です」という言葉が大げさな表現に過ぎないのだとすれば、イエス様も大げさなことを言ってみただけなのでしょうか。イエス様の教えは、「家族という表現を使って、私たちの深い絆を表してみたよ。もちろん、ホントは家族ではないけどね、そこまで深い関係ではないけどね」ということだったのでしょうか。私たち夫婦には、本当は「百倍」の家族なんて与えられていなかった、ということなのでしょうか。

 まなか先生と一緒に働いていたAさんやYさんからすれば、「まなかちゃんはどうして、せっかく就職した市役所をやめて、教会で働くことにしたんだろう?」と不思議に思っているかもしれません。「まなかちゃんは、一体何のためにキリスト教会の伝道師になったんだろう?」と。そして今日、こうして盛岡みなみ教会に来てみて、「ああそうか。まなかちゃんはこういうビジネスをやっているのか」とか、「こういう会社を経営しているのか」みたいな感想を持たれてしまったとすれば、私たちとしては少し残念です。でも、もしお二人が、「ああそうか。まなかちゃんは大きな家族のために働いているんだ」と思ってくださるなら、とても嬉しく思います。

 教会は、イエス様が私たちのために造ってくださった家族です。喜びも苦しみも、祝福も迫害も、全てを共有していく家族です。神様という「ビッグ・ダディ」のもとで、世界中に何億人もの兄弟姉妹を持ち、互いに支え合いながら子どもたちを育てていく。この家族の一員として歩む私たちは、もはや一人で生きていくことも、一人で死ぬこともありません。生きるときも、死ぬときも、死んだ後でさえ、私たちは孤独ではありません。イエス様が与えてくださった「百倍」の祝福、「百倍」の家族は、私たちが永遠に、いつまでも一人ぼっちにならなくて良いようにと、父なる神様が与えてくださった贈り物です。

 この家族のためになら、この家族を守っていくためになら、私は一人の伝道師として、一人のクリスチャンとして、人生のすべてをささげても悔いはないと思っています。すべてを捨てて、イエス様にお従いしても、我が生涯に一片の悔い無し。心からそう思います。みなさんはいかがでしょうか。これからもみなさんとご一緒に、この大きくて、不思議で、温かい神の家族とともに、祝福の道を歩んでいきたいと願っています。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。あなたを「父」とお呼びするために、そしてお互いが家族であることを確認するために、今日も私たちはこの礼拝の場に集っています。イエス様がお造りになった、この大きな大きな家族の祝福を、これからも私たちにお与えください。人生の喜びも、苦しみも、分かち合いながら、助け合いながら、ともに生きていくことができますように。永遠のいのちに至るまで、手を取り合って、支え合って、愛し合って、ともに歩みを進めることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。