ヨハネ11:1-6「あなたが愛しておられる者が」(まなか師)
2025年11月16日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』11章1-6節
1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
「あなたが愛しておられる者が病気です」
ヨハネの福音書をご一緒に読み進めています。今日は11章からともに学ぶことにしました。さっそく1節から3節を改めてお読みします。
1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
ラザロという人が病気でした。きょうだいのマリアとマルタが、イエス様に助けを求めます。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
不思議なことに「ラザロが病気です」とか「弟が病気です」とは言いませんでした。「あなたが愛しておられる者が病気です」と言ったのです。マリアたちは、ラザロが、そして自分たちきょうだいが「イエス様から愛されている」と知っていたわけです。イエス様が、自分たちきょうだいを愛してくださっていることを、彼女たちはよく分かっていた。その上で、「イエス様、あなたが愛しておられる者が病気なんです。どうして彼がこんな目に遭わなければならないのですか」とイエス様に助けを求めた。
ラザロが「病気である」という言葉は、もとのギリシャ語だと、治る見込みがないほどに重い病気であることを意味します。あるいは病気に限らず、希望がないほどに弱っている状態全般を指します。彼は重篤な病気にかかっていた。死に瀕していた。もしかしたらマリアたちは、自分たちで何とかしようとしたけれども、ラザロの状況がもうどうしようもない、救いようがないというところまで来てしまって、泣く泣くイエス様に助けを求めたのかもしれません。
私たちも、自分や家族が苦しい状況に置かれたとき、ひどく弱っているとき、「神様が愛してくださっているはずなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか」と思うことがあります。神様が私を愛してくださっているなら、どうしてこんなことが起こるのか。なぜ神様はこんな苦しみをお許しになるのか。
イエス様の答えは何だったでしょうか。4節をお読みします。
4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
ラザロの病気は「神の栄光のためのもの」である、とイエス様は言われました。「神の栄光のため」。こういった言葉を聞くと、私たちは少し戸惑いを覚えることがあります。私たちが苦しむことを通して、神様のすばらしさが明らかになる。私たちの苦しみを通して、神様がほめたたえられる。それは神様にとってはうれしいことかもしれないけれど、そのために私たちが苦しまなければならないなんて、なんだか釈然としない。神様の栄光のためなら、苦しみも耐え忍ぶということなのか。神の栄光という目的のためなら、私たちが苦しんでいても神様は何とも思わないのか。神の栄光とはそういうものなのだろうか。
「愛しておられた。それゆえ…」
続く5節と6節をお読みします。
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
さらなる疑問が湧いてきます。なぜ、イエス様は出発を二日遅らせたのか。どうしてすぐにベタニアに行かなかったのか。マルタやマリアからすれば、あまりにも冷たく思えたかもしれません。「どうしてイエス様は来てくださらないのか」「私たちのことなんて本当はどうでもいいんじゃないか」「私たちはもうイエス様に愛されていないのだろうか」
祈りが聞かれないという経験が、私たちにもあります。祈っても、祈っても、事がいっこうに進まない。何も変わらない。祈りが無視されているように感じる。そうすると、私たちは疲れ果て、焦り、イライラし、自分の何がいけないのかと考え始めます。そして、自分はイエス様に愛されているのだろうか、イエス様はもう私を見捨てたのだろうか、と思ってしまう。
6節の最初に「しかし」という言葉がありますが、実は、ギリシャ語から直訳すると「それゆえ」という意味の言葉です。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。それゆえ、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」そんなふうに訳すこともできます。すると、私たちにはますます訳が分かりません。愛していたからこそ、二日とどまったとは、どういうことか。愛があるなら、どうしてすぐに助けに来てくれないのか。
私たちは、すぐに問題が解決することを求めます。特に現代は効率重視ですから、いかに時間も労力も最小限にして問題を解決できるか、が大切です。また、私たちの心の中も、未解決の問題が残り続けていることはストレスです。早く問題を片付けて、前に進みたい、進まなければならないと感じてしまいます。けれども、そういう生き方では、神を待ち望むという信仰の姿勢が身につきにくいのです。ともすれば私たちは、タイミングも方法も指定して、こんなふうに助けてくださいね、と祈ることさえあります。最近は教会会計のことを折々に引き合いに出して恐縮ですが、やはり私たちの喫緊の課題です。神様に祈り続けています。でも、たとえば「来月までに特別献金をいくら与えてください」とか「来年までに受洗者を何名与えてください」とか、そういうふうに祈る必要はないと思うのです。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者たちが苦しんでいます」と祈りつつ、私たちのタイミングではなく、神様のタイミングで。私たちの方法ではなく、神様の方法で。神様が助けに来てくださることを、私たちは待ち望みたい。
イエス様は、なぜすぐにベタニアに向かわなかったのか。ラザロが死んだことに疑いの余地がなくなるまで待っておられたのだと思います。イエス様は、ラザロが完全に死に、その身体が臭くなり始めるような時まで、つまり、人間の力ではどうしようもないと誰もが認めざるを得ない、その時まで、あえて待たれた。
このあと、ラザロが確実に死に、確実によみがえったことで、イエス様はユダヤ教の指導者たちからますます目をつけられることになります。十字架に向かう道が決定的になります。いのちを狙われることになっていきます。ヨハネの福音書で「神の子が栄光を受ける」のは、十字架においてです。ヨハネが言うところの「栄光」とは、単に神様が称賛されるとか、脚光を浴びるといった意味ではありません。「神の愛が見える形で表されること」です。だからこそ、神の愛が最も現れる十字架が、「神の栄光」のクライマックスです。私たちにいのちを与えるために、自分のいのちを差し出すイエス様の姿。これこそが「神の栄光」なのです。
イエス様は実際に、ご自身のいのちと引き換えにしてまでも、ラザロをよみがえらせてくださいました。それは彼を愛していたからです。マリアたちを心から愛しておられたからです。愛しておられたからこそ、すぐには助けに行きませんでした。それは、彼らの信仰を、さらに確かなものとするためです。「わたしを信じる者は死んでも生きる」ということを確信させるために、あえて、すぐには行かなかったのです。
イエス様のなさろうとしておられることが分からなくなるときがあります。苦しみの中で、どうして私たちを助けてくださらないのですか。私たちは本当にあなたに愛されていますか。そう問いたくなるときがあります。けれどもイエス様は、私たちの信仰がさらに深まるように「何もしない」ことがある。「今すぐにでも救ってほしい」と思う私たちに対して、イエス様はあえて遅らせておられるのかもしれない。意地悪をしているわけではないのです。その時が来るまで「待つ」ことがあるのです。そうであるならば、私たちもイエス様を待ち望みたいと思います。
たとえイエス様が愛しておられる者が病気だとしても、それは十字架の愛を覆すものではありません。私たちが苦しむことがあっても、イエス様の愛は変わらない。イエス様がいのちを差し出すほどに、私たちを愛してくださったという事実から、目を離さないでいたいと思います。「あなたが愛しておられる者」「あなたが愛しておられる私たち」というアイデンティティを、見失わないでいたいと思います。「あなたが愛しておられる者」たちの集まりとして、待ち望む信仰をもって、盛岡みなみ教会の今週一週間の歩みを始めてまいりましょう。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。 「あなたが愛しておられる者が」病気になることもあります。いや、あなたが愛してくださっているからこそ、私たちは試練の中を通ることがあります。主よ、ご覧ください。私たちは苦しんでいます。しかし失望しません。あなたが来られることを待ち望みます。あなたが愛してくださっている群れとして、歩み続けることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

