ローマ14:1-12「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」(使徒信条⑱|宣愛師)

2025年8月10日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ローマ人への手紙』14章1-12節


14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
10 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
11 次のように書かれています。 

  「わたしは生きている──主のことば──。
  すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、
  すべての舌は、神に告白する。」

12 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。



「はっきり白黒つけるのが心地よい」

 “白黒思考”という言葉があります。物事を白か黒に分けたがる考え方、という意味だそうです。たとえば、「周りの人を良い人か悪い人かに分けて考えたがる」とか、「解決した問題についても、誰の責任だったかをはっきりさせないと気が済まない」とか、「挨拶されなかっただけで、その人から嫌われていると決めつける」とか、「少しでも失敗しそうな気配があると、挑戦すること自体を諦める」など、“白か黒か”、“0か100か”で考えてしまう。インターネットで調べてみると、こういう説明も出てきました。


完璧主義の人や自閉スペクトラム症の傾向がある人は、白黒思考になりやすいといわれています。完璧主義の傾向がある人は、結論がはっきりせずに中途半端な状態や二分できないものを嫌います。また、自閉スペクトラム症の特性を持つ人は、あいまいな状況を理解することが苦手です。「こういうこともあるけど、別の可能性もあるよね」という考え方ができないため、物事をAかBかに振り分けがちです。これらの傾向や特性を持つ人は、はっきり白黒つけるのが心地よい状態になるのです。

コグラボ「白黒思考とは?原因と治し方を心理士が解説」(https://www.awarefy.com/coglabo/post/all-or-nothing-thinking)

 「はっきり白黒つけるのが心地よい」。完璧主義の人や自閉症を持つ人に限らず、多かれ少なかれすべての人が抱えている問題ではないかとも思いました。そして、この“白黒思考”によって、親しい人間関係さえも壊れてしまうということが、教会の中でさえ起こり得るのだと思いました。

 ローマの教会でも、「白か黒か」の問題が生じていたようです。「クリスチャンは肉を食べてもよいのか、それとも食べてはいけないのか」という問題です。当時の社会では、肉といえば大抵の場合、ギリシャ・ローマの神々にささげられた後に余ったものでしたから、クリスチャンが肉を食べるということは、異教の偶像礼拝に関わることになってしまいかねません。ですから一部のクリスチャンたちは、「肉は食べずに、野菜だけを食べるべきだ」と主張していました。それに対して、「いや、偶像にささげられた肉だとしても、何の問題もない」と考えるクリスチャンたちもいました。「だって、偶像の神々は本当は存在しないのだから、偶像にささげられた肉だって普通の肉と変わらない。イエス様はそんなの気にしないよ」というわけです。

 こうして、“お肉を食べてはいけない派”と“食べてもいい派”が、教会の中でいがみ合い、見下し合うようになってしまった。「白か黒か」でさばき合うようになってしまった。そんな教会に対してパウロが書き送った手紙が、この『ローマ人への手紙』でした。14章の1節から4節まで。


14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。

 “食べてはいけない派”の人も、“食べてもいい派”の人も、お互いを見下したりさばいたりする資格はない。なぜなら、「神がその人を受け入れてくださった」からです。神が受け入れてくださったその人を、どうしてあなたがさばけるのか。人のしもべを偉そうにさばくあなたは一体何者なのか。あなたはいつからそんなに偉くなったのか。5節から8節もお読みしましょう。


5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 今度は、“ある日を別の日よりも大事だと考える派”と、“どの日も大事だと考える派”の問題です。詳しいことは分かりませんが、「土曜日は安息日だから特別な日だ」とか、「日曜日はイエス様が復活した日だから特別な日だ」と考えるクリスチャンたちがいたのでしょう。それに対して、「いいや、土曜日も日曜日も関係なく、毎日が特別な日であり、毎日が礼拝の日だ」と考えるクリスチャンたちもいたのでしょう。今の時代でも、「礼拝は日曜日にすべきか、別の日でもいいのか」みたいな議論がクリスチャンの間で交わされたりして、時に大喧嘩になるようなこともあります。

 そんなクリスチャンたちにパウロが伝えたかったこと、それは、「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」ということでした。“白黒思考”の私たちからすれば、「えっ、パウロ先生、日曜日に礼拝すべきかどうかって、聖書的にもめちゃめちゃ重要な問題ですよね? そんな曖昧な感じにしちゃっていいんですか?」と言いたくなります。たしかに日曜日を尊ぶことは大切です。しかしパウロは、「それ以上に大切なことは、イエス様のために生きているかどうかでしょ?」と言うわけです。「たとえ、色々な部分で意見が合わなかったとしても、イエス様のために生きるという点で一致していくのが教会でしょ?」と。


