第一コリント1:10-17「聖なる公同の教会」(使徒信条⑳|宣愛師)
2025年9月7日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第一』1章10-17節
1:10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。
11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。
14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
17キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

「われは聖なる公同の教会を信ず」
先ほども私たちは使徒信条を告白しました。その中で、「聖なる公同の教会」という言葉が出て来ました。「聖なる」というのは、「神様のものである」という意味です。「公同の」というのは、「時代も場所も超えて一つにつながっている」という意味です。
今日は私が礼拝の司式をしていますが、Mさんが司式をしてくださる際には、牧会祈祷の中でいつもこんな風に祈ってくださいます。「時を同じくして持たれているすべての諸教会の礼拝の上に、あなたの祝福がありますように。」この祈りをともに祈るたびに私は、私たち盛岡みなみ教会もまた「聖なる公同の教会」の一部であることを実感するのです。
聖なる公同の教会、それは、ただ単に人間が作った組織ではなく、イエス様がお建てになった特別な共同体です。マタイの福音書16章18節にはこう書かれています。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
イエス様は、「聖なる公同の教会」をこの世にお建てになることによって、「よみの門」すなわち死の力との戦いに勝利されます。「聖なる公同の教会」の戦いは、この世界を支配する死の力に対する戦いです。私たち盛岡みなみ教会も、主イエスからこの盛岡の地を託されています。
しかしそれにしても、なぜわざわざ「われは教会を信ず」と告白するのでしょうか。「父なる神を信ず」「主イエス・キリストを信ず」「聖霊を信ず」ということなら分かります。しかし、なぜ「教会を信ず」と告白するのでしょうか。それは、教会を信じられない、という現実があるからではないでしょうか。
皆さんはいかがでしょうか。教会を信頼できない、教会につまずいた、失望した、という経験はないでしょうか。教会の中でいざこざが起こる。「普段は綺麗ごとばかり言っているくせに、言っていることとやっていることが違う」と思ってしまう。「教会のあの人に嫌なことをされた」というシンプルな理由もあるでしょう。牧師や役員のやり方につまずく、ということも起こり得るでしょう。
キリスト教会の二千年の歴史を知って、教会を信じられなくなる、ということもあります。キリストの名のもとに戦争が行われ、人種差別が行われ、植民地支配が行われてきた。教会の分裂の歴史もまた、教会を信じられなくなる理由の一つかもしれません。Wikipediaからの引用ですが、キリスト教会の教派の分裂の歴史をまとめた画像があります。

5世紀にはエフェソス公会議やカルケドン公会議で、正統と異端を巡って分裂が起こりました。11世紀には東方教会と西方教会の大分裂もありました。16世紀にはマルティン・ルターによる宗教改革が始まり、結果としてカトリックからプロテスタントが分裂しました。
その後のプロテスタント教会の歴史は、さらなる分裂の歴史だとも言えます。ルター派、改革派、バプテスト派、きよめ派、福音派、聖霊派など、数え切れないほど多くの教派に分かれました。こんな風に分裂ばかり繰り返すキリスト教会を信じられるだろうか。「互いに愛し合いなさい」とイエスは教えたはずなのに、争いばかりじゃないか。
しかしそれでも私たちは、「われは教会を信ず」と告白するのです。イエス様がお建てになった教会だからです。どれだけ罪を犯したとしても、イエス様がお建てになった教会を、私たちが見捨てることはできないからです。どれだけ多くの教派に分かれてしまったとしても、全世界のクリスチャンを結びつける、たった一つの「聖なる公同の教会」が存在することを信じるのです。
「私はキリストに」:正しそうで正しくない態度
コリント人への手紙第一の1章10節から12節をお読みします。
1:10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。
11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」―――「パウロ」というのは、この手紙を書いているパウロのことで、コリントの教会をつくった父親的存在です。「アポロ」というのは、エジプト育ちのユダヤ人クリスチャンで、賢くて説教が上手なことで有名でした。「ケファ」というのはペテロのことで、なんと言ってもイエス様の一番弟子です。
「私はキリストに」と主張する人々もいました。「パウロとかアポロとかペテロとかではなく、私はただキリストにお従いする」というわけです。一見すると、これが一番正しい信仰であるかのように思えます。しかし、「私はキリストに」と主張するこの人々にも問題がありました。
今の時代でも同じです。「私はルター派でもカルヴァン派でもなくキリスト派だ」と主張する人が、正しい信仰を持っているとは限りません。「私はルターにでもカルヴァンにでもなく、聖書に従う」と主張する人が、本当に聖書を正しく読めているとは限りません。むしろ、聖書に詳しくなればなるほど、賢くなればなるほど、「自分こそが正しい信仰者であって、他の人たちは間違っている」と思い上がる。それが実は全く聖書的な態度ではない、ということには気づきにくい。
