ヨハネ6:22-35「いのちのパン」(まなか師)
2025年7月20日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』6章22-35節
22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。
24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

「パンを食べて満腹したから」
この朝も、皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。
イエス様がご自分のことを「いのちのパン」だと言われたのが、今日の箇所です。なぜ「パン」なのでしょうか。どうしてご自分を「パン」にたとえたのでしょうか。理由の一つとして、パンは当時の人々にとって最も基本的で欠かせない食べ物だった、ということが挙げられます。私たち日本人で言えば、白いごはんのようなポジションかもしれません。主食であり、命を支える糧です。多くの人は、ごはんを毎日食べると思います。他の食べ物は、数日に一回とか、数週間に一回しか食べないとしても、ごはんは毎日口にするという人も多いでしょう。また、最近はお米の値段が上がっているので、あまり説得力はないかもしれませんが、ごはんは、裕福な人も、貧しい人も、年配の人も、子どもも、どんな人でも食べるものです。つまり、イエス様は「全ての人の命に欠かせないもの」として、ご自身を示しておられるのです。
24節と25節を改めてお読みします。
24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
群衆は、イエス様を捜しに行きました。イエス様が前の日に、5つのパンと2匹の魚で、五千人もの人たちの空腹を満たされたからです。彼らは、目の前の必要を満たしてくださるイエス様の力に感動しました。この人がいれば、いつもお腹が満たされていて、安心した生活を送れるだろう。だから、イエス様を追いかけていって、また満腹にさせてもらおうとしたわけです。当時は今のように食べ物が十分にあるわけではない。いつでも手に入るわけではない。日々の糧は切実な問題でした。今日のパンを手に入れるということは、彼らにとって差し迫った必要だったのです。
私たちも「パンを下さい」と祈ります。目の前の必要が満たされるように、「イエス様、あれをください。これをお願いします」と祈ります。そして、祈りが答えられると安心して、「イエス様に祈ったら、今日食べるパンが与えられた。だから明日も必要を満たしてくださるように祈ろう」と考えます。そういう祈り、そのような信仰が間違っているというわけではありません。実際にイエス様は、お腹を空かせていた群衆のために、パンを増やすという奇跡をなさいました。しかしイエス様は、目の前の必要を満たすということ以上に、もっと大切なものを与えようとしておられます。26節と27節をお読みします。
26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
お腹を空かせていた群衆は、自分たちの目の前の必要を満たしてくれることを、イエス様に期待していました。けれどもイエス様は、「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」とおっしゃいました。私たちは、「なくなってしまう食べ物」ばかりに気を取られます。たしかに、お腹を空かせているときは、食べ物のことしか考えられなくなります。そして、食べ物がどうにか手に入れば、もう大丈夫だと思ってしまいます。でも食べ物はきっとまたなくなるのです。お金がなくて困っている時は、お金を工面すること以外を考える余裕はなくなってしまいます。なんとかお金の目処が立てば、一時的な安心を得られます。でもお金もきっとまたなくなる。人間関係に悩んでいるときは、その人間関係がどうなっていくかに体力も気力も奪われてしまいます。関係が改善されればこれで一安心だと思います。でも、人間どうし、また誰かとぶつかるということもあるのです。そういった一時的な安心、「なくなってしまう」安心よりも、もっと目を向けるべきことがあるんだよ、もっと根本的な安心があるんだよとイエス様はおっしゃる。
「決して飢えることがなく」
少し飛んで、34節と35節をお読みします。
34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
なくなってしまう食べ物ではなく、なくならない食べ物。永遠のいのちに至る、いのちのパン。それはわたしのことだ、とイエス様はおっしゃいます。わたしが永遠のいのちを与えるパンなのだ。わたしこそが永遠のいのちを与えるのだ。6章40節では、「わたしがその人を終わりの日によみがえらせる」とはっきり語っておられます。イエス様を信じる人を、イエス様はよみがえらせることができる。そしてそのことを知っている人は、「決して飢えることがなく……決して渇くことが」ない。それは、イエス様を信じていれば食べ物や水に困ることはない、という意味ではありません。イエス様を信じていても、私たちが飢え死にすることはあり得ます。お金がなくなったり、病気で死んでしまうこともあるでしょう。けれども、イエス様を信じている人は、たとえ飢えても、たとえ死んでしまったとしても、希望を失うことはない。なぜなら、永遠のいのちを持っているからです。死んでも大丈夫だ、と本気で信じて、死を迎えることができるからです。
逆に言えば、永遠のいのちの希望、よみがえりの希望を持っていないならば、どれだけたくさんのパンを持っていても、飢えてしまうということがあるのです。どれだけ豊かな生活をしていたとしても、どれだけ安定した生活をしていたとしても、人生に意味を見出せなくなってしまうということがあり得る。一時的な満たしによって、死の恐れを紛らわせることはできるかもしれません。でもそれはまるで、海水を飲むようなもので、飲んでも飲んでも渇きは癒えず、飲めば飲むほど虚しくなるような、そんな人生になりかねない。
