Ⅱコリント9:6-15「献金・感謝祈祷」(礼拝式シリーズ⑦|宣愛師)
2026年2月15日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第二』9章6-15節
6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
8 神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
9 「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。
10 種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。
12 なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。
13 この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。
14 そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。
15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
バレンタインと 「贈与論」
昨日は2月14日、バレンタインデーでした。モロゾフを始めとするチョコレート会社の広告戦略によって、日本ではチョコを贈る日となったこのバレンタインデーですが、ある会社が20代から60代の男性に対して行なった調査によると、「バレンタインにチョコレートなどの贈り物をもらいたいか」という質問に対して、「いらない」もしくは「絶対にいらない」と答えた人が60%近く。どうして半分以上が「いらない」と答えたのか。その会社の分析によれば、「ホワイトデーへの懸念」がその理由だろうとのことです。2月14日にチョコをもらってしまったら、3月14日に何かお返しをしなければならない。だったら最初から何も貰わないほうが気が楽だ、というわけです。
貰ってしまったら、返さなくてはならない。では、返しきれないほど貰ってしまったとしたら、どうすれば良いのでしょうか。近内悠太という哲学者の『世界は贈与でできている』という有名な本があります。私たちの世界は「贈与/贈り物」でできている。コップ一杯の水を飲むにしても、水道整備という偉大な事業のおかげ。平和な社会に生きられていることも、多くの人々のたゆまぬ努力のおかげ。私たちがこうして日本語を話せるということでさえ、教育を施してくれた周りの大人たちのおかげ。私たちはお金で何でも手に入れられるつもりになっているかもしれないけれど、実はこの世界の先輩たちからの「贈与」によって全てが成り立っている。それらの贈り物はあまりにも大きすぎて、私たちはお返しをすることができない。だからこそ、私たちもまた次の世代に贈与をしていく。このような「贈与」の大切さがいま社会で再注目されているわけですが、実のところこれは、何千年も前から聖書が語り続けていたことではないかとも思うのです。
「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた」
6節にはこうあります。〈わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。〉7節にはこう書かれています。〈神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。〉これだけ読むと、「献金をたくさんすればお金持ちになれる」「献金をたくさんすれば神様に愛していただける」みたいな感じがしませんか? 「結局パウロも“繁栄の神学”かよ!」という感じです。
しかし、本当にそうでしょうか。〈神は、喜んで与える人を愛してくださる〉というのは、神様にお金を差し上げると、そのお金が何倍にもなって神様から返ってくるみたいな、投資みたいな話なのでしょうか。9節には詩篇からの引用が記されています。〈「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」〉―――献金というのは、神様にお金を〈与える〉ということではない。神様に〈与える〉のではなくて、〈貧しい人々に……分け与え〉るのです。
私たちは教会で献金をささげます。そして「感謝祈祷」と呼ばれるお祈りをします。「神様、あなたから頂いた恵みの一部をお返しします。」しかし、神様に「お返し」なんてできるのでしょうか。何でも持っている神様です。私たちの財布の中にある日本円をお渡ししたところで、神様にはちっとも嬉しいことなんてありません。私たちは神様に「お返し」なんてできない。だからこそ私たちは、神様にお返しができない分を、貧しい人々に「お返し」するのです。神様がそれでいいと言ってくださるからです。それが永遠の義だ、正しい生き方だと言ってくださるからです。
ですから、私たちがきちんと考えなければならないことは、私たちが教会にささげている献金が、本当に貧しい人々のために使われているだろうか、ということです。12節の「奉仕」(ディアコニア)という言葉は、「執事」(ディアコノス)という言葉の語源になっています。「執事」というのは、盛岡みなみ教会で言えば「役員」のことです。本日の午後にも「役員会」が行われますが、「役員会」の大切な役割のひとつは、教会が預かった献金の使い道を定めるということです。
献金の多くは、牧師や伝道師の謝儀として用いられ、教会の建物の維持管理のために用いられます。ということは、役員会が見定めなければならないことは、牧師や伝道師の時間の使い方が「貧しい人たちのため」であるかどうか、教会の建物が貧しい人々のために用いられているか。来月行われる教会総会もそうです。役員会とともに、教会員の一人ひとりが知恵を出し合って、献金の使い方を決めていく。教会のウェブサイトには、少し前から「献金・寄付フォーム」を設置しました。このフォームを通して献金してくださる方々からも、「盛岡みなみ教会に献金を預ければ、神様の御心にかなって使ってくれる」と信頼される、そんな教会でありたいと思います。
「ありがとう」 と 「あたりまえ」
それでも私たちは、性根がケチですから、自分のものを分け与えるなんてことはしたくない。投資話なら喜んで。でも、貧しい人々のためにお金を出したって、自分の懐には一円も戻ってこないじゃないか!「これは自分が苦労して働いて手に入れたお金だ」と思うと、ケチになってしまう私たちです。自分の趣味のために使いたい、自分の安心のために貯金しておきたい。
しかし、10節には次のように書かれています。〈種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方〉―――畑に種を蒔いて、苦労して育てます。でも、その〈種〉を与えてくださったのは誰か。Kくんであれば、ITを駆使して仕事をするでしょう。Sくんであれば、190cmの剛健な体を使って働くでしょう。でも、それらの能力や健康を与えてくださったのは誰か。多くの先輩たちから頂いたものです。そして究極的には、神様から頂いた〈種〉です。神様から頂いた命です。
「ありがとう」の対義語は何か、という話を聞いたことがあります。「ありがとう」の対義語は「あたりまえ」だと。仕事に行けて当たり前。家族や友達がいて当たり前。学校に行けて当たり前。暖かい布団で眠れて当たり前。でも、それが決して当たり前ではないと気づく。以前、あるカルト宗教の被害にあった方のお話を聞きました。その人はやっとの思いでそこから抜け出したのだけれども、「神様を裏切った自分は地獄に落とされる」という恐怖で悪夢にうなされ続ける。私はその人の話を聞いて、「神様に愛されている」「十字架によって赦されている」と安心して生きられることが、全く「あたりまえ」ではないと知りました。そして、イエス様が命がけで与えてくださったこの救いの恵みを伝えるために、教会は立ち続けなければならないと思いました。
11節から15節に記されているのは“感謝の循環”です。コリント教会がささげた献金を、パウロたちが貧しい人々に届けることによって、貧しい人々は神様に感謝し、コリント教会にも感謝し、そのような感謝の循環を見たパウロも嬉しくなって神様に感謝する。献金という営みを通して、この世界に“感謝の循環”が生まれていくのです。「あたりまえ」ばかりだった冷たい世界が、「ありがとう」にあふれた世界に生まれ変わっていくのです。これもまた神様の大いなる恵みです。新しい人間社会は、この神様の大いなる贈与から始まっていきます。すべての人を祝福に招く神の国は、私たちが受け取った返し切れない贈り物への感謝から始まるのです。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。全てが「あたりまえ」ではないと気づいた時、暖かい毛布で眠れることがどれほど幸いかと気づいた時、居ても立ってもいられなくなりました。私たちのおささげする献金が、永遠の義のために用いられますように。午後の役員会にも、来月の教会総会にも、導きを豊かにお与えください。盛岡みなみ教会のすべての歩みを、貧しい人々、孤独な人々、不安な夜を過ごす人々とともにある歩みとしてくださいますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

