ヨハネ6:35-40「一人も失うことなく」(まなか師)
2025年8月17日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』6章35-40節
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

「子を見て信じる者」「わたしのもとに来る者」:私たちの信仰の決断
この朝も、皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。
私は幼い頃、「自分もイエス様と同じ時代に生きていれば、イエス様のことをもっと簡単に信じられたのに」と思っていました。イエス様がたくさんの奇跡を見せてくれて、たくさんの教えを聞かせてくれて、それを直接見聞きすれば、信じるための材料は十分に揃う。だから私はもっと確実にイエス様のことを信じられるはずだ。でも、いまの私にはイエス様のことが見えないから、イエス様が本当におられるのか、もし本当におられるとしたらどんなお方なのか、なかなか分からない。自分もイエス様を「見て信じる」ことができたらいいのに。
ですが、よく考えてみると、イエス様を実際に見ることができた当時の人たちは、どうだったでしょうか。彼らは、イエス様が何をなさっているかを直接見て、数々の奇跡の目撃者にもなりましたが、それでも多くの人たちが信じなかったのです。私たちは、見たら信じやすいと思いがちですが、実はそうではないのかもしれません。
36節と40節をお読みします。
36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
「あなたがたはわたしを見たのに信じません」とイエス様はおっしゃいました。イエス様の奇跡を見ても、イエス様の教えを聞いても、私たちはイエス様を信じない。信じようとしない。
けれども同時に、イエス様は次のようにもおっしゃいます。「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持」つ。このイエス様の言葉を、もとのギリシャ語で読むと、「見る」という動詞が特徴的です。どんなふうに特徴的かと言うと、“じーっと観察する”という意味合いの「見る」という動詞が使われているんです。36節の「見る」は、ごく普通の「見る」という動詞でした。一方で、40節の「見て信じる」ときの「見る」は、注意深く観察するという意味の「見る」になっている。
たしかに私たちは、イエス様の姿をいま直接見ることはできません。イエス様は天に上げられたからです。でも私たちは、イエス様の生き方や言葉が記されている聖書を、注意深く読んで、観察することはできる。半信半疑でもいいと思います。まだ信じるかどうか分からないけど、それでもイエス様をまずはよく見てみる。どんな人なのだろうか、何をした人なのだろうか、と色んな角度から、時間をかけて、よく見てみることができる。
さらに、「見る」のほかにも、注目したい言葉があります。それは「来る」という動詞です。35節と37節をお読みします。
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
イエス様が繰り返し語っておられるのは「わたしのもとに来る」という言葉です。イエス様のもとに来る者は、飢えることがない。イエス様のもとに来る者は、決して外に追い出されない。
外に追い出されないということは、すでに中にいるということです。中にいることが前提となっています。だから「イエス様のもとに来る者」は、外からイエス様のもとにやって来ても、必ず受け入れてもらえるよ、というだけではないのです。「イエス様のもとに来る者」は、イエス様との交わりの中にすぐに入れてもらえて、しかもそこから追い出されることは決してない。「やっぱりお前はここにいるべきではない」と放り出されることも、「お前にはがっかりした。どこかに行ってしまえ」と追い出されることもあり得ない。「お前はわたしのもとにずっといて良いんだよ」としっかり保証されているわけです。「あなたを永遠に守る」という、いわば安全安心の永久保証です。イエス様の中にいつまでもいられるからこそ、私たちは飢えることがないし、渇くことがない。
