マタイ28:1-10「死人のうちよりよみがえり」(使徒信条⑮|宣愛師)
2025年7月13日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マタイの福音書』28章1-10節
28:1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
9 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
10 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

「あなたがたは、恐れることはありません」
週報のコラムにも書きましたけれども、先月この教会で開かれた吉村美穂さんと野田常喜さんのコンサートの中で、最初に演奏されたのが『愛の挨拶』という曲でした。元々は歌詞のない曲ですが、美穂さんがこんな素敵な歌詞をつけて歌ってくださいました。
春のそよ風吹いて 花びらが踊ってる
それだけで嬉しいの あなたがいること秋の落ち葉を踏んで かさこそ音を立てる
それだけで落ち着くの あなたがいるから誰でも一度は声をあげて泣いた夜があるわ
そんなときは思い出して 愛する人の温かさ痛みを知ってる人は優しさにあふれてる
そんなあなたに今日も愛の挨拶を
皆さんにも、あなたがいるだけでうれしい、と言ってくれる家族やお友達がいるでしょうか。あなたがいてくれるだけでうれしい。たとえあなたが、自分では自分のことを役に立たない人間だとか、こんな人間は生きていてもしょうがないと思ってしまうとしても、ただあなたが生きていてくれるだけで、あなたに会えるだけで嬉しいんだと、心から「愛の挨拶」を伝えてくれる人がいるでしょうか。ああ、こんな自分も生きていていいんだ、こんな自分も愛されているのだ、こんな自分も一人ぼっちではないのだと教えてくれる「愛の挨拶」を知っているでしょうか。
マタイの福音書28章が開かれています。1節を改めてお読みいたします。
1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の朝、二人のマリアが墓を見に行きました。愛するイエス様の遺体が納められた墓です。墓の入り口は固く閉ざされていました。彼女たちの心も悲しみの中で塞ぎ込んでいました。私たちも週の初めの日、日曜日の朝、こうして教会に集まっています。日曜日の朝、私たちも不安と失意の中にあるかもしれません。昨日までの一週間、色々な出来事があった。体調を崩したり、人間関係に疲れたり、悩みに押しつぶされそうになったりして、沈んだ心のままで、塞ぎ込んだ心のままで、日曜日の朝を迎えた私たちかもしれません。
しかし、この日曜日の朝、週の初めの日の朝、私たちの塞ぎ込んだ心に光が差し込むような、特別なことが起こるのです。2節から4節。
2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
大きな地震が起こりました。神様から遣わされた天使が、墓の入り口を塞いでいた石を動かしました。番兵たちは突然の出来事に、あまりの恐ろしさに、死人のように動けなくなってしまった。マリアたちも驚いたでしょう。恐ろしかったでしょう。しかしこの大地震は、マリアたちを怖がらせるためのものではありませんでした。5節から7節までをお読みします。
5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
「あなたがたは、恐れることはありません。」元々のギリシア語でも、「あなたがたは」という部分が強調されています。番兵たちは死人のように倒れていました。しかし、「あなたがたは、恐れることはありません。」私たちの人生にも、恐るべき出来事が起こります。それまでの日常がぐらぐらと揺り動かされ、思い描いていた人生設計や未来予想図が根本から覆されてしまうような大変化が訪れることがあります。しかしその大変化は、あなたを不安にさせるためのものではない。神様が揺り動かしている。神様があなたの人生をもっと良いものに造り変えようとしておられる。そのことを知らない番兵たちは動けなくなりました。しかし、これは神様がなさったことだと理解し、神様のみわざに身をゆだねたマリアたちは、力強く走り出したのです。
「互いにあいさつを交わしなさい」
8節から10節をお読みします。
8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
9 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
10 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
復活したイエス様が最初にお語りになったことばは、「おはよう」でした。死者の中からよみがえって、最初のことばがそれでいいのか、という気もします。もっと凄そうな感じで、「わたしはついによみがえった!」とか、「預言は成就した!」とか言っても良さそうなところですが、ただ一言、「おはよう」という挨拶のことば。
「おはよう」と翻訳されているこのことばは、「こんばんは」とか、「万歳」とも訳されることばです。イスカリオテのユダは、イエス様を裏切るまさにその瞬間、暗闇の中でイエス様に口づけをしながら、「先生、こんばんは」と言いました(26:49)。またローマの兵士たちは、殴る蹴るの暴力でイエス様を虐待しながら、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで、心の底からイエス様を馬鹿にしました(27:29)。「こんばんは」という裏切りのことばも、「万歳」という嘲りのことばも、どちらも、「おはよう」と同じことばです。同じ挨拶の言葉です。それなのに、同じことばなのに、こんなにも意味が変わってしまう。
