使徒7:54-60「全能の父なる神の右に座したまえり」(使徒信条⑰|宣愛師)
2025年8月3日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『使徒の働き』7章54-60節
54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

「わたしの右の座に着いていなさい」
先ほど私たちは「使徒信条」の中で、イエス様が「全能の父なる神の右に座したまえり」ということを告白しました。神の右の座というのは、世界一偉い王様の椅子ですから、さぞかしふかふかで座り心地も良いのだろうと想像します。しかし実は、「神の右に座す」ということは、柔らかい椅子でリラックス……ということではなさそうなのです。詩篇110篇は次のように歌います。
110:1 主〔ヤハウェ〕は 私の主〔メシア〕に言われた。
「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」
2 主〔ヤハウェ〕はあなたの力の杖を シオンから伸ばされる。
「あなたの敵のただ中で治めよ」と。
3 あなたの民は あなたの戦いの日に喜んで仕える。
神であるヤハウェの右の座に、王であるメシアがお座りになる。それは、ふかふかの椅子でゆっくりするためではなく、「敵」に勝利するためだと言うのです。そして、メシアが戦うとなれば、メシアの民も戦うのです。「あなたの民は あなたの戦いの日に喜んで仕える。」
しかし、メシアの「敵」とは誰なのでしょうか。メシアの民、メシアのしもべたちが戦うべき「敵」とは、一体どこにいるのでしょうか。使徒の働き7章には、この「敵」との戦いを戦った一人の人物が登場します。ステパノと呼ばれるイエス様の弟子でした。54節から57節。
54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
ステパノは人々に向かって言いました。「あなたたちが十字架にかけて殺してしまったあのイエスこそ、神に選ばれたメシアなのだ。あなたたちは罪のない方を殺してしまったのだ。だから、あなたたちは悔い改めなければならない。」しかし、人々は怒りに燃え、自分たちの間違いを認めようとはしません。
その時、天を見上げたステパノが目にしたのは、「神の栄光と神の右に立っておられるイエス」でした。神の右の座に深く腰掛けて、地上を悠々と眺めているだけのイエス様ではありません。ステパノのために立ち上がっておられたイエス様です。今ステパノが戦い抜こうとしているその戦いを、ステパノとともに戦ってくださるイエス様です。58節から60節をお読みします。
58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
「主イエスよ、私の霊をお受けください。」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」ステパノのこの祈りは、十字架の上でイエス様が祈られた祈りでもありました。イエス様の戦い、そしてステパノの戦いは、この祈りの戦いです。敵の血を流すのではなく、自分自身の血を流すことによって、勝利することのできる戦いです。なぜならこの戦いの「敵」は人間ではなく、人間の罪だからです。復讐の連鎖という人間の罪に、祈りによって打ち勝つための戦いです。
今も世界中で、あるいは日本中で、「あの人たちが悪い。あの人たちのせいだ」という言論や思想が広がっています。自分たちのことは「世界一素晴らしい国だ」などと称賛し、自分たちの罪については棚上げにしながら、外国人のことを軽んじたり悪者扱いしたりする。そんな世の中にあって、イエス様が戦われる戦いは、「この罪を彼らに負わせないでください」と祈りながら、自分自身を犠牲として献げる戦いです。敵を愛することによって、敵に勝利するのです。これがイエス様の戦い、私たちの戦いです。敵さえも赦していくその愛の力によって、神の右に座すお方は、世界に平和の支配をもたらすのです。
「私たちのために、とりなしていてくださる」
敵を赦し、愛し抜くという戦いを、ステパノはやり遂げました。そしてもう一人、この戦いに新しく加わろうとしていた人がいました。「サウロ」と呼ばれる人物でした。7章58節から8章3節。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
……8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。
……3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
「サウロ」と呼ばれるこの青年は、誰よりも熱心に教会を迫害していました。十字架にかけられて殺されたような人物がメシアであるはずがない。そんな弱々しい人間が神の右の座に着いているはずがない。しかしサウロは、やがてイエス様に出会うことになります(9:1-9)。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」「主よ、あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
後に「パウロ」という名前で知られるようになるこの青年は、イエス様と出会ったこの時のことを振り返って、次のように書き記しています。第一コリント15章7節から10節まで。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
パウロは自分のことを、「最も小さい者」「使徒と呼ばれるに値しない者」と呼びました。「パウロ」という名前も、ラテン語で「小さい」という意味です。パウロは、教会を迫害してしまった自分、そしてあの日、ステパノの殺害にも賛同してしまった自分に、深い罪意識を持っていました。
イエス様を信じて使徒となったパウロでしたが、「おまえはかつて教会を迫害していたくせに、何を偉そうに教えを垂れているのだ」という批判を受けることも多々ありました。それは否定しようのない事実でしたから、パウロの心も激しく動揺してしまうのです。「そうだ、そのとおりだ。こんな罪深い自分がどうしてイエス様のために働けるだろうか」と打ちのめされてしまってもおかしくなかったのです。しかしパウロは、「こんな自分はもうダメだ。こんな罪深い自分はダメだ」と自分を責めて、何もかも投げ捨ててしまうということはなかったのです。むしろパウロは、あまりにも大きすぎるその罪悪感に押しつぶされることなく、立ち直って前に進んで行けたのです。なぜでしょうか?
