ヘブル10:19-25「招待」(礼拝式シリーズ②|宣愛師)
2025年11月9日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヘブル人への手紙』10章19-25節
19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
「招きのことば」
“礼拝式次第シリーズ”の第二回ということで、本日の説教のタイトルは「招待」です。他の教会では、「招く詞(ことば)」と書いて「招詞(しょうし)」という表現が使われることが多いと思いますが、盛岡みなみ教会では「招待」です。こちらも良い表現だと思います。神様が私たちを「招待」してくださる。
この世界は、色々な「招きのことば」で溢れています。テレビやYouTubeを観ていれば、「新モデル発売」とか、「◯◯店、リニューアルオープン」というようなCMが流れて来ます。それらの「招きのことば」は、どんな人を招いているのでしょうか。商品のためにお金を払ってくれるお客さんです。もしくは、「新規スタッフ募集中!未経験者大歓迎!」みたいな求人広告も流れてきます。それらの「招きのことば」が招いているのは、お店のために労働力を提供してくれる従業員です。
東京都の生活文化局が、18歳から30代までの若者3,000人を対象にアンケートを行いました。その中に、「自分は他人から必要とされていると思いますか」という質問項目がありました。「0」から「10」までの十段階で答えるのですが、残念ながら「0」と答えた人、つまり「他人から必要とされていると全く思わない」と答えた人が比較的多く、特に、職業を持たない「無職」の人たちの中では、実に32.9%もの人が「0」と答えたそうです。私たちはこの調査結果に驚くでしょうか。驚かないでしょう。「お待ちしております」「ようこそおいでください」という招きのことばをどれだけ耳にしても、実際に招かれているのはお金や能力なのです。「本当はだれも自分のことなんて招いていないんだ」と知って、深い孤独を感じるのは当然ではないでしょうか。
「イエスの血によって」
しかし、そのような世の中にあって私たちは、全く新しい「招きのことば」を耳にするのです。経済力や労働力とは全く関係無しに、私たちを招いておられる方の「招き」です。その方は、あなたに何かを買ってもらおうと思っているのではありません。あなたの経験値や実務能力を求めているのでもありません。その方が求めているのは、あなたが持っているものではなく、あなた自身です。あなたを愛して止まない神、あなたとともにいたいと願っておられる神の招きです。
礼拝の初めに語られる「招きのことば」は、詩篇から選ばれることが多いのですが、それ以外の聖書箇所も選ばれます。今日は子ども祝福式ということで、司式者のMさんがマタイ19章14節を選んでくださいました。〈しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」〉
「子どもたちを来させなさい」というイエス様の招きは、「子どもは大人よりも純粋だから良いよね」という招きではありません。子どもだって大人と同じように罪を犯します。それならどうして、「天の御国はこのような者たちのもの」なのでしょうか。それは、大人に比べて、子どもは持っているものが少ないからです。何も持っていない人をこそ、喜んで招いてくださる神様なのです。
本当に何も持っていなくて良いのでしょうか。神様にお会いするにあたり、何かささげ物とか、貢ぎ物とか、手土産とかは必要ないのでしょうか。大人はすぐにそんなことを考えますが、子どもには手土産なんて発想はありません。本当に私たちは、このままの姿で、手ぶらで神様にお会いして良いのでしょうか。私たちの心の奥底までも見透かし、私たちの汚れた思いや行動を全て知っておられる聖なる神が、罪深い私たちと本当に出会ってくださるでしょうか。
旧約聖書に記されているとおり、神様にお会いするためには、本当はささげ物を用意する必要がありました。牛や羊を持っていくのです。「イスラエルの神は豚肉より牛肉が好き」という冗談がありますが、神様は別にお肉が食べたいわけではありません。神様は、動物のいのちをささげる儀式を通して、私たち人間に“厳粛さ”というものを理解させようとしておられるのです。動物を犠牲にするなんてかわいそうだと思います。しかし、そのような厳粛さがなければきよめられないのが、私たち人間の罪です。いのちの犠牲を伴う厳粛さの中で初めて、私たちは自分の罪から解放されます。そして、そのようにきよめられて初めて、聖なる神にお会いできる。