ただし、イエス様のもとに来るということは、一度きりのことではありません。「来る」という動詞は、もとのギリシャ語では現在形になっていて、継続や反復のニュアンスがあります。何度も何度も、私たちはイエス様のもとに立ち返ります。罪を犯してしまったとき、信仰が失われそうになったとき、自分自身に絶望したとき、私たちは自分からイエス様のもとを離れます。けれどもイエス様は、私たちが悔い改めて、再びイエス様のもとに来るとき、「よく帰ってきたね」と言ってくださる。「よく戻ってきてくれたね」と喜んでくださる。信仰の歩みとは、イエス様のもとに来るということの繰り返しだと思うのです。
父が子に与えてくださる者:神の選びか人間の意志か
少し話が飛びますが、皆さんは、神様がこの世界のすべてのことを決めていると思うでしょうか。もし神様がすべてを決めるなら、人間の自由はあるのでしょうか。これは、教会の中でも外でも、多くの人が疑問に思うことです。「神がすべてを決めるなら、人間に自由はないのではないか?」たしかに、今日私たちが何をするか、何を食べるか、何を着るか、すべてを神様が支配しているとしたら、つまり、私たちがすべて神様の思い通りに動いているとしたら、私たちはまるで操り人形かロボットのようです。さすがにそんなことはない、と皆さんお思いになるでしょう。神様は私たちに自由な意志も与えてくださった。
では、誰が救われて、誰が救われないか。このことについてはどうやって決まるのでしょうか。こんな言葉を時々耳にします。「ある人が救われるかどうか、神ははじめから決めている」。「神は誰を救うか、あらかじめ決めている」。神様が誰を救うかをすでに決めているとすれば、信仰に至らずに死んでいった人たちは、神様が「救わない」と決めた人たちなのでしょうか。なかなかキリスト教に関心を持ってくれない、私たちの家族や友人も、もしかすると神様がすでに「救わない」と決めている人たちなのでしょうか。
もし、神様の側で救われる人があらかじめ選ばれているならば、私たちの信仰の決断も、神様に誘導されているということになります。もっと悪く言えば、神様に操られ、洗脳されているかのようです。けれども、「見て信じる」ということも「イエス様のもとに来る」ということも、私たちの側の決断が大切にされているようにも感じます。じっくり観察して、イエス様を信じようと決める。イエス様のもとに行こうと決める。私たちの能動的な決断です。でも、自分で決断したと思っていることも、神様から見れば筋書き通りなのでしょうか。私たちの救いにおいて、私たちの意志が働く余地はあるのでしょうか。
37節にはこうありました。「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます」。父なる神が、子なるキリストに与えてくださる者はみな、キリストのもとに来る。そうすると、やはり神様があらかじめ決めておいた人たちだけが、イエス様のもとに来るかのように思えます。ですが、ここでイエス様がおっしゃりたいのは、そういうことではないと思います。神様が、この人は救われる、この人は救われないと、選り分けているわけではない。たしかに、イエス様を信じるか信じないかで、私たちがふるい分けられるということは否定できません。イエス様を救い主として信じるかどうかで、私たちがいずれ二つに分けられる日は来る。でもそれは、神様が、こいつは救い、こいつは滅び、と私たちを冷たくふるい分けるということでは決してない。
父なる神様の働きがない限り、私たちは罪を好み、罪の中にとどまり続けます。罪の誘惑の力、支配の力は強いですから、イエス様のもとに自力で行くことはできません。けれども、父が御子に私たちを与えてくださると言うとき、私たちの存在を丸ごと、抱えている罪まで含めて、イエス様に委ねてくださるわけです。
私たちは、イエス様が自分に与えられた贈り物だ、と信じています。父なる神様は、御子を私たちに与えてくださった。でもそれと同時に、私たちはイエス様に与えられている存在なのです。イエス様に与えられている贈り物なのです。どうしようもない人間も、どんなに罪深い人も、父なる神からイエス様に与えられている。イエス様への贈り物である。悔い改めてイエス様のもとに行こうとする私たちは、すでにイエス様に与えられているのです。
私たちの救いにおいて、私たちの意志が働く余地はあるのか。この問いへの答えは「いいえ」でもあり「はい」でもあります。私たちの意志だけでイエス様のもとに行くことはできない。そういう意味では、答えは「いいえ」です。私たちがイエス様のもとに行こうと決断することも、神様の働きなくしてはあり得ない。しかし、だからと言って、私たちの決断は、神様にとって意味のないものではない。「イエス様のもとに行こう」という決断を、神様は喜んでくださる。そういう意味では、答えは「はい」です。イエス様のもとへと一歩踏み出した私たちを、イエス様はすぐにご自身の中へと招き入れてくださる。イエス様のもとに帰ろうという悔い改めの祈りを、聞き入れてくださる。
