ルカ24:36-43「わたしにさわって、よく見なさい」(宣愛師)

2025年12月14日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』24章36-43節


36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。


「喜びのあまりまだ信じられず」

 来週の日曜日、クリスマス礼拝の中で、Kくんの洗礼式が行われます。洗礼に向けた諮問会の中で、Kくんは正直な気持ちを話してくれました。「イエス様のことは信じてるんですけど、イエス様が肉体をもって復活したっていうのは、まだはっきりとは信じられていないんです。」

 すると、まなか先生があのクールな声で、「それじゃあ、イエス様は生きておられないってことですか?」予想外の鋭いツッコミにたじろぐKくん、「いや、イエス様が今も生きてるってことは信じてるんですけど、でも、肉体をもってというよりは、もっとなんというか……。」そこで、優しい主任牧師や他の役員たちがフォローを入れるわけです。「私たちだって、自分が洗礼を受けた時は、肉体の復活ということはそこまで理解していなかったですよね。今はまだ信じられない部分があったとしても、信じたいという気持ちがあれば、それで十分じゃないでしょうか。」

 二千年前の弟子たちも同じだったのです。十字架にかかって死んだイエス様が、「幽霊」としてよみがえったという話なら理解できる。「幽霊」と訳されているギリシャ語は、「霊」という言葉と同じです。十字架につけられて死んだイエス様の肉体は死んだままだけれど、「霊」だけがよみがえった。それなら信じられる。でも、イエス様はこう仰ったのです。39節:「わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。わたしにはあります。」

 弟子たちは、信じたくなかったわけではありませんでした。41節には、「喜びのあまりまだ信じられず」と書かれています。イエス様が肉体をもってよみがえった、幽霊じゃなくて、本当にあのイエス様ともう一度お会いできるなんて、そんなのは嬉しすぎて信じられなかった。そんなのはすごすぎて信じられなかった。信じたい気持ちはあるのです。でも、自分の常識とはあまりにもかけ離れている。信じたくても信じられない。


「ちゃんとしろ」よりも「一緒にやろう」

 そんな弟子たちにイエス様は、「信じられないのはおまえたちの信仰が足りないからだ!」と責めたりはしませんでした。その代わりにイエス様は、「ほら、手と足があるでしょ?」と言って、身体を見せてくださった。「なにか食べるものある?」「ほら見て、魚も食べれるでしょ!」

 私たちはどうでしょうか。子どもたちに何かを教えようとするとき、職場の後輩を教育しようとするとき、教会の仲間たちと関わろうとするとき、口先だけのアドバイスで満足してはいないでしょうか。「ゲームばかりしていないでちゃんと勉強しなさい」「もっと自覚を持って仕事に取り組みなさい」「クリスチャンならこうあるべきでしょう?」―――しかし、イエス様は違いました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。わたしにさわって、よく見なさい。」

 高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)という団体で働いている水梨郁河(みずなしふみか)という友人がいます。男性なんですが、肩につくくらい髪の毛が長くて、ちょっと色黒で、イエス様みたいな見た目の人なんですが、ある日、hi-b.a.で働いている別のスタッフから、「なぜ高校生たちはフミカのことを信頼しているのか」という話を聞いたことがあります。その友人はこんな風に話していました。「たとえばさ、トイレ掃除をサボってる高校生がいるとするじゃん? そういうときにフミカはさ、『ちゃんと掃除しろ』みたいに言うんじゃなくて、『一緒にやろう』って言うんだよね。」

 「ちゃんとしなさい」と言われるだけでは、ちゃんと生きられない私たちです。聖書にもたくさんのルールが書かれています。それを全部きちんと守れたら、さぞ立派な人間になれるでしょう。でも、「あなたの敵を愛しなさい」と言われて、敵を愛せるようになるでしょうか。「互いに赦し合いなさい」と言われて、人を赦せるようになるでしょうか。「何があっても、ただ神様を信じて平安でいなさい」と言われても、信じ切れずに落ち込み、悩み、不安や不満ばかりの私たちです。