「私たちはみな、神のさばきの座に立つことになる」

 ひょっとすると、パウロは相対主義者だったのでしょうか? 相対主義者たちは、「絶対的な正義なんてこの世には存在しない。すべては相対的なのだ。何が正しくて何が間違っているかは、人間の文化によって決まるのであって、実際には正しさなんて存在しないのだ」と主張します。パウロも相対主義にはまってしまっていたから、あんなに曖昧な考え方ができたのではないか。

 違います。そうではないのです。パウロは相対主義者ではありません。むしろパウロは、絶対的な正義を司っておられる神様がおられることを、誰よりも信じていた人です。そして実は、逆説的かもしれませんが、そのようにして絶対的な神様を信じるというこの信仰こそが、パウロが“白黒思考”に縛られなかった最大の理由でもあったのです。9節から12節。


9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
10 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
11 次のように書かれています。 

  「わたしは 生きている──主のことば──。
  すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、
  すべての舌は、神に告白する。」

12 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

 「私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。」「私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。」パウロは、唯一絶対の神と、その神が行うさばきを信じる人でした。「いやいや、そういう考え方こそまさに“白黒思考”じゃないか」と批判する人もいるでしょう。「唯一の神だけを信じ、他の神々を信じないなんて、まさに“白黒思考”じゃないか。だからキリスト教は戦争ばかりしているんだ」と。たしかにそういう指摘もできるでしょう。

 しかし、本当は逆なのだと思います。唯一の神様がすべての人をさばかれると信じているからこそ、私たちキリスト者は、自分には人をさばく資格はないし、自分で人をさばく必要もないと信じることができるはずなのです。最後には神様がさばきを行なってくださると信じるからこそ、自分とは違う考え方を持っている人に対しても、曖昧なままで、グレーなままで、しかし平安をもってともに生きるということができるようになるのだと思います。

 「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」。「かしこ」というのは、「その場所」という意味です。イエス様が「その場所から」再び来られる。天に昇られたイエス様が、再び天から降りて来られて、生きている人も死んでいる人もおさばきになる。そのように約束されているから、そのように信じて告白しているから、私たちは、まるで自分がさばき主であるかのようにして、「自分が絶対に正しい」とか、「間違いなくあの人が悪い」などと決めつける必要はないのです。イエス様にすべてをお任せして、謙遜に生きることができるのです。

 先日私は、自分でも少しびっくりしていますが、自分の母のLINEをブロックしてしまいました。Facebookもブロックしました。母とのやり取りに疲れてしまったからです。母がLINEやFacebookで拡散し続ける様々な陰謀論について、私も私なりに色々調べながら、いわゆるファクトチェックをかなり徹底的に調べながら、「母ちゃんがこの情報を真実だと判断した理由は何?」と尋ねてみる。でも、その質問に答えてくれることはなく、別の動画や記事が次々と送られてくる。会話が成り立たない。理屈が通らない。そういうやり取りが繰り返される中で、「悪いけど、今の母ちゃんと話を続けるのは精神的にしんどいからブロックさせてもらうね」と伝えました。

 あちらからすれば、話が通じないのはこっちのほうなのだと思いますが、その状況に耐えられませんでした。今日の説教の準備を進めていた中での出来事でしたから、私自身もまた“白黒思考”から逃れられない罪人であることを痛感させられました。母とは一生分かり合えないのかな、とも思います。お互いに自分の正しさを捨てることができない。しかし、いつの日かイエス様がさばいてくださることが、私たちの救いだとも思いました。「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」という信仰告白を思い出すと、「自分はどんなふうにさばかれるだろうか」と背筋が伸びますが、それと同時にほっとする自分もいます。分かり合えない部分はそのままで、イエス様におゆだねして、もう少し気楽に関わり直していける気がするからです。

 最後にもう一つ、パウロの言葉をお読みして、本日の説教を終わりたいと思います。コリント人への手紙第一の4章5節です。


4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

 ご一緒に祈りましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。自分が白だと思っていることを振りかざして、相手をさばいたり攻撃したりすることによって自分の正しさを確かめたくなってしまう、短絡的でせっかちな私たちです。どうか、イエス様が再び来られるその日を待ち望むことによって、曖昧でグレーな現実を受け入れる寛容さや、意見の違う人々とともに生きる謙遜さを、学んでいくことができますように。誰かを断罪することによって得られる平安ではなく、主のさばきを待ち望むことによって得られるまことの平安に生きることができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。