第二歴代誌5:11-14「賛美」(礼拝式シリーズ③|宣愛師)

2025年11月23日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『歴代誌 第二』5章11-14節


11 祭司たちが聖所から出て来たときのことである。列席したすべての祭司たちは、務めの組分けにかかわらず自らを聖別していた。
12 また、歌い手であるレビ人全員、すなわち、アサフ、ヘマン、エドトン、および彼らの子たちや兄弟たちも、亜麻布を身にまとい、シンバル、琴および竪琴を手にして祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにラッパを吹き鳴らしていた。
13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とに向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。
14 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。の栄光が神の宮に満ちたからである。


“音楽”による教会分裂

 キリスト教会の二千年の歴史を振り返ると、残念ながらそれは、“分裂の歴史”だったとも言えます。聖書理解の違いで分裂した時代もあり、政治的な理由によって引き裂かれた時代もありました。しかし、最も多くの教会に痛みを残してきたのは、実は“音楽”であったかもしれません。

 ある時代には、詩篇を歌うように読み上げるだけか、メロディをつけるかで教会が割れました。別の時代には、オルガンを礼拝に導入するかしないかで争いが起こりました。近年では、ギターやドラムなどの楽器を使うかどうかが対立の火種となることもあります。

 目には見えにくい小さな“分裂”もあります。たとえば、楽器が上手に弾ける人たちはステージに立って「奏楽」と呼ばれる奉仕をし、楽器が上手に弾けない人たちはステージに立っている人たちを羨ましく妬んでいる……というような小さな“分裂”です。人前に立ちたい、目立ちたい、褒められたいという思いが、目に見えにくい“分裂”を生んでしまう。神様をほめたたえるはずの賛美の時間が、いつの間にか人間同士の競争の時間になってしまう。

 なぜ音楽が教会を分裂させてしまうのでしょうか? 理由は三つあります。第一に、音楽は一人ではできないものだからです。「それでは今から、それぞれが好きな曲を好きなように歌いましょう」と言ったら大変ですよね。第二に、音楽は心の奥底に深く届くものだからです。脳科学の分野でも、音楽が脳を活性化させるという研究が進んでいるそうです。そして第三に、音楽は楽しいもので、みんな音楽が好きだからです。好きだからこそ、こだわりが生まれ、譲れなくなるのです。


様々な楽器で、ひとつの心で

 しかし、11節にはこうあります。「列席したすべての祭司たちは、務めの組分けにかかわらず自らを聖別していた。」ここには、“自慢げにステージに立っているあの人たち”と“それを羨ましそうに傍観している人たち”という区別はありません。奉仕の担当がある人もない人も、皆が一つとなって、心から礼拝に備えていたのです。

 さらに12節を見てると、「シンバル」「琴」「竪琴」「ラッパ」など、色々な楽器が使われていたことが分かります。そこには多様性がありました。ある種の複雑さがありました。盛岡みなみ教会では、今はピアノだけを使っていますけれども、神の民の多様性や複雑さを表現し、そして神様の美しさをもっと力強く表現するためには、もっと色々な楽器を使うのも良いかもしれません。

 13節には次のように書かれています。「ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。」楽器は多様でしたが、そこには調和がありました。自分の楽器のスキルをひけらかすような人も、自分の歌声を自慢するような人もいなかったのでしょう。もしかしたら、ちょっと音痴な人もいたかもしれません。それでも、皆が「まるで一人のように一致して」いた。ともに歌う仲間の存在を心から喜んでいた。

 毎週水曜日に行なっている「水曜チャペル」では、YouTubeの音声に合わせて賛美歌を歌っています。本当は皆で一緒に歌いたいところですが、オンラインでは声のタイミングがズレてしまうので、マイクをオフにしてそれぞれで歌っています。お互いの声は聞こえないわけです。ある日、賛美歌の時間にふとZoomの画面を見てみると、賛美歌を歌わずに別のことをしている人が多いことに気づきました。牧師としては、「おっと、ここは一言びしっと言ったほうがいいかな?」なんてことも思いましたが、むしろ大切なことは、オンラインという制約がある中でも、どうすれば声を合わせて一緒に歌えるだろうかと工夫することだと思いました。

