使徒信条
ルカ18:28-30「とこしえのいのち」(使徒信条㉔|宣愛師)
・・・・・・『ギルガメシュ叙事詩』という物語をご存知でしょうか。世界で最も古い物語の一つと言われています。主人公のギルガメシュは偉大な王様であり、英雄でした。ところが、彼の親友が死んでしまったことをきっかけとして、彼は死の恐怖に取り憑かれてしまいます。そして、「永遠のいのち」を求めて旅を始めたのです。しかし、その旅を通して彼が知ったことは、残酷な真実でした。「永遠のいのちは神々のもの。人間が手に入れることはできない。」・・・・・
第一コリント15:35-44「からだのよみがえり」(使徒信条㉓|宣愛師)
・・・・・・皆さんは「こんな身体、脱ぎ捨ててしまいたい」と思ったことはないでしょうか。身体というのは厄介なものです。若くて健康な頃には元気に動いていた身体が、病気や怪我を重ねながら、段々と動かなくなっていく。肌は衰え、筋肉は弱り、腰は曲がり、苦痛に悩まされるようになる。かといって、若い人は若い人で大変です。思春期になれば、身体のあちこちが変化していきます。頼んでもいないのに形が変わったり、勝手に毛が生えてきたりして、自分の身体が自分の身体ではないように思えてくる。見た目が気になってしまって、人と比べて、自分が嫌いになっていく・・・・・
マタイ16:14-20「罪の赦し」(使徒信条㉒|宣愛師)
・・・・・・信じるだけで赦されるということと、人を赦さなければ赦されないということは、実のところ矛盾しません。なぜなら、私たちが信じるイエス・キリストというお方は、私たちが赦したくない人を赦してしまうお方だからです。……皆さんには今、赦せない人がいるでしょうか。なぜその人のことが赦せないのでしょうか。その人はどんな人でしょうか。あなたはその人に何をされたのでしょうか。よほど嫌なことをされたのでしょう。あなたがその人を赦さないなら、神様もあなたをお赦しにならないと言われたら、あなたはその人を赦せるでしょうか・・・・・
第二コリント8:1-15「聖徒の交わり」(使徒信条㉑|宣愛師)
・・・・・・あるクリスチャンの女性が、こんな風に話しておられたことを思い出します。「いつか私がいなくなって、息子が一人になってしまった時、息子と一緒に生きてくれる教会を探しているんです」―――この切実な願いに応えられる教会でありたいと思います。ともに食卓を囲める仲間がいます。いつでも悩みを相談できる仲間たちがいます。学校や仕事に行けない日があれば、平日だって教会に来れます。牧師や伝道師はもちろんのこと、助けが必要な時にはいつでも駆けつけてくれる仲間たちがここにいます。この「聖徒の交わり」がある限り、私たちは生きていけるのです・・・・・
第一コリント1:10-17「聖なる公同の教会」(使徒信条⑳|宣愛師)
・・・・・・しかしそれにしても、なぜわざわざ「われは教会を信ず」と告白するのでしょうか。「父なる神を信ず」「主イエス・キリストを信ず」「聖霊を信ず」ということなら分かります。しかし、なぜ「教会を信ず」と告白するのでしょうか。それは、教会を信じられない、という現実があるからではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。教会を信頼できない、教会につまずいた、失望した、という経験はないでしょうか・・・・・
ガラテヤ5:19-25「聖霊」(使徒信条⑲|宣愛師)
・・・・・・しかし、私たちはふと不安になるかもしれません。自分は悔い改めて、バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずだ。でも、正直なところ自分は、聖霊を受けたという感覚を感じたことがない。聖霊を受けて、胸が高鳴るような感覚、生まれ変わったような感覚を感じたことはない。いや、クリスチャンになったばかりの頃は、多少はそういう感覚もあったかもしれないけれど、最近は全くそんな感じはしない。あれっ、自分は本当に聖霊を受けているのだろうか・・・・・
ローマ14:1-12「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」(使徒信条⑱|宣愛師)
・・・・・・“白黒思考”という言葉があります。物事を白か黒に分けたがる考え方、という意味だそうです。たとえば、「周りの人を良い人か悪い人かに分けて考えたがる」とか、「解決した問題についても、誰の責任だったかをはっきりさせないと気が済まない」とか、「挨拶されなかっただけで、その人から嫌われていると決めつける」とか、「少しでも失敗しそうな気配があると、挑戦すること自体を諦める」など、“白か黒か”、“0か100か”で考えてしまう……「はっきり白黒つけるのが心地よい」。完璧主義の人や自閉症を持つ人に限らず、多かれ少なかれすべての人が抱えている問題ではないかとも思いました・・・・・
使徒7:54-60「全能の父なる神の右に座したまえり」(使徒信条⑰|宣愛師)
・・・・・・神であるヤハウェの右の座に、王であるメシアがお座りになる。それは、ふかふかの椅子でゆっくりするためではなく、「敵」に勝利するためだと言うのです。そして、メシアが戦うとなれば、メシアの民も戦うのです……しかし、メシアの「敵」とは誰なのでしょうか。メシアの民、メシアのしもべたちが戦うべき「敵」とは、一体どこにいるのでしょうか。使徒の働き7章には、この「敵」との戦いを戦った一人の人物が登場します。ステパノと呼ばれるイエス様の弟子でした・・・・・
使徒1:9「天に昇り」(使徒信条⑯|宣愛師)
・・・・・・せっかく目に見えるようになってくださった神様が、また天に帰ってしまわれた。人々が手で触れることのできるイエス様が、また手の届かない場所に行ってしまわれた。マタイの福音書の最後の部分を見てみると、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)とイエス様は約束してくださいました。それなのに、はるか遠くにある天に帰ってしまわれた。「いつもあなたがたとともにいます」というイエス様のことばは、不安そうな弟子たちを励ますためのリップサービスに過ぎなかったのでしょうか・・・・・
マタイ28:1-10「死人のうちよりよみがえり」(使徒信条⑮|宣愛師)
・・・・・・週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の朝、二人のマリアが墓を見に行きました。愛するイエス様の遺体が納められた墓です。墓の入り口は固く閉ざされていました。彼女たちの心も悲しみの中で塞ぎ込んでいました。私たちも週の初めの日、日曜日の朝、こうして教会に集まっています。日曜日の朝、私たちも不安と失意の中にあるかもしれません。昨日までの一週間、色々な出来事があった。体調を崩したり、人間関係に疲れたり、悩みに押しつぶされそうになったりして、沈んだ心のままで、塞ぎ込んだ心のままで、日曜日の朝を迎えた私たちかもしれません。しかし、この日曜日の朝、週の初めの日の朝、私たちの塞ぎ込んだ心に光が差し込むような、特別なことが起こるのです・・・・・


