まなか師
ヨハネ11:38-40「信じるなら神の栄光を見る」(まなか師)
・・・・・・長年修復しようと努力してもうまくいかない家族関係。何度挑戦しても跳ね返される仕事や経済的な壁。あるいは、誰にも言えずに抱え続けてきた過去の傷や、こんな自分は変われないという無力感。私たちはそういった問題の前で立ち尽くし、「もうこれが自分の運命なのだ」とあきらめてしまうことがあります。……しかし、イエス様はこれから起こる「いのち」のわざを見ておられました。私たちが「もう手遅れだ」と思うその場所こそが、神様が働かれる舞台なのです・・・・・・
ヨハネ11:1-6「あなたが愛しておられる者が」(まなか師)
・・・・・・「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」不思議なことに「ラザロが病気です」とか「弟が病気です」とは言いませんでした。「あなたが愛しておられる者が病気です」と言ったのです。……私たちも、自分や家族が苦しい状況に置かれたとき、ひどく弱っているとき、「神様が愛してくださっているはずなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか」と思うことがあります。神様が私を愛してくださっているなら、どうしてこんなことが起こるのか。なぜ神様はこんな苦しみをお許しになるのか・・・・・・
ヨハネ9:1-7「神のわざが現れるため」(まなか師)
・・・・・・この盲人は、泥を目に塗られた不格好な状態で、池に向かっていく。途中で、周りの人たちから注目され、ひそひそと後ろ指をさされたかもしれない。恥ずかしくて不甲斐ない思いをしたかもしれない……私たちは普通、「顔に泥を塗られる」ようなことが起こると、恥ずかしさのあまり、自分の失敗を責めたり、他人の罪を責めたくなってしまいます。しかし、「実はこの泥は、私のためにイエス様が塗ってくださった泥なのかもしれない」「私を造り変えるための泥なのかもしれない」と気づくとき、私たちの「盲目」は癒やされていくのです・・・・・・
ヨハネ6:41-51「引き寄せてくださらなければ」(まなか師)
・・・・・・私たちの間でも、聖書に詳しい人がやっぱりすごいとか、色んな哲学や宗教の難しいことを知っている人がやっぱり偉いとか、そういう感覚があると思います。勉強熱心なことは良いことですし、学び続けることができるのは賜物ですが、「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはでき」ない。イエス様はそう語っておられます。偉い人も、そうでない人も、父が引き寄せてくださらなければ、イエス様のもとに行くことはできない・・・・・・
ヨハネ6:35-40「一人も失うことなく」(まなか師)
・・・・・・皆さんは、神様がこの世界のすべてのことを決めていると思うでしょうか。もし神様がすべてを決めるなら、人間の自由はあるのでしょうか。これは、教会の中でも外でも、多くの人が疑問に思うことです。「神がすべてを決めるなら、人間に自由はないのではないか?」たしかに、今日私たちが何をするか、何を食べるか、何を着るか、すべてを神様が支配しているとしたら、つまり、私たちがすべて神様の思い通りに動いているとしたら、私たちはまるで操り人形かロボットのようです。さすがにそんなことはない、と皆さんお思いになるでしょう……では、誰が救われて、誰が救われないか。このことについてはどうやって決まるのでしょうか・・・・・・
ヨハネ6:22-35「いのちのパン」(まなか師)
・・・・・・私たちは、「なくなってしまう食べ物」ばかりに気を取られます。たしかに、お腹を空かせているときは、食べ物のことしか考えられなくなります。そして、食べ物がどうにか手に入れば、もう大丈夫だと思ってしまいます。でも食べ物はきっとまたなくなるのです……そういった一時的な安心、「なくなってしまう」安心よりも、もっと目を向けるべきことがあるんだよ、もっと根本的な安心があるんだよとイエス様はおっしゃる・・・・・・
ヨハネ6:16-21「嵐の中で」(まなか師)
・・・・・・不思議なことに、ヨハネは「イエス様が嵐をしずめてくださった」とは書いていません。マタイやマルコは「イエス様が嵐をしずめてくださった」と記しているので、イエス様の奇跡がなされたことに間違いはないのですが、でもヨハネはあえてそれを記さない。なぜでしょうか。それは、嵐がおさまったかどうかということが、ヨハネにとっては、もはやあまり重要ではないからです。むしろ、イエス様が来られたということのほうが重要なのです。嵐がどうなったかということよりも、イエス様が共にいてくださることが、ヨハネに喜びを与えた・・・・・・
ヨハネ6:1-15「彼らが望むだけ」(まなか師)
・・・・・・「どこから」という言葉は、ヨハネの福音書のキーワードです。どこから助けはやって来るのか。どこから必要は満たされるのか。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とイエス様は問われる。旧約聖書の詩篇の作者も次のように問いました。「私の助けは どこから来るのか」(詩篇121:1)。この問いは、今を生きる私たち一人一人にとっても根源的な問いであると思います。「私の助けは どこから来るのか。」・・・・・・
ヨハネ5:41-47「神からの栄誉」(まなか師)
・・・・・・学生時代に、KGKのキャンプの準備をしたことがありました。当時の私はいま以上にもっと未熟で、若さゆえの極端なところもありました。キャンプの最終日に、準備委員を労うサプライズが用意されていて、キャンプ参加者みんなからの寄せ書きをプレゼントしてもらい、「ありがとう」とたくさん声をかけてもらいました。実はそのときの私は「人からの称賛は受けない!」と固く決意していまして、本当は「ありがとう」と言われれば内心うれしいし、頑張ってよかったなと思うけれども、決して喜んではいけないと自分に言い聞かせていました・・・・・・
ヨハネ5:31-40「神による証し」(まなか師)
・・・・・・お医者さんや歯医者さんから、「どうしてもっと早く来なかったんですか」とちょっと叱られてしまう、そんな経験をしたことがある方もいると思います。「こんなにひどくなる前に、どうしてもっと早く来なかったんですか。」すると私たちは、「すみません、ちょっと忙しくて…」とか、「こんなにひどくなっているとは思わなくて…」などと言い訳してみたりするものです。イエス様も同じ気持ちなのだと思います。「どうしてわたしのもとに来ようとしないのか。こんなに疲れているのに、こんなに傷だらけになっているのに、罪の病がこんなに進んでしまっているのに、どうして自分のいのちだけで生きていこうとするのか。どうしてもっとわたしを頼らないのか。どうしてもっとわたしに祈らないのか。」・・・・・・