ヘブル書の10章19節にはこう書かれています。「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」―――イエスの血。この世界で最も尊いお方のいのち。動物の生け贄でさえ、私たちを厳粛な生き方に導くのであれば、ましてや神の子の血は、どれだけ厳粛で聖なる生き方に導くでしょうか。「人が友のためにいのちを捨てるほどに大きな愛はない」そして「あなたの敵を愛しなさい」とまで語られて、そのために本当に十字架にかかってしまわれたイエス様のその生き様を知る時に、私たちは聖なる生き方とは何かを知ります。そして、罪深く汚れた私たちの生き方が変えられていくのです。イエス様のいのちの故に、私たちの罪や汚れはきよめられ、聖なる神に出会うことができるのです。神様にお会いするためのささげ物は、すでに用意されています。あとは、私たちがなすべきことは、招きに答えることだけです。
ともに招かれた仲間たち
神様に招かれた私たちは、毎週日曜日、こうして教会に集まって来ます。別にわざわざ集まらなくても、それぞれの家で、自分の部屋で、一人で聖書を開いて祈れば良いじゃないか、という考え方もあります。しかし聖書は、「集まることを止めてはいけない」と語るのです。24節と25節にはこう書かれています。「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」
「集まりをやめたりせず」とか、「互いに注意を払おう」と聞くと、「誰かが礼拝をサボらないようにチェックし合おう」みたいなことを想像してしまうかもしれません。しかし、「互いに注意を払おう」というのは、「互いの状況をよく理解して助け合おう」というような意味です。日曜日、だれかが教会に来なかった。すると私たちは、真面目なクリスチャンであればあるほど、「どうしてあの人は礼拝を休むのか。私だって忙しい中でがんばって来ているのに」とさばいてしまいがちです。でも、もしそうやってさばいてしまうのだとしたら、私たちは、神様が私たちを一つの場所に招いてくださったことの意味を履き違えているのだと思います。私たちがすべきことは、礼拝を休んだ人をさばくことではなくて、休んだ人の体調や仕事や信仰のために祈ることでしょう。もちろん、皆が一番集まりやすいのは日曜日ですし、イエス様が復活された日ですから、一番大切な日は日曜日だと思います。でも、その日曜日に集まることが難しい仲間がいるのであれば、日曜日以外の日にその人と一緒に集まれるよう配慮しても良いのです。
今日の聖書箇所は次のように閉じられます。「その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」「その日」というのは、イエス様が再びこの世界に来られ、すべての罪と死の力が滅ぼされ、神の国が完成し、皆で祝宴を開く日のことです。苦しみの多い今の世界を一緒に乗り越え、最後に皆で食事会を開くのです。礼拝に招かれるということは、この祝宴に招かれるということです。キリスト教会では昔から、礼拝と食事はセットです。
二千年前の最初の教会でも、礼拝をささげた後、皆で食事をしました。そしてその食事会が終わると今度は、礼拝に参加できなかった仲間たちや貧しい人たちの家を訪ねて、食べ物を配って回ったのだそうです。「礼拝に参加した人と参加しなかった人」を分けてしまうようなことはせず、むしろ礼拝に集まれなかった人たちにこそ神様の祝福が届くようにと、町中を歩き回って食事を分かち合ったのです。これこそ、神様に招かれることの幸いを知っている教会の姿だと思うのです。これこそ、「集まることをやめずに励まし合う」ということだと思うのです。神様に招かれることの恵みを知る時、私たちもまた、隣人を招き、励まし、祝福する人となっていきます。イエス様の聖なるいのちによってきよめられ、聖なる神と出会った私たちは、自分が招かれたのと同じように、人を招く人となっていくのです。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。お金や能力ばかりを求める「招きのことば」に溢れる世の中にあって、「本当はだれも私を招いていない」と、時にどうしようもない孤独を感じる私たちです。どうぞ、あなたからの招きをお聞かせください。「必要なものはわたしがすべて用意したから、あなたはただ、わたしに会いに来なさい」と招いてくださるあなたの御声によって、私たちをこの深い孤独からお救いください。そして、あなたの恵み深い招きに倣って、私たちもまた隣人を招き、愛し、励ます者となることができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

