ネヘミヤ8:1-12「聖書朗読・説教」(礼拝式シリーズ⑧|宣愛師)
2026年2月22日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『ネヘミヤ記』8章1-12節
1 民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。
2 そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、
3 水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。
4 学者エズラは、このために作られた木の壇の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。
5 エズラは民全体の目の前で、その書を開いた。彼は民全体よりも高いところにいたのである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
6 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。
7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はその場に立っていた。
8 彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。
9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
10 さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」
11 レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない。」
12 こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。
立派な城壁、ぐちゃぐちゃの中身
エズラ記とネヘミヤ記は元々は一つの書物でした。これらの文書に記録されているのは、バビロンに滅ぼされてしまったエルサレムの町をなんとかして建て直そうとする人々の姿です。エズラ記ではまず、エルサレムの神殿が再建されます。続くネヘミヤ記の前半では、エルサレムの城壁が再建されます。しかし、なんだかうまくいかないのです。せっかく建て直した神殿には、神様のご栄光が現れない。せっかく建て直した城壁の内側も、人間の罪や争いで満ちている。私たちも同じです。立派そうな見た目をしていても、その内側には様々な問題がある。醜い罪や争いがある。
そんな危機的な状況で、イスラエルの人々が求めたのは、神のことばでした。エズラのほうから、「さあ、聖書を読んであげるから集まりなさい」と言ったわけではありません。1節に記されているのは、「ぐちゃぐちゃの私たちに神のことばを聞かせてほしい」と自ら願う人々の姿です。
彼らが集まったのは「水の門の前の広場」でした。祭司たちや男性たちしか入れない神殿の中ではなく、女性も子どもも誰でも入れる広場。一部のエリートだけが聖書を学んだのではなく、混沌とした人生に光を求めるすべての人が、神のことばを聞くために集まったのです。しかも、「夜明けから真昼まで」です。六時間くらいでしょうか。聖書に耳を傾け続けたというのです。
聖書を開いたエズラは、〈このために作られた木の壇の上に立った〉とあります。私たちの教会でも、礼拝の司式者や説教者は講壇の上に立って聖書を語ります。「なんだか偉そうだ」と自分でも思います。でも、偉いのは司式者や説教者ではなく、神様であり、神様のことばである聖書です。高いところから語られるのは、人間のことばではなく、聖書に記された神のことばです。
しかも、エズラは一人で偉そうに聖書を読んだわけではありませんでした。エズラの右と左には、十三人の長老たちがともに立っていました。それは、「私たちも神のことばに聞き従います」という決意の表れでした。また、十三人の長老たちだけではなく、〈民はみな立ち上がった。〉聖書が朗読されるとき、私たちも立ち上がります。神のことばを第一とする決意です。変わりやすい人間のことばではなく、変わらない神のことばによって生きたいと願い、立ち上がるのです。
神のことばに批評され、罪を暴き出されて
6節を見てみると、エズラは聖書を朗読する前にまず、神様をほめたたえたとあります。なぜ賛美が先なのでしょうか。それは、神のことばを神のことばとして聞くためです。もしも私たちが、まるで自分が神様と対等な存在であるかのような態度で聖書を読むなら、私たちは聖書の批評家になってしまいます。「お、なかなかいいこと書いてあるじゃないか」「ああ、この部分はちょっと時代遅れだな」と、神のことばを批評する。もちろん、聖書に疑問をぶつけていく姿勢も大切です。しかし、神のことばに批評されることはもっと大切です。神のことばによって、私たちの生き方が吟味される。私たちの常識が吟味される。
7節と8節には、レビ人たちが聖書の意味を〈明快に示した〉と記されています。旧約聖書はヘブル語で書かれていましたが、当時のイスラエル人たちはアラム語というペルシャ帝国のことばを使うようになっていたので、ヘブル語が理解できない。そこで、聖書に詳しいレビ人たちが、「これはこういう意味ですよ」と説明する。ただ聖書を朗読するだけでは分からない。だから今も説教者たちは、聖書を必死になって勉強し、その意味をなんとか伝えようと努力しています。
9節には、〈民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていた〉とあります。彼らはなぜ泣いていたのでしょうか。自分たちの罪の大きさに気づいたからです。エルサレムの街に帰ってきて、神殿を建て直し、城壁も建て直した。しかし、内側は崩れ去っていた。神様のみことばとは全く異なる、罪深い歩みをしていた。そのことに気づいて、みなが涙を流していたのです。
「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」
先日、私たちの教会に悲しむべき出来事が起こりました。関係に亀裂が生まれてしまい、その亀裂が周りにまで広がり、まるで教会が教会ではなくなってしまいました。神のことばではなく、人をさばき批判する人間のことばが教会を支配していました。牧師である私がその場にいたにも関わらず、その広がりを止めることができませんでした。このまま教会が壊れてしまうのではないか、牧師として不甲斐ない、情けないと思いながら、暗く沈んだ一週間が始まりました。
しかし、〈悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。〉ここで「力」と訳されているヘブル語は、「砦」とも訳せます。「主を喜ぶことは、あなたがたの砦だからだ。」どれだけ立派な建物が建っていたとしても、教会は内側から崩れ去っていく。どれだけ教会に暖かい雰囲気が流れていたとしても、教会の交わりを打ち壊そうとするサタンの策略に対して、私たち自身の力では立ち向かうことができない。しかし、私たちが無力でも、神ご自身が「砦」となり、城壁となってくださる。教会が教会として立ち続けられるように守り、支え続けてくださる。
自分で自分を喜べない時があります。自分の失敗や罪に打ちひしがれ、自分で自分を赦すことができない。自分の内側にいいところを探そうとしてみても、落ち込むしかない夜があります。しかし、自分の内側に喜びがない時こそ、外側から語りかける主のことばを聞くのです。自分で自分を赦せなくても、「わたしがあなたを赦す」と言ってくださる神のことばを聞く。自分で自分のいいところが見つからなくても、「あなたは高価で尊い」と言ってくださる神のことばを聞く。
この喜びに気づいた神の民は、涙を流すことを止めて、〈食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ〉とあります。〈何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい〉とも記されています。主に赦され、愛されていることを知った人々は、今度は隣人を愛し受け入れる喜びに招かれていったのです。私たちはこれからも、ともに神を賛美し、ともに聖書を開き、ともに立ち上がって、みことばを聞き続けたいと思います。神のことばに吟味され、自らの罪を示され、赦されることと赦すことを学びながら、神を喜び、互いを喜ぶ教会として、ともにみことばに聞き続けたいと思います。祈りましょう。
祈り
私たちの喜びである神様。どれだけ立派な建物があろうと、脆く崩れやすい私たちです。自分たちの力だけでは、内側から崩れ去ってしまう私たちです。私たちの罪を暴き、きよめてくださる神様。あなたのみことばによって私たちを支えてください。人間のことばにいとも簡単に支配され、サタンの思うがままにされてしまう私たちを、あなたのみことばによって力強くお守りください。あなたご自身が砦となり、城壁となり、揺るぎやすい私たちを、揺るがない御手によって守り支え続けてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

