使徒信条

聖書の説教
マタイ27:62-66「三日目に」(使徒信条⑭|宣愛師)

・・・・・・彼らは、「三日目まで墓の番をするように」と頼みました。「わたしは三日後(三日目)によみがえる」と、イエス様が宣言していたからです。弟子たちが遺体を盗んで嘘をつき始めるかもしれないからです。「三日目まで」墓を守り切ることができれば、彼らの勝利だと言うこともできます。古い世界の勝利、新しい世界の敗北です。「三日目」が勝負の分かれ目でした・・・・・・

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聖書の説教
第一ペテロ3:13-22「よみにくだり」(使徒信条⑬|宣愛師)

・・・・・・ジョット・ディ・ボンドーネ(1266-1337年)というイタリアの画家が描いた、「最後の審判」と呼ばれる壁画があります。 地獄を描いたこの壁画では、悪魔たちが様々な手段で人間たちを苦しめています。……教育効果という意味では、こういう絵画にも一定の意義があるのかもしれません。ただ私は昔から、こういう絵を観るたびに違和感を覚えていました。どうしてこの悪魔たちは、自分たちも地獄に落とされているのに、活き活きと動き回っているのだろうか。命の世界で私たちを苦しめる悪魔たちは、死後の世界でも私たちを苦しめ続けるのだろうか。結局のところ、死後の世界を支配しているのは、神様ではなく悪魔だということなのだろうか・・・・・・

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聖書の説教
ローマ6:1-11「死にて葬られ」(使徒信条⑫|宣愛師)

・・・・・・ところが私たちキリスト者自身は、バプテスマを受けたにもかかわらず、自分自身のうちに罪が残り続けていることを知っています。バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずなのに、相変わらず怒りっぽい自分。怠け者の自分。自己中心な自分。もちろん、神様が赦してくださることは知っています。しかしだからこそ、いつの間にか神様の赦しに甘えてしまい、罪を犯し続けてしまう。神様の赦しに甘えて罪を犯し続けるけれども、「いつか神様に見捨てられてしまうのではないか」という不安もないわけではない。そんな私たちキリスト者の現実について記されているのが、本日開かれているローマ人への手紙の第6章だと言えます。まずは1節から4節をお読みします・・・・・・

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聖書の説教
ガラテヤ3:13-14「十字架につけられ(2)」(使徒信条⑪|宣愛師)

・・・・・・私たち一人一人も同じだと思います。“黒歴史”があります。誰にも言えないような失敗や罪があります。なかったことにすることはできません。でも、なかったことにする必要もありません。聖書の中には今でも、イスラエルの黒歴史がたくさん残っています。アブラハムやモーセやダビデやペテロやパウロの黒歴史もしっかり書かれています。でも、それもぜんぶ含めて聖書です。それも含めて私たちの人生です。その恥ずかしさも、その情けなさも、全部ひっくるめて、イエス様が背負ってくださったのです・・・・・・

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聖書の説教
ピリピ2:1-11「十字架につけられ(1)」(使徒信条⑩|宣愛師)

・・・・・・私たちがこれまで学んできた使徒信条は、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白した後で、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白します。そしてその続きでは、このキリストが「十字架につけられ」て死んだ、と告白するのです。冷静に考えればおかしな話です。……全能の神の子であるはずのお方が、人間たちの力に敗北したというのです。なぜでしょうか。イエス様は本当は神の子でもなんでもない、ただの弱い人間に過ぎなかった、ということなのでしょうか・・・・・・

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ヨハネ19:1-16a「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条⑨|宣愛師)

・・・・・・数ヶ月前のことですが、「今度から日曜礼拝で使徒信条の説教シリーズを始めるんだよ」という話をしたら、Hくんから、「使徒信条の中になぜピラトの名前が入っているのかについても、ぜひ取り扱ってほしいです」と言われました。「なんだかピラトがかわいそうで」という話にもなりました。たしかに、キリストを十字架につけて殺した人物として、世界中の教会でその名前が呼ばれ続けるなんて、やっぱりかわいそうだという気がします。しかし、そんな風に考える私たちは、どこかでこのピラトという人を、自分とは無関係の、他人事だと思っているのかもしれません・・・・・・

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聖書の説教
ルカ1:26-38「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」(使徒信条⑧|宣愛師)

・・・・・・“キリストの処女懐胎”が疑われている理由は、大きく分けて三つあります。まず第一に、「処女が妊娠するなんて科学的にあり得ない」と主張する人たちがいます。現代人の多くはこの立場に立つでしょう。その一方で、科学的な観点とは全く別の理由から、イエス様の“処女懐胎”を否定する人たちもいました。彼らは、「イエスのような貧しい人間に奇跡的な誕生は相応しくない」と主張します。そしてさらに別の観点から、イエス様の“処女懐胎”を疑う人々もいました。彼らは、「聖なる神の御子が物質的肉体を持つはずがない」と主張しました。本日は、これら三つの主張に順番に答えながら、この信仰告白に込められた意味をご一緒に味わいたいと思っています・・・・・・

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ルカ4:16-30「キリスト」(使徒信条⑦|宣愛師)

・・・・・・もっと正確に言うならば、「キリスト者」になるために唯一必要な条件は、“あなたが受け入れたくない人も受け入れてしまうキリスト”を受け入れること、これだけです。どうしてキリスト教が、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という、あまりにも単純すぎることを教えているのか、お分かりいただけると思います。「われはイエス・キリストを信ず」と告白するだけ。このあまりにも単純なことが、自己中心で排他的な私たちにはあまりにも難しいのです。しかし、このたった一つの信仰だけで、私たちの全ての罪は赦され、神の民の一員として迎え入れていただけるのです・・・・・・

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マタイ1:20-25「イエス」(使徒信条⑥|宣愛師)

・・・・・・そしてその時私たちは、「イエス」と「インマヌエル」という二つのお名前が、ひとりの救い主を指し示している、ということの意味に気づき始めるのだと思います。“罪から救う”ということと、“神がともにいる”ということが、別々の事柄ではなく、一つの事柄であることに気づき始めるのです。そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことであり、私たちが隣人のためにできる最善のことでもあるのだと思います・・・・・・

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第一コリント8:4-6「われらの主」(使徒信条⑤|宣愛師)

・・・・・・使徒信条の学びも五回目となります。本日は、「われらの主イエス・キリストを信ず」という信仰告白について、特に「われらの主」という言葉について、ご一緒に学びたいと思います。そしてそれと同時に、「宗教は自由を与えるのか、それとも、ある種の制約や義務を伴うものなのか?」というこの問いについても、聖書を通して考える機会となればと思います・・・・・・

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