第二コリント8:1-15「聖徒の交わり」(使徒信条㉑|宣愛師)

2025年9月14日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第二』8章1-15節


8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
2 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。
3 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、
4 聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。
5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。
6 それで私たちは、テトスがこの恵みのわざをあなたがたの間で始めたからには、それを成し遂げるようにと、彼に勧めました。
7 あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。

8 私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。
9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは献金を実行することだけでなく、その志を持つことも、昨年から始めて他に先んじていました。
11 ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。
12 喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。
13 私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。
14 今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。
15 「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。



「聖徒たちを支える奉仕の恵みと交わり」

 教会ではよく「交わり」ということばが使われます。「礼拝後にティータイムの交わりを持ちます」とか、「どこどこで青年たちの交わり会がありました」とか。しかし、「交わり」って一体何なのだろうか、なんだかちょっと怖い言葉だなと思ったことはないでしょうか。また、使徒信条の中では、「われは聖徒の交わりを信ず」とも告白します。ここにも「交わり」ということばが使われています。「聖徒の交わり」とは何でしょうか。「聖徒」というのはクリスチャンのことです。私たち一人ひとりのことです。それは分かります。しかし、「交わり」がよく分かりません。

 ところで、使徒信条というのは元々はラテン語でつくられた信条なのですが、この使徒信条をギリシャ語に翻訳する、ということも伝統的になされてきました。「交わり」をギリシャ語に訳すと、κοινωνία(コイノニア)という言葉になります。新約聖書の中でも、とても大切に使われている言葉です。


【使徒2:42】彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わり〔コイノニア〕を持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

【ヘブル13:16】善を行うことと、分かち合うこと〔コイノニア〕を忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。

【ローマ15:26】それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助〔コイノニア〕をすることにしたからです。

 教会の仲間たちがいつも集まって「交わり」を持つ。困っている人がいれば、食べ物やお金を「分かち合う」。貧しさに苦しむ人々があれば、皆で献金を集めて「援助」する。これらは全て、「コイノニア」です。「コイノニア/交わり」というのは、単に一緒に楽しく過ごすというだけにとどまりません。「コイノニア/交わり」というのは、持ち物を共有し、互いに助け合うことです。

 第二コリント8章にも、この「コイノニア」が登場します。1節から4節をお読みします。


8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
2 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。
3 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、
4 聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと〔聖徒たちを支える奉仕の恵みとコイノニアを〕、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

 4節で「あずかりたい」と訳されている部分が、ギリシャ語では「コイノニア」という言葉です。おそらく日本語訳では、「コイノニア」というギリシャ語の“分かち合う”とか“共有する”というニュアンスを、「あずかりたい」という日本語によって表そうとしたのだと思われます。

 この当時、キリスト教会はユダヤ教徒からの迫害を受けていました。中でも特に厳しい迫害を受けていたのは、ユダヤ教の本拠地であるエルサレムの教会でした。もちろん、エルサレムだけではなく、マケドニア地方、たとえばピリピやテサロニケでも、教会は迫害を受けて「極度の貧しさ」の中にありました。しかしマケドニアの諸教会は、自分たちも迫害の中にあったにもかかわらず、エルサレムの聖徒たちを支えるために「コイノニア」をつくりたい、と懇願したのです。

 マケドニアの諸教会はなぜ、自分たちも苦しいはずなのに、これほどまでの熱意を持つことができたのでしょうか。Paul Barnett という人が次のように説明していました。「迫害による貧困を経験した者たちは、同じ苦しみの中にある人々への共感を強くする。迫害や貧困の痛みを身をもって知っていたマケドニア人たちは、エルサレムで迫害を受けていたユダヤ人信徒たちに、兄弟としての深い共感を覚えたのかもしれない。」マケドニアの諸教会は、自分たちが貧しかったからこそ、自分たちと同じように苦しむ人々を助けたいと思ったのです。もしも私たちがパウロに、「聖徒の交わりとは何ですか」と質問することができたなら、パウロはきっと、この教会の姿を指し示して、「これこそが聖徒の交わりだ」と答えるのではないかと思います。


信じるに値する 「交わり」 を目指して

 「われは聖徒の交わりを信ず」という告白は、「この交わりがあれば生きていけると信じる」という告白でもあるはずです。私たちの人生、何が起こるか分かりません。学校や職場や家庭で孤立して、居場所を失ってしまうということもあるでしょう。何もかもうまく行かず、生活が崩れてしまって、頼れる親戚もいなくて、どうやって生きていけばいいのかわからない、どうやって生活を立て直せばよいのかわからない、ということもあり得るでしょう。しかし、「われは聖徒の交わりを信ず。」私にはこの交わりがある。この交わりがあれば生きていけると、私は信じる。