もちろん、目の前のパンも大切です。目の前の必要のために祈ることも大切です。でも、目の前のパンにばかり目を留めていても、イエス様との信頼関係は深まっていきません。イエス様が与えてくださったパンに感謝したら、次はパンから目を離して、さらにイエス様ご自身に目を向けたいのです。私たちが本当に求めているのは、「たとえ死んでしまっても大丈夫だ」という絶対的な安心、すなわち、永遠のいのちに他なりません。この永遠のいのちを持っている人は、イエス様に身をあずけて、イエス様に信頼して、心の底から安心できる。「イエス様が一緒にいてくださるなら、たとえいつかパンが無くなって、死んでしまうことがあったとしても、大丈夫だ」と思える。「今日はパンがもらえた。明日もパンを下さい」という祈りから、「たとえパンがもらえなくても、たとえ死んでしまったとしても、イエス様がともにいてくださいますから、感謝します」という祈りに変わっていく。
「わたしがいのちのパンです」
最近、夫婦でNHKの朝ドラを見ています。「あんぱん」というタイトルで、アンパンマンの作者のやなせたかしさんとその妻をモデルにした物語です。ドラマの中でアンパンマンが誕生するのはまだこれからなのですが、すでにアンパンマンにつながる場面やセリフがたくさん出てきています。そのうちの一つが、やなせたかしさんのこんな言葉です。「正義は逆転する。信じられないことだけど、正義は簡単にひっくり返ってしまうことがある。じゃあ、決してひっくり返らない正義って何だろう。おなかをすかせて困っている人がいたら、一切れのパンを届けてあげることだ」。アンパンマンの醍醐味は、困っている人を助けるのに、自分の顔を差し出すというところだと思います。自分の手をいっさい汚さずに、誰かを助けることはできないのです。誰かにいのちを与えるには、自分のいのちを少なからず差し出す必要がある。
イエス様は、「わたしがいのちのパンです」と言われました。「わたしがいのちのパンを与えるよ」と言われたのではなく、「わたしこそいのちのパンだ」と言われました。イエス様は、私たちにいのちを与えるために、ご自分のいのちを差し出してくださった。しかしそれは無鉄砲な自己犠牲ではなく、復活への確信があったからこそできたことです。それならば、私たちもまた、復活への確信のゆえに、誰かのためにいのちを使うことができるのではないか。自分を犠牲にすることを恐れずに、自分自身が飢えてしまうことを恐れずに、「何があっても、イエス様がともにいるから大丈夫」という信仰をもって、人を助けることができるようになるのではないか。
アッシジのフランチェスコという人がいます。フランシスコ会の創設者として知られるカトリックの修道士です。もともとはお金持ちの家に生まれ、貴族の出身だったとさえ言われていますが、「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求めて、身分も財産も捨てて修道士になり、貧しい人々のために人生をささげました。なぜフランチェスコは、そんな危険な人生を選んだのでしょうか。どうして彼は、パンをたらふく食べられる人生ではなく、わずかなパンだけで生きる人生を選んだのでしょうか。それは彼が、イエス様を信じて、イエス様とともに歩んで、永遠のいのちの確信に生きていたからだと言えます。イエス様がともにいてくだされば、たとえ明日食べるパンが無くても大丈夫だ、食べるパンがなくて死んでしまっても大丈夫だ、そういう確信を持っていたからこそ、フランチェスコは自分のいのちを犠牲にして人を助けることができたのだと思います。
私たちも、フランチェスコのように生きられるのではないでしょうか。お腹を空かせている人がいるのに、「このパンは自分の分だ」と手放さないような生き方ではなく、「たとえ自分の分がなくなっても大丈夫」と信じて、勇気を持ってパンを差し出せるような、そんな信仰の生き方を選ぶことができるのではないでしょうか。そんなことは自分にはできない、そんな危険なことは恐ろしくてできないと思うかもしれません。誰かのために自分のパンが減れば、ただただ損をしたと思ってしまうような私たちかもしれません。もちろん、私たちはすぐにはそんな立派なことはできないでしょう。けれども、永遠のいのちが与えられているなら、たとえ死ぬことになったとしても大丈夫だという信仰が、私たちを少しずつ変えていくのです。何があってもいいんだ、イエス様がおられるから大丈夫なんだという、どっしりとした信仰によって、人のために自らを犠牲にするという驚くべき生き方が、少しずつできるようになっていくはずです。
永遠のいのちを与えてくださるイエス様が、今日も私とともにいてくださる。このことを確信して、何も恐れることなく、日々出会う誰かにパンを差し出すような愛をもって、今日からの新しい一週間を始めていきましょう。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。私たちは、目の前のことで精一杯になります。「なくなってしまう食べ物」に一喜一憂してしまいます。けれども、「なくならない食べ物」である、イエス様のいのちのパンを、頂きたいと願います。いや、今すでに頂いています。この永遠のいのちの確信に、私たちを生かしてください。たとえ飢え死にするようなことがあるとしても、イエス様がおられるから大丈夫だという信仰を与えてください。そして、その信仰のゆえに、誰かにパンを差し出して、いのちを分け与えることができるように、助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