 ことばだけでは信じられない私たち。だからこそ、神のことばが人となってくださいました。ヨハネの福音書1章14節にはこうあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」―――これがクリスマスの知らせです。「神はいつでも貧しい人々の味方だ」とことばで言われても、「本当にそうかな」と疑ってしまう私たちのために、神は人となって、貧しい人が集まる家畜小屋の飼い葉桶に生まれてくださった。「神はあなたを心から愛している」と、何度言われても信じられない私たちのために、神は人となって十字架にかかり、その真実の愛を示してくださった。


立派な信仰か、リアリティのある信仰か

 私たちも私たちの家族に、私たちの友人に、このイエス様の素晴らしさを伝えたいと願っています。でも、口だけでは伝わりません。ことばだけでは伝わりません。キリスト教の信仰は、ことばが人となる信仰です。私たちの信仰は、肉や骨のついた信仰でなければなりません。キリスト教は、行いによって救われる信仰ではありませんが、行いによって伝わっていく信仰です。

 家族や友人を礼拝に誘ってもなかなか来てくれない。でも、そもそも礼拝に来ている私たち自身が、礼拝を心から喜んでいるでしょうか。自分が心から楽しんでいない礼拝に、家族や友人が来ないのは当たり前です。家族や友人にクリスチャンになってほしいと願っている私たち自身が、クリスチャンとして生きることを本当に喜んでいるでしょうか。イエス様のように、「私にさわって、隅々までよく見なさい」と言えるような信仰生活ができているでしょうか。自己点検をすればするほど、むしろ人には見せられないような信仰であることに愕然とするかもしれません。

 どうすれば、「私の手や足を見てください」と言えるような信仰を持てるのでしょうか。大切なのは、立派な自分を見せようとすることをやめることだと思います。もしイエス様があの日、「幽霊だ!」と怖がる弟子たちの前で、何か人間離れした奇跡を行なったり、白い衣をピカピカと光らせたりしたら、弟子たちはますます「やっぱり幽霊だ!」と怖がっただけかもしれません。イエス様が、普通に手と足を見せ、普通に魚を食べて見せたからこそ、弟子たちは信じられた。

 立派な信仰でなくても、完璧な信仰でなくても、自分のありのままの姿を見せるだけで、伝わるものがあるはずです。疑ってしまう部分があってもいい。クリスチャンらしく生きられなくてもいい。それでも自分はイエス様を信じて生きていきたい。たとえ不完全な信仰だとしても、ありのままの自分の身体と結びついた信仰で、「どうぞ私を見てください」と言えばいい。その素直な、普通の信仰が人を惹きつけます。取り繕ったものではない、リアリティがそこにあるからです。

 今日の午後のキッズクリスマスパーティはエスクル岩手さんとの共催です。初めて教会に来る方もおられるでしょう。まずは教会の建物を見る。そして中に入って、玄関の様子を見て、礼拝堂の様子を見て、私たち教会メンバーを見て、「へえ、教会ってこんな感じなんだ……。」そう思うと私たちは、変に緊張して取り繕ったり、クリスチャンっぽい自分を演じてしまうかもしれません。でも、そんな幽霊みたいな信仰じゃなくていいのです。イエス様が普通に魚を食べたみたいに、私たちも普通にクリスマスを楽しんでいればいいのです。きっとイエス様が、私たちのありのままの肉や骨を用いて、「あ、教会っていいかも」と思わせてくださるはずです。不完全であったとしても、飾らない信仰で、イエス様とともに歩みましょう。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。ことばだけでは伝わらない私たちのために人となって、肉と骨を持ち、貧しい飼い葉桶に生まれ、十字架にかかってくださった、神のひとり子の愛を心から感謝します。取り繕った信仰ではなく、自分の身の丈にあった信仰で、イエス様の素晴らしさを伝えることができますように。決して立派な信仰者ではありませんけれども、疑うことも迷うこともありますけれども、イエス様とともにいることの喜びを日々味わいながら、「私を見てください」と言える信仰を持つことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。