 そのような「交わり」をつくるために、キリスト教会が大切にし続けてきたものがあります。それは、「献金」と呼ばれるものです。第二コリント8章を読み進めていくと、この「献金」に関する三つの原則が見えてきます。まずは一つ目の原則から見てみましょう。9節をお読みします。


9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 ここに、献金の一つ目の原則、すなわち〈「イエス・キリストの恵み」から始まる〉という原則があります。私たちはなぜ、貧しい人々を助けたいと願うのでしょうか。なぜ、せっかく自分が手に入れたお金や持ち物を、貧しい人々に分けてあげたいと願うのでしょうか。それは、イエス様が私たちのために貧しくなってくださったからです。イエス様が私たちのためにすべてを捨ててくださったからです。だから私たちも、自分たちのすべてを献げて、貧しさに苦しむ仲間たちを助けたい。これが、〈「イエス・キリストの恵み」から始まる〉という、献金の一つ目の原則です。

 続いて、二つ目の原則について見ていきましょう。11節と12節。


11 ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。
12 喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。

 献金の二つ目の原則は、〈「持っているものに応じて」献げられる〉です。コリントの教会は、貧富の格差が大きい教会でした。経済的に裕福な信徒もいれば、自分の生活だけで精一杯の貧しい信徒もいました。そんな人々にプレッシャーをかけないために、パウロは「持っているものに応じて」ということを強調したのかもしれません。私たちも同じです。収入が少なく、献金できる金額が少ないということを、申し訳なく思う必要はありません。「持っているものに応じて」献げるだけで十分です。〈「持っているものに応じて」献げられる〉。これが二つ目の原則です。

 三つ目の原則についても見ていきましょう。13節から15節。


13 私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。
14 今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。
15 「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。

 献金の三つ目の原則、それは、〈“余らせる人”も“足りない人”もいない「平等」〉です。旧約聖書の時代、イスラエルの民がエジプトを脱出して、荒野で旅をしていた時、神様が「マナ」と呼ばれる食べ物を与えてくださいました。お腹を空かせていたイスラエルの人々は、天から降ってきた「マナ」をそれぞれ集めましたが、不思議なことに、「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」。これこそ、神様が望んでおられる「平等」なのだとパウロは語ります。献金に限った話ではないかもしれません。私たちにはそれぞれ、持て余しているものがあるのではないでしょうか。お金はないけれど、体力はある。特技はないけれど、誰かの話を聞くことならできる。そうやって、私たちそれぞれが持っているものを余らせることなく、誰かのために用いる。それもまた、聖書が語る「平等」の姿なのではないでしょうか。

 あるクリスチャンの女性が、こんな風に話しておられたことを思い出します。「いつか私がいなくなって、息子が一人になってしまった時、息子と一緒に生きてくれる教会を探しているんです」―――この切実な願いに応えられる教会でありたいと思います。ともに食卓を囲める仲間がいます。いつでも悩みを相談できる仲間たちがいます。学校や仕事に行けない日があれば、平日だって教会に来れます。牧師や伝道師はもちろんのこと、助けが必要な時にはいつでも駆けつけてくれる仲間たちがここにいます。この「聖徒の交わり」がある限り、私たちは生きていけるのです。

 誰もが安心して人生を預けられるような「聖徒の交わり」をつくる。これはやりがいのあることです。しかし、簡単なことではありません。経済的な限界もあります。体力的な限界もあります。人間関係に衝突が起きて、交わりどころではなくなる、ということもあります。聖餐式の食卓が、パンと杯を分かち合うことが、空虚なものに感じられることもあるでしょう。

 しかし、それでも私たちは、「われは聖徒の交わりを信ず」と告白するのです。それは、「われは聖徒の交わりを信ず」というこの告白が、限界だらけの人間に対する告白ではなく、私たちのためにすべてを献げてくださった恵みの主に対する告白だからです。脆くて壊れやすい人間の組織を信じるのではなく、この交わりをつくり守ってくださる主イエスを信じる告白だからです。貧しい時にも、疲れた時にも、衝突が起こった時にも、イエス様がこの交わりを守り導いてくださると信じるからです。だからこそ私たちは、「われは聖徒の交わりを信ず」と告白し、自らの人生をこの交わりにゆだねることができるのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。生活に困窮する時、孤独に悩む時、あなたがつくってくださった「聖徒の交わり」を通して、私たちを生かしてください。身寄りなく死ぬことはありません。一人ぼっちで生きることもありません。この交わりが私を支えてくれます。そして、私もこの交わりを支えたいと願います。私たちのためにすべてをささげてくださった主の御姿を仰ぎ、私たちもこの聖なる交わりに生き、生かされることができますように。キリストの御名によって祈ります。アーメン。