2025年12月
No.191【 「かぞえてみよ主の恵み」 】
◆毎年年末が近づくと、僕の頭の中には「かぞえてみよ主の恵み~♪」というメロディが流れ始めます。この一年、どんな恵みを頂いただろうか。毎週の日曜礼拝、水曜チャペル、チャーチスクール、そして“教会”という枠を越えた様々な交わ […]
ヨハネ11:38-40「信じるなら神の栄光を見る」(まなか師)
・・・・・・長年修復しようと努力してもうまくいかない家族関係。何度挑戦しても跳ね返される仕事や経済的な壁。あるいは、誰にも言えずに抱え続けてきた過去の傷や、こんな自分は変われないという無力感。私たちはそういった問題の前で立ち尽くし、「もうこれが自分の運命なのだ」とあきらめてしまうことがあります。……しかし、イエス様はこれから起こる「いのち」のわざを見ておられました。私たちが「もう手遅れだ」と思うその場所こそが、神様が働かれる舞台なのです・・・・・・
No.190【サンタさんとイエスさまの違い】
◆「クリスマスといったら?」―――子どもたちにそう尋ねると、「ケーキ!」「ツリー!」「プレゼント!」という答えとともに、「サンタさん!」という答えも返ってきます。教会で育った子どもであれば、「イエスさま!」という答えもあ […]
Ⅰヨハネ1:1-2「いのちのことば」(宣愛師)
・・・・・・今日、Kくんが洗礼を受けます。洗礼とは、“死のことば”から“いのちのことば”へ、“死のロジック”から“いのちのロジック”へ、全く新しい人生を始めるための儀式です。今日Kくんが洗礼を受けるのは、一年か二年くらい聖書を学んで、教会に通って、「もうそろそろ罪はなくなったかな」と言えるような、「自分には罪がない」と言えるような、そんな立派なクリスチャンになったからではありません。そうではなく、むしろ逆です。「自分には罪がない」と言わなければならない、思い込まなければならない、そんな“死の論理”から解放されて、自分の罪を素直に認めることのできる幸い、自分の罪を認めてもなお深い赦しと愛を頂いている幸いを知ったからこそ、Kくんは洗礼を受けるのです・・・・・
No.189【キッズクリスマスパーティ!】
◆本日午後の“キッズクリスマスパーティ”は、ひとり親家庭を支援する“エスクル岩手”さんとの共催です。こども食堂から始まったエスクルさんとの繋がりが、今もこのような形で続いていることは感謝です。教会が「祝福の源となる」こと […]
ルカ24:36-43「わたしにさわって、よく見なさい」(宣愛師)
・・・・・・私たちはどうでしょうか。子どもたちに何かを教えようとするとき、職場の後輩を教育しようとするとき、教会の仲間たちと関わろうとするとき、口先だけのアドバイスで満足してはいないでしょうか。「ゲームばかりしていないでちゃんと勉強しなさい」「もっと自覚を持って仕事に取り組みなさい」「クリスチャンならこうあるべきでしょう?」―――しかし、イエス様は違いました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。わたしにさわって、よく見なさい。」・・・・・
No.188【近づくクリスマス、近づくイエスさま】
◆今年のアドベントの四週間は、12月の月間聖句に沿って聖書箇所を選ぶことにしました。―――「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについ […]
使徒4:13-22「無学な普通の目撃者たち」(宣愛師)
・・・・・・ペテロとヨハネは「無学な普通の人」でした。ガリラヤ地方という田舎の湖で、網で魚を獲って生計を立てていた、ただの漁師でした。聖書の学者でもなければ、哲学の教師でもありませんでした。しかし彼らは、イエス様と出会ったのです。そして、最高法院のエリートたち、権力者たちを前にして、堂々と福音を語ったのです。生まれつき足が不自由で、四十歳になるまで歩けなかった人を、ペテロとヨハネは癒やしてしまうのです。「こいつらは一体何者だ?」と、権力者たちは驚きます。「無学な普通の人」のくせに、逮捕しても平気な顔だ。脅してもびくともしない。どうしてこんなにも堂々としていられるのか?・・・・・





