ヨハネ11:38-40「信じるなら神の栄光を見る」(まなか師)
2025年12月28日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』11章38-40節
38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
「その石を取りのけなさい」
2025年最後の日曜礼拝です。私たちの一年の歩みが守られたことを感謝しつつ、新しい年に向けて、今日もみことばに聞いてまいりたいと思います。
ヨハネの福音書をご一緒に読み進めています。先月に引き続き、今朝も11章から学ぶことにいたしました。さっそく38節を改めてお読みします。
38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。
ラザロというイエス様の友人が病気で死にました。ラザロのきょうだいマルタとマリア、そして村の人たちみんなが、ラザロの死を悲しんでいました。愛するラザロの死を悼むために、声を上げて泣きました。35節を見ると、イエス様も「涙を流された」とあります。ある人たちは言いました。36節「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」しかし、他の人たちは、37節「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言いました。
この言葉を聞いたイエス様は、心のうちに憤りを覚えました。ここで使われているギリシャ語は、馬がぶるるると鼻を鳴らすような、激しい怒りの感情を表しています。
なぜイエス様は激しく憤ったのでしょうか。自分の力が見くびられたからでしょうか。馬鹿にされたように感じたので、さすがにムカついたのでしょうか。そうではなく、人々が絶望に支配されていたからです。ラザロの死を嘆き悲しむ者たち。その悲しみ自体は自然なものですし、イエス様ご自身も涙を流して、悲しみを表してくださいました。しかし、イエス様はすでに、ラザロがよみがえるとはっきりおっしゃっていました。それなのに、まるで希望がないかのように悲しみ続ける人たち、不信仰な人たちを見て、イエス様は憤った。神の栄光を見るべき者たちが、絶望という檻に閉じ込められていることへの、愛ゆえのもどかしさ、愛ゆえの憤りがそこにありました。
続く39節をお読みします。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
マルタの答えはもっともであり、常識的でした。彼女はこれまでの経験から、四日も経てば遺体が腐り始めるということを知っていました。だから彼女はあきらめていたのです。絶望していたのです。「イエス様、もう無理です。四日も経っているんですよ。もはや手遅れです。」マルタもまた、イエス様がラザロをよみがえらせてくださるということが分かっていなかった。信じられなかった。
私たちも、自分の考えや常識、経験が先に来てしまい、イエス様を信じられないということがあります。たとえば、長年修復しようと努力してもうまくいかない家族関係。何度挑戦しても跳ね返される仕事や経済的な壁。あるいは、誰にも言えずに抱え続けてきた過去の傷や、こんな自分は変われないという無力感。私たちはそういった問題の前で立ち尽くし、「もうこれが自分の運命なのだ」とあきらめてしまうことがあります。「もう何年も口を利いていないんです。今さら話し合っても無駄です」「この年齢になって、生き方を変えるなんて不可能です」「同じ失敗を何度も繰り返してきました。私はもう、こういう人間なんです」そんな絶望の言葉に覆われてしまう私たちです。
マルタの言うとおり、現実は「臭い」が漂うような、目を背けたくなる状況かもしれません。私たち自身の現実の姿こそ、腐った「臭い」がする、絶望的な有り様かもしれません。しかし、イエス様はこれから起こる「いのち」のわざを見ておられました。私たちが「もう手遅れだ」と思うその場所こそが、神様が働かれる舞台なのです。
イエス様なら、指一本触れることなしに、墓をふさいでいる石を取りのけることができたはずです。言葉一つで、その大きな石を消し去ることさえできたでしょう。でもイエス様はあえて私たちに命じます。「その石を取りのけなさい」。イエス様は、私たちに信仰をもって応答するよう求めるのです。小さくても具体的な応答です。
もちろん、ラザロをよみがえらせるのはイエス様です。イエス様は「あなたがたがラザロをよみがえらせなさい」とはおっしゃらなかった。それはイエス様の仕事です。私たちに命じられたのは、ただ「石を取りのけること」でした。「もうだめだ」というあきらめ、「どうせ無理だ」という不信仰。それが、神の恵みのわざを遮る「石」になっていることがあります。イエス様の言葉を信じて、そのとおりにしてみようという信仰の応答が、私たちのうちにあるでしょうか。
私たちにとって「石を取りのける」とは、具体的にどのような行動でしょうか。意地を張るのをやめて、自分から「ごめん」と謝る。「どうせ無理だ」という言葉を飲み込んで、もう一度だけ神様に祈ってみる。プライドを捨てて、誰かに「助けて」と正直に打ち明けてみる。それは、大きな奇跡に比べれば、とても小さな一歩かもしれません。しかし、私たちが「もうだめだ」「どうせ手遅れだ」という心の石を、みことばに従って、よいしょと動かすとき、そこから神様の栄光が差し込み始める。
「信じるなら神の栄光を見る」
最後に40節をお読みします。
40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
私たちは普通、「見たら信じます」と言います。奇跡が起きたら、病気が治ったら、問題が解決したら信じましょう、と。しかし、神様の順番は逆です。「信じるなら見る」のです。この順番の逆転が、私たちの信仰においてとても大切です。
やはり私たちはどうしても結果を保証してほしい。証拠があれば安心して信じられる。先にこの目で見たら信じられる。そう思いがちです。でもイエス様は「まず信じなさい」とおっしゃるのです。「まず信じて、石を取りのけなさい。そうすれば、神の栄光を見ます。」
「信じる」とは、問題が解決することをただ期待するだけの、“ポジティブ・シンキング”ではありません。「信じる」とは、「イエス・キリストのみことばに、自分を委ねる」ことです。イエス様が導こうとしているのは、私たちが思い描いているような解決の道ではないかもしれません。でも、確実に言えることは、腐った臭いが漂うような絶望的な状況、絶望的な私の中に、新しいいのちが注ぎ込まれるということです。それこそが「神の栄光」です。私たちが自分の「石」、不信仰やあきらめを取りのけるとき、そこには人間の計算をはるかに超えた、神の大きなわざが現れる。
2025年、私たちは多くの「石」にぶつかってきました。そして、「今さらこんな石を動かしたってしょうがない」とあきらめてきました。しかし、主は新しい年を迎える前に、あえていま、私たちに命じられます。「その石を取りのけなさい」。それは、その石の向こう側にある「神の栄光」を、私たちに見せたいからです。2025年の終わりに、私たちが取りのけるよう語られているのは、どんな「石」でしょうか。「今年ももう終わってしまう。結局、あの問題は解決しなかった。あの決心は守れなかった。もう手遅れだ」。そのような、年末特有の焦りやあきらめがあるかもしれません。「2025年の残り数日では何も変わらない」という私たちの「石」に対しても、イエス様は「その石を取りのけなさい」と語りかけておられるのではないでしょうか。私たちがよいしょと「石」を動かすその手に、主はご自身の手を添え、助けてくださいます。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」。このイエス様の約束を信じ、悔い改めと希望をもって、2025年を締めくくりましょう。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。私たちは困難が長引くと、「もう四日も経った、ラザロは完全に死んでしまった、もはや手遅れだ」とあきらめてしまいます。しかし主よ、あなたは死に勝利されたお方です。いま深い悩みや絶望の中にいるお一人おひとりを支えてください。不信仰の石を取りのける勇気を与えてください。私たちの思いをはるかに超えた、あなたのいのちのわざを、私たちの人生において見させてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