むしろ本当に聖書的な態度とは、本当にキリストに従う態度とは、どんなに意見が食い違っても、主イエスを愛するゆえに、「聖なる公同の教会」の一致を求め続ける態度ではないでしょうか。「あの人はパウロ派、私はキリスト派」などと線を引いて教会を分裂させるような態度ではなく、「あの人も私も、同じ主に従う兄弟だ」と謙遜に認める態度ではないでしょうか。
十字架によって一致する教会
13節から16節をお読みします。
13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。
14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
以前、友人からこんな話を聞きました。ある宣教師が開拓伝道をし、一つの教会をゼロから建て上げた。その宣教師は別の教会を建てるために引っ越したので、代わりに新しい牧師がやってきた。しかし教会の人々は、自分たちをこれまで導いてくれた宣教師を尊敬するあまり、新しくやってきた牧師と比べてしまって、「ああ、〇〇宣教師は本当に素晴らしい方だったのに」と不満を口にし、やがて教会の中が宣教師派と牧師派に分かれて、対立するようになってしまった。
コリント教会もまた、宣教師であったパウロによって建てられました。しかしパウロは、「私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした」と言うのです。それを「神に感謝しています」と言うのです。パウロの願いは、「私はあのパウロ先生から洗礼を授けてもらったのだ」とか、「パウロ先生は素晴らしかった」と、コリント教会の人々から称賛されることではありませんでした。パウロの願いは、コリント教会の人々が人間的なこだわりを捨てて、人間的な誇りを捨てて、ただキリストによって一致することでした。17節。
17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
「ことばの知恵によらずに」とはどういうことでしょうか。「ことばの知恵」というのはおそらく、当時のギリシャで流行っていた哲学や弁論術のことです。哲学や弁論術はアポロの得意分野だったので、「私は賢くて説教が上手なアポロ先生がいいわ」という人たちもいたわけです。それに比べてパウロは、「手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」みたいな悪口を言われることもありました(第二コリント10:10)。パウロは人前で話すのが苦手だったのかもしれない、もしかすると吃音があったのかもしれない、という学説さえあるのです。しかしパウロは、それでいいのだと言うのです。「ことばの知恵によらずに」福音を宣べ伝えるほうが良いのだと言うのです。
「キリストの十字架が空しくならないようにするためです。」十字架で殺される人間は、最も身分の低い人間だとされていました。キリストはその十字架にかかって、この世で最も貧しく汚れた人間になられた。そして、最も低く貧しく汚れた人間こそが、神の恵みに最も近いのだと示してくださった。賢い哲学を知っているとか、人前で雄弁に話せるとか、そういう人間の能力によって福音が語られてしまったら、キリストの十字架は意味を失ってしまうではないか。私たちの教会をつくってくれたパウロ先生が一番だとか、話が上手なアポロ先生のほうが良いとか、そういう人間的な誇りによって分裂してはいけない。ただキリストの十字架を見なさい。最も低い者となりなさい。最も貧しい者となりなさい。最も汚れた者となりなさい。そこにこそ、「聖なる公同の教会」が現れるのだ。
今日から聖餐式のやり方が変わります。礼拝堂の前に置かれた食卓の周りに集まり、ともにパンを食べ、杯を飲むという形になります。形式が全てではありませんが、形式によってしか表せないものもあると思います。この盛岡みなみ教会にも、色々なクリスチャンが集まっています。洗礼を受けた教団教派もバラバラです。年齢も、職業もバラバラです。考え方や、人生哲学や、好き嫌いにも違いがあるでしょう。しかし、お一人のキリストを見上げ、一つの食卓を囲むのです。
この聖餐式の食卓は、やがて完成する神の国の食卓につながっています。今この食卓にあなたの席があるということは、神の国の食卓にもあなたの席があるということです。やがて完成する神の国において、パウロやアポロやペテロとも一緒に、ルターやカルヴァンやその他のキリスト者たちとも一緒に、食卓を囲むのです。十字架の主を仰ぎ見るこの食卓において、私たち一人一人も「聖なる公同の教会」の一部として結び合わされます。私たちは今日もこの聖なる食卓において、世界中の仲間とともに、時代も場所も超えて、神の国を喜び祝うのです。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。教会の罪や汚れにつまずく時、教会が信じられなくなります。しかし、その汚れや罪さえもすべて背負って十字架にかかってくださったイエス様の十字架を仰ぎ見ることによって、自分自身のうちに湧き上がる怒りや高慢さを振り払って、「われは教会を信ず」と告白することができますように。自分こそが正しいという誇りを打ち捨てて、聖なる公同の教会の一員として、分裂の誘惑に抗うことができますように。私たち盛岡みなみ教会が、正しさを追い求めて孤立するような教会ではなく、主の聖なる食卓のゆえに、全世界の兄弟姉妹との一致に生きる教会として歩むことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

