聖書の説教
ヘブル10:19-25「招待」(礼拝式シリーズ②|宣愛師)
・・・・・・この世界は、色々な「招きのことば」で溢れています。テレビやYouTubeを観ていれば、「新モデル発売」とか、「◯◯店、リニューアルオープン」というようなCMが流れて来ます。それらの「招きのことば」は、どんな人を招いているのでしょうか。商品のためにお金を払ってくれるお客さんです。もしくは、「新規スタッフ募集中!未経験者大歓迎!」みたいな求人広告も流れてきます。それらの「招きのことば」が招いているのは、お店のために労働力を提供してくれる従業員です。……しかし、そのような世の中にあって私たちは、全く新しい「招きのことば」を耳にするのです。経済力や労働力とは全く関係無しに、私たちを招いておられる方の「招き」です・・・・・
ヨハネ9:1-7「神のわざが現れるため」(まなか師)
・・・・・・この盲人は、泥を目に塗られた不格好な状態で、池に向かっていく。途中で、周りの人たちから注目され、ひそひそと後ろ指をさされたかもしれない。恥ずかしくて不甲斐ない思いをしたかもしれない……私たちは普通、「顔に泥を塗られる」ようなことが起こると、恥ずかしさのあまり、自分の失敗を責めたり、他人の罪を責めたくなってしまいます。しかし、「実はこの泥は、私のためにイエス様が塗ってくださった泥なのかもしれない」「私を造り変えるための泥なのかもしれない」と気づくとき、私たちの「盲目」は癒やされていくのです・・・・・・
ハバクク2:18-20「前奏」(礼拝式シリーズ①|宣愛師)
・・・・・・ところが、ピアノの奏楽が流れている間、私たちは一体何をすれば良いのでしょうか。とりあえず静かにしてみます。目を閉じてみて、心の中で祈ってみたりします。しかし、「主をお迎えする備えをいたしましょう」と言われても、一体どんな備えをすれば良いのだろうかとも思うのです。このような戸惑いは「前奏」に限ったことではありません……今日から始まるシリーズを学ぶ中で、これまではなんとなく過ごしてしまっていたかもしれない礼拝プログラムの時間が、これまで以上にかけがえのない時間となることを期待しています・・・・・
ルカ18:28-30「とこしえのいのち」(使徒信条㉔|宣愛師)
・・・・・・『ギルガメシュ叙事詩』という物語をご存知でしょうか。世界で最も古い物語の一つと言われています。主人公のギルガメシュは偉大な王様であり、英雄でした。ところが、彼の親友が死んでしまったことをきっかけとして、彼は死の恐怖に取り憑かれてしまいます。そして、「永遠のいのち」を求めて旅を始めたのです。しかし、その旅を通して彼が知ったことは、残酷な真実でした。「永遠のいのちは神々のもの。人間が手に入れることはできない。」・・・・・
第一コリント15:35-44「からだのよみがえり」(使徒信条㉓|宣愛師)
・・・・・・皆さんは「こんな身体、脱ぎ捨ててしまいたい」と思ったことはないでしょうか。身体というのは厄介なものです。若くて健康な頃には元気に動いていた身体が、病気や怪我を重ねながら、段々と動かなくなっていく。肌は衰え、筋肉は弱り、腰は曲がり、苦痛に悩まされるようになる。かといって、若い人は若い人で大変です。思春期になれば、身体のあちこちが変化していきます。頼んでもいないのに形が変わったり、勝手に毛が生えてきたりして、自分の身体が自分の身体ではないように思えてくる。見た目が気になってしまって、人と比べて、自分が嫌いになっていく・・・・・
マタイ16:14-20「罪の赦し」(使徒信条㉒|宣愛師)
・・・・・・信じるだけで赦されるということと、人を赦さなければ赦されないということは、実のところ矛盾しません。なぜなら、私たちが信じるイエス・キリストというお方は、私たちが赦したくない人を赦してしまうお方だからです。……皆さんには今、赦せない人がいるでしょうか。なぜその人のことが赦せないのでしょうか。その人はどんな人でしょうか。あなたはその人に何をされたのでしょうか。よほど嫌なことをされたのでしょう。あなたがその人を赦さないなら、神様もあなたをお赦しにならないと言われたら、あなたはその人を赦せるでしょうか・・・・・
ヨハネ6:41-51「引き寄せてくださらなければ」(まなか師)
・・・・・・私たちの間でも、聖書に詳しい人がやっぱりすごいとか、色んな哲学や宗教の難しいことを知っている人がやっぱり偉いとか、そういう感覚があると思います。勉強熱心なことは良いことですし、学び続けることができるのは賜物ですが、「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはでき」ない。イエス様はそう語っておられます。偉い人も、そうでない人も、父が引き寄せてくださらなければ、イエス様のもとに行くことはできない・・・・・・
第二コリント8:1-15「聖徒の交わり」(使徒信条㉑|宣愛師)
・・・・・・あるクリスチャンの女性が、こんな風に話しておられたことを思い出します。「いつか私がいなくなって、息子が一人になってしまった時、息子と一緒に生きてくれる教会を探しているんです」―――この切実な願いに応えられる教会でありたいと思います。ともに食卓を囲める仲間がいます。いつでも悩みを相談できる仲間たちがいます。学校や仕事に行けない日があれば、平日だって教会に来れます。牧師や伝道師はもちろんのこと、助けが必要な時にはいつでも駆けつけてくれる仲間たちがここにいます。この「聖徒の交わり」がある限り、私たちは生きていけるのです・・・・・
第一コリント1:10-17「聖なる公同の教会」(使徒信条⑳|宣愛師)
・・・・・・しかしそれにしても、なぜわざわざ「われは教会を信ず」と告白するのでしょうか。「父なる神を信ず」「主イエス・キリストを信ず」「聖霊を信ず」ということなら分かります。しかし、なぜ「教会を信ず」と告白するのでしょうか。それは、教会を信じられない、という現実があるからではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。教会を信頼できない、教会につまずいた、失望した、という経験はないでしょうか・・・・・