神様の救いの計画と、私たち人間の意志は、同時に成立します。むしろ、神様の計画の中で、私たちの意志や決断は意味あるものとなります。これが運命論と異なる点です。運命論では、何もかもが運命によってすでに決まっているので、人間の行動は無意味です。けれども、私たちが信じる神様の御手の中では、私たちの行動も意味を持つのです。神様は私たちを導き、その中で私たちの決断や行動を用いるからです。
「一人も失うことなく」
とはいえ、私たちは、自分の意志や決断が自分の救いに影響すると思うと、少し恐ろしくなります。不安になると言ってもいいかもしれません。情けない自分の姿を知っているからです。自分の姿を直視するならば、私はイエス様の救いから漏れてしまう、と思わざるを得ないのです。たとえば、試練の中を通ると、すぐにイエス様を信頼できなくなる。何度も同じ罪を犯して、イエス様から離れようとする。こんな自分は、イエス様の中から追い出されてしまっても仕方がない。イエス様の救いから漏れてしまっても不思議ではない。しかし、イエス様は言われました。38節と39節。
38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
イエス様は「わたしに与えてくださったすべての者を、一人も失うこと」はない、とはっきりおっしゃいました。たったの一人も欠けることはない。繰り返しになりますが、これは安全安心の永久保証です。今日の箇所のイエス様の言葉には、「すべての者」とか「みな」とか「一人も」という表現が繰り返されます。イエス様の救いからこぼれ落ちてしまう人は一人もいない。
どうしてそこまで言い切れるのでしょうか。それは、「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うため」だからです。救いの計画は、父のみこころである。父がそうしたいと望んでおられることである。そして御子は、この父のみこころを余すところなく実行に移すために、世に来られた。十字架につけられて死なれた後、よみがえられた。私たちに与えられる永遠のいのちは、まずイエス様に与えられたいのちです。永遠のいのちとは、曖昧で不確かな死後のいのちではありません。イエス様が先駆けてよみがえられたように、私たちもまたよみがえる。終わりの日に、誰一人として失われることはないという保証が満了する。よみがえった私たちは、「イエス様が保証してくださるって、本当にそのとおりだったね」と語り合うわけです。
私たちの救いの確信は、私たちがイエス様への信仰をどれだけ握っているかではなく、父と御子が私たちをどれだけ握っていてくださるかによります。私たちの救いは、私たちの意志にかかっているのではなく、神の意志にかかっている。私たちの救いは、私たちの変わりやすい信仰ではなく、変わることのない神の愛とあわれみにかかっている。もし私たちが「自分は救われているだろうか」と疑ってしまうなら、この神の愛とあわれみを疑っていることになります。神の愛とあわれみを小さく見積もっていることになります。でも、神の愛はそんなに浅いものではない。イエス様のしてくださったことはそんなに薄っぺらいものではない。
「わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うこと」はない。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはし」ない。だから私たちは、自分の信仰の確かさではなく、神の救いの確かさに信頼して、どんな罪を犯してしまったとしても、イエス様のもとに行くのです。もう自分の信仰に自信を持つ必要はありません。イエス様の言葉の確かさに信頼して、何度でもイエス様のもとに行きたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。私たちは、自分の信仰を見れば本当に情けなく、あなたの前に申し訳が立たないような者です。どうぞ主が私たちをあわれんでくださいますように。そして私たちが、自分の信仰の確かさではなく、あなたの救いの確かさに目を向けることができますように。みこころのうちに一人も失われることはないという保証に信頼して、どんな失敗を犯してしまったとしても、何度でもイエス様のもとに行かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

