Ⅰヨハネ1:1-2「いのちのことば」(宣愛師)
2025年12月21日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの手紙 第一』1章1-2節
1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
“いのちの論理”と“死の論理”
「いのちのことばについて」―――ヨハネはこの手紙を、「いのちのことば」を語る手紙として書き始めました。「いのちのことば」とは何でしょうか。「ことば」と訳されているギリシャ語の“ロゴス”には、「論理(ロジック)」という意味もあります。「いのちのことば」「いのちの論理」「いのちのロジック」―――これを理解するためにはまず、「死のことば」「死の論理」「死のロジック」に目を向ける必要があるかもしれません。
この手紙の1章8節には、「自分には罪がない」と言い張る人々が登場します。「悪いのは私ではなくあの人だ。自分には罪がない!」―――これは“いのちの論理”でしょうか。それとも、“死の論理”でしょうか。「私は悪くない!あの人が悪い!」と主張することによって、壊れそうな自分の立場を守り、心を守る。一見すると、自分を守るための“いのちの論理”であるかのように思えるかもしれません。しかし実際には、自分自身に対して嘘をつき、成長の機会を失わせ、周りを傷つけて終わるだけの“死の論理”であると言わざるを得ない。
また、2章16節には次のように書かれています。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢……。」社会的なステータスや、SNSでの「いいね」の数、もしくは“誰からもバカにされないポジション”への執着―――お金持ちになりたい、異性からの注目を得たい、特別な人間になりたい。そうすれば私は幸せになれる―――私たちは無意識のうちに、「人より優れていなければ価値がない」という“この世の論理”に支配されているのです。いつも人と自分を比べ続け、自分より優れた人を見つけては妬み、自分の欠点を見ては落胆する。このような競争と比較のサイクルこそが、私たちをいつも疲れさせ、魂をすり減らさせている死の論理、死のロジックなのです。
神の御子が飼い葉桶へ:壊れ始めたこの世の論理
どうすれば私たちは、このような息苦しい“死の論理”から抜け出すことができるのでしょうか。ヨハネは私たちのために、全く新しい“論理”を示そうとしています。ヨハネはこれを、本を読んで得た知識とか、哲学的な発見として伝えようとしているのではありません。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の手でさわって、「そうだ、これこそがいのちの論理だ」と分かった。
それは、二千年前のあのクリスマスから始まった、とても不思議な出来事でした。神のひとり子であるイエス・キリストがこの世界に現れた。しかも、神のひとり子であるはずなのに、臭くて汚い家畜小屋のみすぼらしい飼い葉桶にお生まれになった。それは当時の人々にとって、そしてそして今の私たちにとって、世界のロジックを根底から覆すような大事件でした。「暮らし向きの自慢」によって人間の価値は決まると思い込んでいた、この世界の論理が崩れ始めたのです。
そして、飼い葉桶にお生まれになった神のひとり子は、十字架へと向かっていきました。「悪いのは私ではなくあの人だ。私には罪がない!」と皆が主張し、傷つけ合っていた世界にあって、「父よ、彼らをお赦しください」と祈るために、自ら十字架にかかられたのです。ヨハネが自分の目で見たのは、この十字架のイエス様の姿でした。ヨハネが自分の手で触ったのは、この十字架から降ろされたイエス様の身体でした。そしてヨハネは確信したのです。「ああ、この方こそがいのちのロゴスだ。自らの正しさを誇ったり、人の優位に立つことを求めたりはしなかった。この方のように人を愛し、人に仕え、へりくだって生きる、これこそがまことの論理なのだ。」
私はここ数週間、寒さのせいか体調を崩すことも多く、色々と失敗することも多く、落ち込みがちな日々を過ごしていました。数日前も、夜中の2時か3時ごろに布団の中に入って、「ああ、何もかも上手くいかない」という思いでいっぱいになりそうでした。そんな中で、ふと思い出した言葉がありました。今から3年前、まだ伝道師になったばかりで、色々と試行錯誤しつつ自信を無くして落ち込んだりしていた時に、当時婚約者だった今の妻が言った一言です。「何かができなくても、ノアくんが教会にいるだけで、みんな安心すると思うよ。」
当時も失敗だらけでしたけれど、「何かができなくても、いるだけでいい」ということばに、ほっとしたのです。そのことばを思い出して、今でもほっとするのです。その言葉は、「優秀な人間でなければならない」というロジックから私を解放してくれる言葉だったからです。「自分は悪くない!自分はしっかり働いている!」などと、無理に自分を持ち上げる必要はないのだと思えるのです。そしてこの言葉は、主イエスが私たち一人ひとりにいつも語りかけていることばに違いないと思うのです。私たちの正しさや、私たちの優秀さではなく、ただ私たちの存在を愛してくださる主イエスが、私たち一人ひとりに語りかける“いのちのことば”です。
「自分には罪がない」と言わなくてよくなったから
今日、Kくんが洗礼を受けます。洗礼とは、“死のことば”から“いのちのことば”へ、“死のロジック”から“いのちのロジック”へ、全く新しい人生を始めるための儀式です。今日Kくんが洗礼を受けるのは、一年か二年くらい聖書を学んで、教会に通って、「もうそろそろ罪はなくなったかな」と言えるような、「自分には罪がない」と言えるような、そんな立派なクリスチャンになったからではありません。そうではなく、むしろ逆です。「自分には罪がない」と言わなければならない、思い込まなければならない、そんな“死の論理”から解放されて、自分の罪を素直に認めることのできる幸い、自分の罪を認めてもなお深い赦しと愛を頂いている幸いを知ったからこそ、Kくんは洗礼を受けるのです。「自分は正しい人間だ」「自分は優秀な人間だ」「自分は役に立つ人間だ」「そうでなければ自分には価値がない」―――そのような“死の論理”から解き放たれて、イエス様とともに生きていく新しいいのちの歩みが始まっていくのです。
クリスマスを祝う今日、Kくんだけではなく、私たち一人ひとりにも、主イエスは問いかけておられます。「あなたを縛り続けてきた“死の論理”は何だろうか? 自分と誰かを比べて落ち込むことだろうか? 自分の失敗や罪が赦せないことだろうか? そんな論理はわたしが壊してしまおう」―――飼い葉桶にお生まれになった神の御子、そして十字架にかかられた神の御子は、私たち一人ひとりを招いておられます。「いのちのことばに生きなさい。いのちの論理に生きなさい。誰かに自慢できるような人生でなくても、あなたには価値がある。たとえ幾度となく罪を犯してしまうとしても、あなたのためになら死んでもいいと思えるほどに、わたしはあなたを愛している。」このイエス様のみことばを信じて、新しいいのちを受け取りましょう。お祈りをいたします。
祈り
恵み深い父なる神様。私たちは知らず知らずのうちに、“死の論理”に支配されてきました。人と自分を比べたり、持っているものの多さで自分の価値を測ったりして、自分の間違いを素直に認めることもできず、自分のことも、周りの人も苦しめてきました。そんな私たちの頑なな心に、今日、あなたは「いのちのことば」を届けてくださいました。臭くて汚い飼い葉桶にこそ、神の愛が注がれています。立派でなくても、優秀でなくても、汚れていても、愛されています。イエス様のいのちの論理が、今日、私たちの重荷を下ろしてくださることを信じます。私たちの救い主、主イエス・キリストのお名前によって、感謝してお祈りいたします。 アーメン。