パウロはきっと、ステパノのあの祈りが忘れられなかったのだと思います。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」もちろんその時のパウロは、「なんだその祈りは。なぜおれたちのために祈るんだ。罪人はおまえのほうだろう」と思っていたでしょう。しかしやがてパウロは、その祈りが本当に自分のための祈りだったことに気づくのです。そしてそのステパノの祈りが、十字架の上でイエス様ご自身が祈ってくださった祈りでもあったと知るのです。
だからこそパウロは、神の右の座におられるイエス様は、今も私たちのために祈ってくださっているのだと、確信を持って語ることができたのだと思います。ローマ人への手紙の8章33節34節。
33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
初めて教会に来る方の中には、“罪の赦しを求める祈り”の多さに驚く方もいるようです。たしかに、たとえば「主の祈り」の中でも、「私たちの負い目をお赦しください」と祈ります。聖餐式の中でも、自分自身の罪を吟味するための黙祷の時間があります。どうしてこんなに罪の赦しを祈るんだろう、この人たちは毎週毎週そんなに罪を犯しているのだろうかと思うわけです。しかし、きっかけは人それぞれですけれども、そのような祈りをともにくり返していく中で、「この祈りは自分こそが祈るべき祈りだった」と気づく時が来るのだと思います。
そして、パウロのように自分の罪を深く知っている人こそ、この戦いを戦い抜くことができるのだと思います。人を打ち負かすための戦いではなく、赦すための戦いです。自分を殺そうとする敵が救われることを祈るための戦いです。自分の罪を深く知っている人だからこそ、他の人の罪を赦すこともできるのです。自分こそがイエス様の敵だったのだ、しかしそんな自分のためにイエス様が祈ってくださったのだということを知っている人だからこそ、自分の敵のために祈るということもできるのです。パウロのように罪深い人だからこそ、自分の罪を誰よりもはっきりと知っていたパウロだからこそ、敵を愛して赦していくイエス様の戦いをともに戦い抜くことができたのです。
今日もイエス様は、神の右の座で、私たちのために祈ってくださっています。「いいや、自分にそんな祈りは必要ない」と思われるでしょうか。たとえ私たちがその祈りを拒んだとしても、イエス様はめげずに祈ってくださっています。「神様、あいつはまだ自分の罪が分かっていません。だから心の奥底で他の人のことを見下したり、他の人の罪をさばいたり、ちょっと偉そうな態度をすることもあります。でも、あいつにもいつか、自分の罪が分かる日が来ます。その時、わたしはあいつと一緒にこの戦いを戦いたいのです」と、イエス様がとりなしていてくださる。そのようにしてイエス様は、私たち一人ひとりを特別に愛しながら、やがて全ての「敵」をご自身の支配下に収め、神の王国、まことの平和を実現してくださるのです。私たちもまた、赦されている幸い、祈られている幸いを味わいながら、神の右の座におられるイエス様とともに、この戦いを喜んで戦い続けたいと思います。お祈りをいたしましょう。
祈り
私たちの父なる神様。イエス様がお始めになった戦いは、この世界で行われるどんな戦争よりも、はるかに難しい戦いのように思えます。私たちはこれからも、何度も何度も敗北を味わうでしょう。自分自身の罪を棚上げにして人の罪をさばくという敗北をくり返すでしょう。しかし、そのたびにイエス様がとりなしてくださることを、心から感謝いたします。そして私たちが自らの罪から立ち上がるたびに、自らの罪の醜さ根深さを知るがゆえに、ますます人を赦すことに長けた神の戦士へと成長させてくださいますように。キリストの御名によって祈ります。アーメン。

