Ⅱコリント12:1-10「弱いときにこそ強い」(「弱さ」シリーズ②|宣愛師)

2026年2月1日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第二』12章1-10節


1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。
7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。


「繁栄の神学」 と 「大使徒」

 コラムにも書きましたが、皆さんは「繁栄の神学」という言葉をご存知でしょうか。「神を信じ、教会に献金をし、ポジティブ思考を貫けば、人生は必ず成功し、富と健康が与えられる」という教えです。ブラジルのある教会は、「繁栄の神学」によって集めたお金で、建設費300億円の巨大な宗教施設を建てました。その教会の牧師の資産は1000億円を超えるそうです。人々は「私もあの牧師のように成功したい」と願い、ますます「繁栄の神学」に惹きつけられていくわけです。

 実は、二千年前のコリント教会にも、これとよく似た価値観が入り込んでいました。コリント教会は、使徒パウロの宣教によって生まれた教会です。しかし時が経ち、彼らの心はパウロから離れ、「大使徒」と呼ばれる別の指導者たちに向くようになりました。パウロに比べて、「大使徒」と呼ばれる人々のほうが、お金持ちで、華やかで、いかにも成功者という感じだったからです。それに比べてパウロは散々です。10章10節には、パウロに対するこんな悪口が書かれています。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」

 このままでは、コリント教会が間違った教えに乗っ取られてしまう。危機感を抱いたパウロはこの手紙を書きます。そして12章1節では、〈私は誇らずにはいられません〉と語り始めるのです。普通なら自慢話なんてしたくないパウロです。しかし、あの「大使徒」たちが自慢話によって教会を乗っ取ろうとしているなら、私もその土俵に乗ってやろうじゃないか、というわけです。

 そこでパウロは、〈主の幻と啓示〉を目にした〈一人の人〉について語ります。この人は、最も聖なる〈第三の天〉、神の王宮の庭である〈パラダイス〉にまで引き上げられて、人間が口にすることがの許されないことばを聞いたというのです。実はこの〈一人の人〉というのは、他でもないパウロ自身のことです。しかしパウロはそれを自分の話として自慢しようとはしません。なぜなら、そのような自慢をするなら、「大使徒」たちと同じになってしまうからです。パウロは言います。「私が本当に誇るべきは、神秘的な体験などではない。私が誇るのは、私自身の弱さだ。」


高慢にならないための 「とげ」

 7節でパウロはこう語ります。〈その啓示のすばらしさのために高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。〉パウロを苦しめた「とげ」とは何だったのでしょうか。激しい頭痛だという説もあれば、マラリア熱だという説もあり、目の病気だという説もあります。てんかん発作だという説もあれば、激しい迫害のことだという説もあります。はっきりしたことは分かりませんが、いずれにせよパウロは、その「とげ」が与えられたのは自分が高慢にならないためだ、と語るのです。

 「とげ」と訳されているギリシャ語には、「杭」という意味もあります。キャンプ場にテントを張るとき、講演にブルーシートを張るとき、風で飛んでしまわないように地面にしっかりと打ち付ける「杭」。神様が私たちに与える「とげ」「杭」とは、私たちが高慢になって、浮き世離れして、地上の歩みをおろそかにしないための留め具です。

 私たちにもそれぞれ、「とげ」が与えられているはずです。身体の痛みや、病気の苦しみや、人間関係の悩み。そのような「とげ」を私たちは、パウロと同じように、神様から与えられたものだと言えるでしょうか。「なぜ自分にはこんな病があるのか」「なぜ自分の家はこんな家なのか」「なぜ自分はこんな見た目なのか」などと私たちは考えてしまう。「もっと健康な体だったらよかったのに」「もっと幸せな家だったらよかったのに」「もっとイケメンだったらよかったのに」。しかし、それは神様からのプレゼントなのだと、感謝して受け取っていくのです。


「私が弱いときにこそ、私は強い」

 パウロも最初は、この「とげ」が消え去るようにと何度も祈ったと言います。しかし、パウロの願いは叶えられませんでした。その代わりに、9節。〈しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。〉

 「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」とは一体どういうことでしょうか。第一にそれは、私たちが弱いときこそ、神様が自由に働きやすくなる、ということです。私たちにはどうすることもできないときにこそ、「ああ、これは神様がしてくださったことだ」と感謝できる。この手紙の4章7節で、パウロは次のように語っています。〈私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。〉私たち自身が弱い存在、欠けだらけの脆い「土の器」のような存在だからこそ、神様の栄光が外に染み出していく、漏れ出していく。

 第二に、神様の力が弱さのうちに完全に現れるということは、弱さを持つ者だけが、隣人の弱さに寄り添えるということです。この手紙の冒頭部分、1章4節には次のように書かれています。〈神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。〉弱さを知っているパウロだったからこそ、「とげ」が刺さったままのパウロだったからこそ、そして、神様に慰められることを知っているパウロだからこそ、〈あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができ〉る。

 私自身は、昔からじっとしているのが苦手で、「もっと落ち着いた人間だったら」と思うことがあります。しかし、じっとしているのが苦手な自分だからこそ、同じような人たちの気持ちを理解しやすいと思うのです。様々な罪の誘惑に負けてしまうこともあります。「神様、この罪から解放してください」と祈っても、なかなか変わることのできない自分がいます。しかしだからこそ、同じように罪に悩む人たちをさばかずに、その苦しみを理解することができるのです。

 皆さんにもそれぞれの「弱さ」があると思います。その「弱さ」を大切にしましょう。私たちの「弱さ」は、人を慰めるための「強さ」です。「大使徒」たちには救えないいのちがあります。「繁栄の神学」には癒せないたましいがあります。「弱さ」があるから、私たちは愛という「強さ」を手にするのです。「弱さ」があるから、私たちはイエス様の十字架に近づき、イエス様のような愛の人、愛の教会として歩むことができるのです。「この弱さを取り去ってください」と祈るのではなく、「この弱さを用いてください」と、感謝して祈ることができるのです。お祈りをします。


祈り

 〈ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。〉私たちの父なる神様。弱さに悩むとき、痛みに苦しむとき、それを取り除くことしか考えられなかった私たちでした。しかし今は、弱さの中でこそイエス様に近づくことができることを知りました。弱さの中でこそ人を慰められることを知りました。自分自身の弱さを、恵みとして受け取ることができますように。主よ、私たちの弱さをお用いください。私たちの弱さをあなたの道具としてください。私たち盛岡みなみ教会を、キリストの力によって生かされる愛の教会として造り変えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。