マタイの福音書
マタイ16:14-20「罪の赦し」(使徒信条㉒|宣愛師)
・・・・・・信じるだけで赦されるということと、人を赦さなければ赦されないということは、実のところ矛盾しません。なぜなら、私たちが信じるイエス・キリストというお方は、私たちが赦したくない人を赦してしまうお方だからです。……皆さんには今、赦せない人がいるでしょうか。なぜその人のことが赦せないのでしょうか。その人はどんな人でしょうか。あなたはその人に何をされたのでしょうか。よほど嫌なことをされたのでしょう。あなたがその人を赦さないなら、神様もあなたをお赦しにならないと言われたら、あなたはその人を赦せるでしょうか・・・・・
マタイ28:1-10「死人のうちよりよみがえり」(使徒信条⑮|宣愛師)
・・・・・・週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の朝、二人のマリアが墓を見に行きました。愛するイエス様の遺体が納められた墓です。墓の入り口は固く閉ざされていました。彼女たちの心も悲しみの中で塞ぎ込んでいました。私たちも週の初めの日、日曜日の朝、こうして教会に集まっています。日曜日の朝、私たちも不安と失意の中にあるかもしれません。昨日までの一週間、色々な出来事があった。体調を崩したり、人間関係に疲れたり、悩みに押しつぶされそうになったりして、沈んだ心のままで、塞ぎ込んだ心のままで、日曜日の朝を迎えた私たちかもしれません。しかし、この日曜日の朝、週の初めの日の朝、私たちの塞ぎ込んだ心に光が差し込むような、特別なことが起こるのです・・・・・
マタイ27:62-66「三日目に」(使徒信条⑭|宣愛師)
・・・・・・彼らは、「三日目まで墓の番をするように」と頼みました。「わたしは三日後(三日目)によみがえる」と、イエス様が宣言していたからです。弟子たちが遺体を盗んで嘘をつき始めるかもしれないからです。「三日目まで」墓を守り切ることができれば、彼らの勝利だと言うこともできます。古い世界の勝利、新しい世界の敗北です。「三日目」が勝負の分かれ目でした・・・・・・
マタイ1:20-25「イエス」(使徒信条⑥|宣愛師)
・・・・・・そしてその時私たちは、「イエス」と「インマヌエル」という二つのお名前が、ひとりの救い主を指し示している、ということの意味に気づき始めるのだと思います。“罪から救う”ということと、“神がともにいる”ということが、別々の事柄ではなく、一つの事柄であることに気づき始めるのです。そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことであり、私たちが隣人のためにできる最善のことでもあるのだと思います・・・・・・
マタイ2:19-23「彼はナザレ人と呼ばれる」(宣愛師)
・・・・・・〈これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった〉と書かれています。ところが不思議なことに、旧約聖書のどこを読んでも、「彼はナザレ人と呼ばれる」という言葉はありません。そもそも、「ナザレ」という言葉さえ、旧約聖書のどこにも書かれていないのです。一体どういうことなのか。いくつかの説があります・・・・・・
秋山善久師「十字架を負われた主」(マタイ27:27-35)
※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第12回)でした。主任牧師の秋山善久先生が仙台から来てくださり、説教と聖餐式のご奉仕をしてくださいました。
秋山善久師「聖餐と契約」(マタイ26:26-29)
※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第11回)でした。主任牧師の秋山善久先生が仙台から来てくださり、説教と聖餐式のご奉仕をしてくださいました。また、礼拝後は「母の日 感謝の時」でした。
秋山善久師「神のことばの実現」(マタイ24:32-44)
※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第10回)でした。主任牧師の秋山善久先生が仙台から来てくださり、説教と聖餐式のご奉仕をしてくださいました。また、礼拝後には役員就任式を行いました。
秋山善久師「問われた信仰告白」(マタイ22:41-46)
※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第9回)でした。主任牧師の秋山善久先生が仙台から来てくださり、説教と聖餐式のご奉仕をしてくださいました。また、礼拝後には二十歳祝福式を行いました。

