ガラテヤ5:19-25「聖霊」(使徒信条⑲|宣愛師)
2025年8月31日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ガラテヤ人への手紙』5章19-25節
5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

世界を造り、再び造り変える神の霊
使徒信条の学びも19回目となりました。今日みなさんとご一緒に学びたいのは、「われは聖霊を信ず」という告白です。「われは聖霊を信ず。」父なる神様のことは信じています。また、神の独り子であるイエス様のことも信じています。しかし、聖霊を信じていますかと尋ねられたら、みなさんどうでしょうか。信じていないわけではないけれど、そもそも聖霊って一体どういう存在なんだろう? 聖霊を信じるって一体どういうことなんだろう?
聖なる霊。聖なる神様の霊―――父なる神様や、イエス様に比べると、聖霊様は聖書にはあまり登場しないイメージがあるかもしれません。しかし実はこの聖霊は、聖書の1ページ目の一番初めからすでに登場しているんです。創世記の1章1節と2節をお読みします。
1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
神様がこの世界をお造りになった時、お造りになり始めた時、まだ何もなかった世界の上を「神の霊」が動いておられました。神の霊とは、この世界にいのちを与えた霊です。まだ何もなかった世界に、美しく豊かないのちを造り出した霊です。そしてこの神の霊は、いのちを失ってしまった今の世界に、新しいいのちを与える霊でもあります。エゼキエル書37章の4節から5節。
37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。
5 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
「わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」ここで「息」と翻訳されている言葉は、「霊」と同じ言葉です。ヘブル語やギリシャ語では、「霊」も「息」も「風」もみな同じ言葉です。神の霊、神の息、神の風が、干からびた骨にいのちを与える。干からびた人間たちを生き返らせる。干からびた世界をもう一度、美しく豊かな世界へと造り直す。
ですから、聖霊というのは、単なるスピリチュアルなパワーではありません。そういうパワーが欲しいのであれば、パワースポットを巡ってみたり、ヨガ教室に通ったりしたほうが良いかもしれません。しかし聖霊は、単にスピリチュアルなパワーをくれる存在ではなく、この世界を新しく造り変えるお方です。干からびたこの世界を生き返らせるお方です。私たちはなぜ聖霊を求めるのでしょうか。私たちはなぜ聖霊を信じるのでしょうか。それは、単にパワーやエネルギーがほしいからではなくて、新しい世界を求めているからです。新しい世界を待ち望んでいるからです。そして、私たち自身もまた、新しい世界の一部として生きていきたいからです。
聖書は、この聖霊が私たちの内にも住んでくださる、と教えています。私たちに聖霊が与えられるのだと。みなさん、聖霊を受けていますか。みなさんの中にも、この聖霊が住んでくださっているでしょうか。どうすれば私たちは、この聖霊を受けることができるのでしょうか。エルサレムやローマみたいな、いかにもキリスト教パワーが溢れていそうな場所に行けば、聖霊を受けられるのでしょうか。やっぱりパワースポットみたいな場所が必要なのでしょうか。そうではありません。聖霊を受けるために必要なこと、それは、たった一つのことです。自分が罪人であることを認めて、悔い改めることです。使徒の働きの2章36節から39節をお読みします。
2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
「このイエスを、あなたがたは十字架につけた」。聖霊を受けるために必要なただ一つのこと。それは、自分こそがイエス様を十字架につけたのだ、と認めることです。この自分の罪は、この世界を傷つけてばかりの自分の罪は、イエス様を十字架につけてしまうほどに重たいものなのだ、と認めることです。神様がお造りになったこの世界を干からびさせていたのは、他でもないこの私自身だ。
人々は尋ねます。「私たちはどうしたらよいでしょうか。」ペテロは答えます。「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」―――「賜物」というのは、“贈り物”という意味です。神様からのプレゼントです。このプレゼントは、神様からの招待状でもあります。新しい世界を一緒に造っていこう、傷ついたこの世界を一緒に造り変えていこう、という神様からの招待状です。みなさんへの招待状です。この招待状は、イスラエル人だけに与えられているのではありません。この招待状は、この神の約束は、「私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」この私たちにも与えられている約束です。
聖霊を感じられなくても
しかし、私たちはふと不安になるかもしれません。自分は悔い改めて、バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずだ。でも、正直なところ自分は、聖霊を受けたという感覚を感じたことがない。聖霊を受けて、胸が高鳴るような感覚、生まれ変わったような感覚を感じたことはない。いや、クリスチャンになったばかりの頃は、多少はそういう感覚もあったかもしれないけれど、最近は全くそんな感じはしない。あれっ、自分は本当に聖霊を受けているのだろうか。
