No.174【“謝罪”と“悔い改め”の違い】
◆アジア諸国に対する大日本帝国の植民地政策について、「日本はもう十分に謝罪した」と考える人もいれば、「まだ十分な謝罪はしていない」と考える人もいます。ところで、“謝罪”という言葉は、少なくとも新改訳聖書では一度も使われて […]
ローマ14:1-12「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」(使徒信条⑱|宣愛師)
・・・・・・“白黒思考”という言葉があります。物事を白か黒に分けたがる考え方、という意味だそうです。たとえば、「周りの人を良い人か悪い人かに分けて考えたがる」とか、「解決した問題についても、誰の責任だったかをはっきりさせないと気が済まない」とか、「挨拶されなかっただけで、その人から嫌われていると決めつける」とか、「少しでも失敗しそうな気配があると、挑戦すること自体を諦める」など、“白か黒か”、“0か100か”で考えてしまう……「はっきり白黒つけるのが心地よい」。完璧主義の人や自閉症を持つ人に限らず、多かれ少なかれすべての人が抱えている問題ではないかとも思いました・・・・・
No.173【カムチャツカ半島の大地震】
◆7月30日の地震で、久々にスマホの警告音を聞きました。それから数時間後、「久慈港に1m30cmの津波」というニュースにドキッとしましたが、「浸水していないなら大丈夫か」と安心していました。ただ、釜石の教会で働く牧師夫妻 […]
使徒7:54-60「全能の父なる神の右に座したまえり」(使徒信条⑰|宣愛師)
・・・・・・神であるヤハウェの右の座に、王であるメシアがお座りになる。それは、ふかふかの椅子でゆっくりするためではなく、「敵」に勝利するためだと言うのです。そして、メシアが戦うとなれば、メシアの民も戦うのです……しかし、メシアの「敵」とは誰なのでしょうか。メシアの民、メシアのしもべたちが戦うべき「敵」とは、一体どこにいるのでしょうか。使徒の働き7章には、この「敵」との戦いを戦った一人の人物が登場します。ステパノと呼ばれるイエス様の弟子でした・・・・・
No.172【『たいせつなきみ』】
◆今日から始まる「秋田・岩手こどもキャンプ」のテーマは、「イエスさまは ぼくのこと どう思ってる?」です。北上聖書バプテスト教会の佐々木先生が、ミニゲームやスキットを交えつつメッセージしてくださるとのことで、幸いな三日間 […]
使徒1:9「天に昇り」(使徒信条⑯|宣愛師)
・・・・・・せっかく目に見えるようになってくださった神様が、また天に帰ってしまわれた。人々が手で触れることのできるイエス様が、また手の届かない場所に行ってしまわれた。マタイの福音書の最後の部分を見てみると、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)とイエス様は約束してくださいました。それなのに、はるか遠くにある天に帰ってしまわれた。「いつもあなたがたとともにいます」というイエス様のことばは、不安そうな弟子たちを励ますためのリップサービスに過ぎなかったのでしょうか・・・・・
No.171【子ども会の思い出】
◆小学生の頃、毎週土曜日に教会で行われていた子ども会に欠かさず参加していました。ゲームに勝ったり聖句を暗記したりすると、「レプタ」という名前のポイントがもらえて、お菓子が売店で買えるという画期的なシステムで、友達と一緒に […]
ヨハネ6:22-35「いのちのパン」(まなか師)
・・・・・・私たちは、「なくなってしまう食べ物」ばかりに気を取られます。たしかに、お腹を空かせているときは、食べ物のことしか考えられなくなります。そして、食べ物がどうにか手に入れば、もう大丈夫だと思ってしまいます。でも食べ物はきっとまたなくなるのです……そういった一時的な安心、「なくなってしまう」安心よりも、もっと目を向けるべきことがあるんだよ、もっと根本的な安心があるんだよとイエス様はおっしゃる・・・・・・
No.170【「愛の挨拶」】
◆先月のコンサートの中で吉村美穂さんと野田常喜さんが最初に演奏してくださったのは、エルガー作曲の『愛の挨拶』でした。婚約者のアリスに贈るために書かれた曲だそうです。教派の違い(エルガーはカトリック、アリスはプロテスタント […]
マタイ28:1-10「死人のうちよりよみがえり」(使徒信条⑮|宣愛師)
・・・・・・週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の朝、二人のマリアが墓を見に行きました。愛するイエス様の遺体が納められた墓です。墓の入り口は固く閉ざされていました。彼女たちの心も悲しみの中で塞ぎ込んでいました。私たちも週の初めの日、日曜日の朝、こうして教会に集まっています。日曜日の朝、私たちも不安と失意の中にあるかもしれません。昨日までの一週間、色々な出来事があった。体調を崩したり、人間関係に疲れたり、悩みに押しつぶされそうになったりして、沈んだ心のままで、塞ぎ込んだ心のままで、日曜日の朝を迎えた私たちかもしれません。しかし、この日曜日の朝、週の初めの日の朝、私たちの塞ぎ込んだ心に光が差し込むような、特別なことが起こるのです・・・・・


