Ⅰコリント12:17-27「弱さがつなぐキリストのからだ」(宣愛師)
2026年1月4日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第一』12章17-27節
17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
「もし、からだ全体が目であったら……」
私たちは知らず知らずのうちに、“理想のクリスチャン像”というものを作り上げてしまうことがあるかもしれません。「信仰深い人とはこういう人だ」という理想像を作り、自分はその理想像に届いているだろうかと落ち込んだり、あの人はどうか、この人は、と比べてしまったりする。
パウロがこの手紙を書き送ったコリントの教会にも、強固な“理想像”がありました。それは、社会的に地位が高く、お金持ちで、人前で喋るのも上手、さらには「異言」という特別な賜物を持っている、そんな人こそが“一流のクリスチャン”だという価値観です。その結果、何が起きたか。この理想に当てはまる(と自分で思っている)人々は、そうではない人々―――貧しい人や、人前で話すのが苦手な人や、派手な才能を持たない人―――に向かって、「クリスチャンなのに、あなたってどうしてそんな感じなの?」「あなたみたいな人はこの教会にふさわしくないんじゃない?」などと、見下すような言葉や態度で突き放すようになったのです。
そんなコリント教会に対して、パウロは次のような問いを投げかけます。17節〈もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか〉―――もし、教会に集まるクリスチャンが皆、“理想的とされる一つの形”になってしまったら、それはもはや「キリストのからだ」ではない。想像してみてください。耳も鼻も手も足もなく、すべてが目の人間!それはもはや人間ではなく、「からだ」ではなく、不気味なモンスターです。多様性が失われた時、「からだ」は「からだ」として機能しなくなるのです。
「弱く見える部分が、かえってなくてはならない」
ただし、パウロがここで語っているのは、「みんな違ってみんないい」という単純な話ではありません。そこからさらに一歩踏み込んでパウロは、「弱く見える部分こそが、実は必要不可欠なのだ」という逆転の論理を語るのです。22節にはこう書かれています。〈それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。〉
この手紙が書かれてから二千年が経った今でも、私たち教会は無意識のうちに“一つの理想的なクリスチャン像”を思い描いてしまっているかもしれません。“計画通りに奉仕をこなせる人”や、“空気を読んで周囲に合わせられる人”、もしくは“気の利いたことを言って場を盛り上げられる人”などを、理想的なクリスチャンとして想像するかもしれない。そして、そうでない人たちにとっては居心地の悪い教会を、気付かぬうちに作り上げてしまっているかもしれません。
もし教会が、“計画通りにプログラムを進めること”を理想とするなら、じっとしていることが苦手な人たちや、衝動的に動く人たちは「困った人たち」に見えてしまうかもしれません。でも、もし教会に“計画通りに動く人”しかいないとしたらどうでしょうか。計画通りでないと許されない。計画したこと以外のことはできない。形式主義、マニュアル主義、冷たく硬直化した教会になってしまうかもしれません。そんな教会を、もっと自由でのびのびとした教会にしてくれるのが、一般的には「ほかより弱く見える」人たちなのかもしれません。
またもし、教会が理想とするクリスチャン像が、“感情表現が豊かで、共感力が強く、チーム活動に積極的に参加する人”だとすれば、場の空気を読むことや、人の感情を読み取ること、みんなと一緒になって盛り上がることが苦手な人たちは、「空気の読めない困った人たちだ」ということになるでしょう。でも、もし教会が“共感と盛り上がり”だけで動く集団になってしまったら、それは非常に危険なことかもしれません。「皆が盛り上がっているから正しい」という危険な流れに歯止めをかけてくれるのは、空気や感情を読むのが苦手な人たちかもしれません。
なぜ、弱く見える部分が「かえって」なくてはならないのでしょうか。それは、完璧で強い人たちは、お互いを必要としないからです。自分一人で何でもでき、欠けのない人たちが集まっても、そこにつながりは生まれません。それぞれが自給自足し、孤立した“個”のままで終わってしまうからです。教会を結びつけるのは、私たちの理想ではなく、むしろ弱さです。パウロは23節でこう語ります。〈また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。〉私だけではできないから、あなたの助けが必要になる。あなたが苦しんでいるから、私はあなたのために祈らずにはいられない。そのように、私たちの弱さという“欠け”こそが、劣ったように見える部分こそが、実は互いを受け入れ合うための“つなぎ目”になるのです。〈ほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない〉というパウロの言葉は、単なる弱者への慰めではありません。「弱さこそが、バラバラな私たちを一つのからだに結びつける唯一の接着剤なのだ」という、神の国の驚くべき逆転の真理なのです。
「すべての部分がともに喜ぶのです」
それゆえパウロは言います。25節から27節。〈それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です〉―――教会が「キリストのからだ」であるために、「すべての部分がともに喜ぶ」ために、私たちはお互いのためにどのような配慮ができるでしょうか。
私が牧師として考え始めている一つのことは、礼拝プログラムの見直しということです。今の盛岡みなみ教会の日曜礼拝は、基本的には椅子に座って一時間近くじっとしている、という形になっています。多くの人にとってはこのような形が一番落ち着くでしょう。ところが、じっと座るのが苦手だったり、人と同じことをするのが苦手という人もいるわけです。そういう人たちにとって、一時間近く椅子に座るというのは、時に大きな苦痛になってしまう。私自身もじっとしているのが苦手なので、子どもの頃から礼拝というのはあまり嬉しい時間ではなかったように思います。
もちろん、神様を第一にするのが礼拝ですから、私たちにとって楽しいからこうする、楽だからこうする、ということではありません。しかし、誰かが辛い時間をじっと我慢していることを、神様が喜んでおられるとも思いません。教会の一部の人だけが喜ぶ礼拝ではなく、「すべての部分がともに喜ぶ」礼拝をささげるために、私たちには何ができるだろうか。「自分は今の形が落ち着くから、今の形のままでいい」ということではなくて、「各部分が互いのために……配慮し合う」こと、「すべての部分がともに喜ぶ」ことを目指すには、どうしたら良いのだろうか。
役員会ではすでに、礼拝プログラムの見直しについて話し合いを始めています。礼拝プログラム以外にも、工夫すべきことがあるかもしれません。これは、牧師や役員会だけの問題ではないと思います。皆さんと一緒に考えていきたい。それぞれに神様からの賜物が与えられているからです。空気が読める人も読めない人も、お喋りが上手な人もそうでない人も、計画通りに進めるのが得意な人もそうでない人も、皆が互いの存在を喜び、配慮し、愛し合う。その時、キリストのからだである教会は、目だけ、耳だけ、足だけの不気味なモンスターではなく、美しい一つのからだとして建て上げられ、イエス様の素晴らしさを輝かせていくのです。お祈りをいたします。
祈り
父なる神さま。私たち一人ひとりを、一つの理想像に当てはまる存在としてではなく、異なる賜物を持つ存在、「なくてはならない存在」として招いてくださったことを感謝いたします。どうか、私たちの弱さや違いを、教会のつなぎ目として用いてください。自分とは違う誰かの痛みを、自分自身の痛みとして受け止め、皆がともに喜ぶ教会を作るために、理想に縛られない柔らかな心を持つことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

