コロサイ1:15-20「万物の根源:なぜ私たちは何もかも上手くいかないのか?」(宣愛師)
2025年11月30日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コロサイ人への手紙』1章15-20節
15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
万物の「アルケー」(初め・根源)は?
まだ11月ですが、アドベントに入ったということで、12月の月間聖句を読み始めました。ヨハネの手紙第一の冒頭です。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」今年のアドベントは、この月間聖句に沿って聖書を開いていきたいと思います。アドベント第一週の本日は、「初めからあったもの」。第二週は、「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの」。第三週は、「じっと見つめ、自分の手でさわったもの」。そして第四週、つまりクリスマス礼拝の当日は、「いのちのことばについて。」
「初めからあったもの」とは何でしょうか。この世界は何から始まり、何によって成り立っているのでしょうか。万物の“初め”、もしくは万物の“根源”のことを、ギリシャ語では「アルケー」と言います。ギリシャ哲学者のタレスという人は、「万物のアルケーは水である」と語りました。この世界のすべてのものは「水」から始まり、「水」によって成り立ち、「水」に帰っていく。また、デモクリトスという哲学者は、「万物のアルケーは原子である」と考えました。デモクリトスのこの考え方は、「結局のところ全ては原子の塊に過ぎない」という唯物論にも繋がっていきます。
「万物の根源は何か」という問いは、「私たちはどう生きるべきか」「どうすればより良い世界をつくれるのか」という問いにも繋がってきます。「ピタゴラスイッチ」でおなじみのピタゴラスは、「万物のアルケーは数である」と考えました。この世界の全ては「数」によって説明することができる。この世界の全ては「数」という調和によって規則正しく成り立っている。だから、規則正しい生活、規則正しい生き方こそが、最も良い生き方なのだとピタゴラスは考えたのです。
ところが、聖書にはこう書かれています。コロサイ人への手紙1章17節。「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」また、18節にはこう書かれています。「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。」ここで「初め」と訳されているギリシャ語も「アルケー」です。この世界の始まりは、この世界の根源は、「水」でもなく、「原子」でもなく、「数」でもない。この世界の始まりは「御子」すなわちイエス・キリストである。
なぜ何もかも上手くいかないのか?
この世界には多くの苦しみがあります。私たちの人生にも様々な問題が生じます。戦争が終わりません。人間関係の軋轢やすれ違いも絶えません。「なぜ何もかも上手くいかないのだろうか」「どうすれば上手くいくのだろうか」と絶望するような現実。デモクリトスはこう答えるかもしれません。「どうせこの世界は原子の塊に過ぎないのだ。私たちのこの身体も、いつかは分解されて原子に戻るだけなのだから、悩んだってしょうがないじゃないか。」ピタゴラスはこう答えるかもしれません。「あなたの人生が問題だらけなのは、あなたが規則正しい生活をしていないからだ!数が表す調和に則って規則正しい生活をすれば、すべての苦しみや問題は解決されるだろう!」
しかし、聖書の答えは違うのです。19節と20節。「なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」―――この世界の問題を解決し、私たちの人生の問題を解決するのは、万物のアルケーである御子イエス・キリストである。争いの絶えないこの世界に真の平和をもたらすのは、十字架にかかられた御子イエス・キリストである。
人間関係が上手くいかない時、家族との関係が壊れてしまいそうな時、私たちがすべきことは何でしょうか。「原子の塊に向かって怒ったりしてもしょうがない」と諦めるのも良いかもしれません。「規則正しい生活をして精神を整えれば家族と仲良くできるかもしれない」と考えるのも良いでしょう。しかし、もしも私たちが、「この世界は御子によって造られ、御子によって成り立ち、御子こそがこの世界に平和をもたらすお方だ」と信じるならば、私たちがなすべきことはただ一つです。御子とともに十字架にかかるということです。
悪いのは相手かもしれません。相手が先に手を出してきたのかもしれません。明らかに相手の態度が悪かったのかもしれません。でも、私のほうが十字架にかかる。相手のほうが100%悪かったのだとしても、相手の罪のために、私が十字架にかかる。私が先に謝る。私が先に赦す。私が先に犠牲になる。そうして初めて、この世界に平和が訪れる。
「どうして私が先に」 よりも先に
ある神学者が言いました。「世界の課題を整理し、解決したいと願っているとき、山上の説教の八福の教えが明らかにしているように、神は世界に戦車など送り出されません。へりくだった者、心貧しい者、義に飢え渇いた者、平和を作り出す者、心のきよい者を送り出されます。」
アドベントが始まり、クリスマスを待ち望む私たちは、戦車に乗った救い主を待ち望んでいるのではありません。私たちが待ち望んでいるのは、戦車に乗って悪者をやっつけるような救い主ではなく、臭くて汚い家畜小屋の中で、か弱い赤子としてお生まれになった救い主です。「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい」「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」とお語りになった救い主です。そしてそのみことばのとおりに、敵であったはずの私たち罪人を愛するが故に、自ら十字架にかかって私たちのために死なれた救い主です。
「どうして私が先に謝らないといけないのか」「どうして私が先に赦さないといけないのか」と私たちは思うかもしれません。しかし、「私が先」ではないのです。イエス様が先です。イエス様が先に、私の罪のために、十字架にかかってくださいました。イエス様がまず初めに、私たちの罪を背負って、その十字架の血によって、赦しと平和をもたらしてくださいました。私たちが謝るよりも先にイエス様が、「父よ、彼らの罪をお赦しください」と祈ってくださいました。そしてこの方は、今も私たちのために祈ってくださいます。人を赦せない私たち、先に謝れない私たちのために祈ってくださり、私たちが少しずつ前に進めるようにと励ましてくださっています。
なぜ私たちは、何もかも上手くいかないのでしょうか。なぜこの世界は問題だらけなのでしょうか。なぜ戦争が終わらないのでしょうか。なぜ家族が壊れていくのでしょうか。私たちがまだ、万物の根源を理解していないからです。十字架につけられた御子をまだ理解できていないからです。今日から始まるアドベントの季節が、私たちにとって、まことの「根源」、まことの「初め」である方を探し求める季節となりますように。そして、この「万物の根源」であるお方がこの世に来られたことの素晴らしさを喜び、真の平和の始まりがこの世にもたらされ始めたことを心から祝う、幸いなクリスマスを迎えることができますように。お祈りをいたしましょう。
祈り
私たちの父なる神様。哲学の探求がどれだけ深まり、科学の発展がどれだけ進んだとしても、水や原子や数学についての知識がどれほど深まったとしても、私たちの根本的な問題を解決するには至っていません。どうか、この世界の根源を私たちが理解できるように、私たちに悔い改めと導きをお与えください。万物を和解させるためにこの世に来られた御子を、私たちが心から待ち望み、そしてこの方のように生きることを求める、幸いなアドベントを始めることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。