人間関係は挨拶から始まります。相手の存在を心から喜んで、「おはよう」と言い合えるなら、私たちの心は温かくなります。他方で、「おはよう」が上手く言えないような人間関係もある。言葉の上では「おはよう」と言うけれど、心の中では何を考えているかわからない。そんな不安でぎこちない人間関係があると、職場や学校に行きたくなくなる。インターネットやSNSでも、「いいね」という挨拶みたいな機能がありますけれど、「いいね」と押し合う中にも、もしくはコメントやチャットで互いを褒め合う中にも、本当のところ裏では何を考えているのか分からない、実は自分に興味なんてないのではないか、実は自分を見下しているのではないかと不安になることもある。私たちは、自分の存在を心から喜んでくれる人を求めているのに、「今日もあなたに会えて嬉しい」「今日もあなたが生きていてくれて嬉しい」と心から喜び合える人間関係を求めているのに、形だけの挨拶や心無いことばによって傷ついたり、疑ったりして、疲れてしまう。
そんな私たちが今日、何よりも大切なこととして覚えたいことは、たとえ世界中に一人として、あなたの存在を喜んでくれる人がいなかったとしても、イエス様の「おはよう」は、心からあなたを愛しておられる方の「おはよう」なのだということです。そして、私たちがイエス様からいただいたこの愛の挨拶はやがて、毎週日曜日の朝に教会に集まる私たちの挨拶ともなっていくのだ、ということです。パウロ次のように語りました。コリント人への手紙第二13章11節と12節。
13:11 最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
12 聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。
「聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。」聖なる口づけってどんな口づけだよと思いますし、私たちのように奥ゆかしい盛岡人にはちょっとハードルが高いかもしれません。別に口づけまでしなくてもいいのです。「おはようございます」とか、「お変わりないですか」とか、「今日も暑いですね」とかでもいいのです。どんな形でもいい、「今日もあなたに会えて嬉しい」という気持ちを伝えることができれば良いのです。
もちろん教会の中でさえ、心から喜んで挨拶を交わすことができない、そんな時もあるでしょう。人間関係にいざこざが生じて、日曜日にあの人と顔を合わせるのが気まずい、あの人がいると思うと教会に行きたくない、そんなふうに思ってしまうこともあり得るでしょう。しかし、そんな時に私たちは、私たちに向けられたイエス様の「おはよう」を思い出したいのです。
イエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪のせいでした。復活したイエス様から、「おまえたちのせいで死んだんだぞ」「おまえたちの罪のために死んだんだぞ」と恨みつらみを言われたとしても仕方がないはずの私たちです。しかし、イエス様の復活というのは、「うらめしや~」と怨念がましくよみがえられたということではなかったのです。イエス様の復活は、もっとさわやかで、もっと温かいものでした。恨みのことばでもなく、皮肉っぽい挨拶でもない。罪深い私たちを温かく包み込むように、ただ一言、「おはよう」と呼びかけてくださった。イエス様に顔向けできないような罪を犯し続けている私たちであるにも関わらず、温かい愛の挨拶のことばをくださった。それなのに私たちは、誰かが自分に嫌なことをしたからと言って、気に入らない人がいるからと言って、意固地になって、ムキになって、愛の挨拶を拒み続けるのでしょうか。
日曜日の朝、私たちはともに教会に集まり、「おはよう」と声を掛け合い、ともにイエス様のみことばを聞き、一週間の出来事を分かち合い、そして、「また来週」と挨拶をして別れていきます。しかしやがて、「またね」とさえ言えなくなる日が来ます。永い永い眠りにつくことになるのです。身体が動かなくなる。声が出せなくなる。息ができなくなる。目の前が真っ暗になっていく。
ところが、その永い永い眠りの最後に、私たちは、「おはよう。朝だよ」と語りかける懐かしい声を聞くのです。「おはよう」と声をかけてくださるその人は、私たちよりも先に目を覚ました人です。私たちよりも先に眠りにつき、私たちよりも先によみがえってくださったお方だからこそ、私たちを永い眠りから呼び起こすこともおできになるのです。そして私たちは再び、愛する人々の懐かしい顔を見つめながら、「おはよう。久しぶりだね。また会えて嬉しい」と声を掛け合うのです。この希望をしっかりと握って、今日も明日も愛の挨拶を続けていく、世界中に愛の挨拶を広げていく、そんな盛岡みなみ教会の歩みを続けてまいりたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。自分みたいな人間が生きていて良いのだろうかと、どうしようもなく不安になる時があります。その一方で、あんな奴は絶対に赦すものかと、偉そうに人をさばいてしまうこともあります。どうか、愛の挨拶を聞かせてください。怒りも恨みも乗り越える愛の挨拶を教えてください。自分自身も赦されなければならない罪人であることを思い起こし、人の罪を赦すことができますように。どんな人に対しても、あなたに会えて嬉しい、あなたがいてくれて嬉しいと、愛の挨拶を伝えることのできる、愛の人、愛の教会となることができますように。復活の朝の「おはよう」を遥かに仰ぎ見て、今日も明日も、来週も再来週も、心を込めた「おはよう」を互いに伝え合うことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