大丈夫です。心配する必要はありません。私もそうです。「これが聖霊か!」みたいな高揚感を味わったことはそんなにありません。もちろん、そういう感覚を感じることも大切なことです。でも、胸が高鳴るような感覚を味わうことよりももっと大切なことは、私たちの生き方が実際に変えられていく、ということです。
聖霊は「風」のようなものだと聖書は語ります。風というものは、目で見ることはできません。しかしたとえば、外を散歩していて、公園に植えられている木の葉っぱが揺れ動いているのが見えます。すると私は、風が吹いていることを知ります。風そのものを見たからではありません。風を身体に感じたからでもありません。ただ、葉っぱが揺れた、葉っぱが動かされた、それを理解するだけで、風が吹いていることも理解するのです。聖霊はこの世界を動かす「風」です。
目で見る必要も、身体で感じる必要もありません。この私の生き方が確かに変えられている。この私の人生が確かに動かされている。そのことが、聖霊がともにいてくださることの証拠です。この世界を傷つけ、周りの人を傷つけ、自分自身をも傷つけていた私たちの古い生き方が、新しい生き方に変わっていく。少しずつ変えられていく。それこそが、聖霊がこの私を動かしているということの証拠です。ガラテヤ書5章の19節から25節を改めてお読みします。
5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興」―――これらは、単なる悪事のリストではありません。「こういうのってなんとなく良くないよね」ということではない。これらは、神様が造った美しい世界を壊すものです。神様が造った美しい世界を破壊するものたちです。「淫らな行い」が夫婦の絆を破壊します。夫婦の絆が失われることによって、その子どもたちの多くは、自分が生まれたことの意義を見失ってしまう、自分が大切な存在であることが分からなくなってしまう。「敵意」や「争い」や「そねみ」や「ねたみ」も、美しいこの世界を壊しています。人間が人間を信じられない社会を造るのです。人間が助け合うことのできない、自己中心的で、冷たい世界を造ってしまうのです。
しかし聖霊は、このようにして傷ついた世界に、新しいいのちを吹き込もうとしています。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」―――これらもまた、単なる善い行いのリストではありません。これらは、傷ついたこの世界を癒すために必要な賜物たちです。傷ついた世界を癒すのは「愛」です。干からびた世界をよみがえらせるのは「喜び」です。不安や絶望が支配する世界にいのちを与えるのは「平安」です。敵意や争いだらけの世界を結びつけるのは「寛容」です。
こういうリストを見れば見るほど、本当に自分に聖霊が与えられているのだろうか、と不安になるかもしれません。自分は今も様々な誘惑に負けてしまう。自分は今も人に敵意を持ったりねたんだりしてしまう。「愛」とはほど遠い生き方をしている。「喜び」とはかけ離れた人生だ。「平安」もない。「寛容」も足りない。こんな自分は本当にクリスチャンだと言えるのだろうか。
ただ、考えてみてください。クリスチャンになる前の私たちは、愛のない自分について、今ほど真剣に考えていたでしょうか。誘惑に負けてしまう自分について、今ほど真剣に悩んでいたでしょうか。クリスチャンになる前の私たちは、自分が人に敵意を持ってしまうような人間であることを、人をねたんでしまうような人間であることを、今のように罪としてはっきりと認識していたでしょうか。これらのリストを見て、自分はまだまだだ、自分は罪人だと落ち込むことができること自体、すでに聖霊様が与えられていることの証拠ではないでしょうか。聖霊の風が、神の息吹が、あなたに新しいいのちを与え始めている証拠ではないでしょうか。
大きな奇跡が起こらなくても良いのです。驚くような体験がなくても良いのです。聖霊は確かに、今も私たちとともにいてくださいます。そして聖霊は今も、この傷ついた世界を癒すために、風のように世界中を動き回っておられます。この聖霊を信じる私たちも、この風に導かれて歩んでいくのです。淫らな行いにふけるような生き方ではなく、誠実に人を愛する道を―――敵意や争いに飲み込まれるのではなく、寛容と親切を貫く道を―――肉の誘惑に気づくことさえできない生き方ではなく、誘惑に負けてもなお悔い改め続けていく道を、私たちはこの風に導かれて歩んでいくのです。そのようにして私たちは、父なる神様とともに、イエス様とともに、傷ついたこの世界を癒やしていくのです。「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。この世界の全てをお造りになるほどに力強いあなたの御霊が、私たちを生かすいのちとなりますように。周りの人を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまう古い生き方は終わりにしたいのです。未だに誘惑に負けてしまう私たちです。自らの罪を恥じ入るばかりの私たちです。しかし、自らの罪に悩む時こそ、自らの罪に絶望する時こそ、その罪を示してくださった聖霊様の助けに感謝し、喜んで悔い改めることができますように。いつも私たちとともにいてくださる聖霊様が、倒れやすい私たちを支え、慰め、励まし、私たちのうちに御霊の実りを豊かに実らせてくださいますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