 声を合わせることができたとしても、心を合わせることは簡単ではありません。私たちは一人ひとり違う存在ですから、ある人はすごく嬉しい気持ちで賛美するけれど、ある人は沈んだ気持ちで賛美するということもあるでしょう。しかし、それぞれの感情や状況が異なるとしても、ともに心を合わせて歌えるのが賛美であるはずです。なぜなら賛美とは、私たちの変わりやすい感情を歌う曲ではなく、どんなときにも変わらない神様の素晴らしさを歌うものだからです。イスラエルの民は心を一つにして歌います。「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」。

 「賛美歌」とは、当たり前のことですが、神様の美しさを賛美する歌です。賛美歌の歌詞の主語は神様であり、人間が主語になることはありません。しかし、「君は愛されるため生まれた」という曲のように、人間への励ましの言葉を通して、神様の素晴らしさを表すこともできると思います。「あれは単なるクリスチャンソングであって、賛美歌ではない」と言う人もいますが、私は立派な賛美歌だと思っています。少なくとも、賛美歌になりうる曲だと思います。


「立って仕えることができなかった」

 本日の聖書箇所は、とても不思議な光景で終わります。「そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。の栄光が神の宮に満ちたからである。」皆で心を一つにして、精一杯の礼拝をおささげしたとき、神様がその礼拝にお応えになった。奉仕をする人間たちではなく、神ご自身がその礼拝の中心に立たれた。

 「司式」「奏楽」「感謝祈祷」などを担当したことのある方は分かってくださると思いますが、奉仕というのは結構緊張するものなので、「できれば何事もなく終わってほしい」と思うものです。もちろん、神様のために精一杯やろうとは思うわけですが、心のどこかでは「失敗したくない。恥をかきたくない」という思いのほうが強かったりする。でも、本当に大切なことは、私たちの願う通りに奉仕が終えられることではなく、神様のご栄光が自由に現されることです。

 これは奉仕者に限らず、すべての礼拝者にも言えることだと思います。いつものように教会に来て、いつものように賛美を歌って、いつものように家に帰る。それも恵みですが、もっと大切なことは、礼拝の中で予想外の何かが起こるということです。私たちの想定を超えた、神様の自由な栄光が現される。いつものように家に帰ることができなくなるほどに、神様のいつくしみと恵みが心に迫り、平然と立っていることができなくなる。淡々と歌うことができなくなる。

 私たちが賛美歌を通して知るのは神の栄光です。イエス様の十字架によって現された神の栄光です。友のためにいのちを捨てるほどの愛です。私たち罪人のためにいのちを差し出してしまうほどに大きくて深い愛です。この世界の何よりも美しい、この愛を心から賛美するならば、私たちは平気で立っていることはできなくなるのです。今まで通り生きていくことはできなくなるのです。隣人を愛さずにはいられなくなるのです。自分の生き方を悔い改めずにはいられなくなるのです。

 そのような賛美こそ、神様が喜んでくださる賛美だと思います。自分の能力を見せつけるような賛美や、ミスなく滞りなく終わる賛美ではなくて、ただ神様の栄光が現されるための賛美を、これからもご一緒におささげしていきましょう。声を一つに、心を一つにして、ともに歌ってまいりましょう。「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。あなたをほめたたえるはずの賛美によって、自己中心な分裂を繰り返してきた教会の歴史をお赦しください。好き嫌いがあり、個性も違う私たちですが、心を一つにしてほめ歌を歌います。美しい賛美歌の数々を通して、あなたの素晴らしさをさらに深く知り、心を打たれ、悔い改め、新しい人生を歩むことができますように。私たちの賛美の姿勢を、奉仕の姿勢を、新たにしてくださり、自らを誇ることや人を妬むことから解放してくださり、まことの賛美の喜びへと導いてくださいますように。御名によって祈ります。アーメン。