Ⅰコリント1:18-25「神の弱さは人よりも強い」(「弱さ」シリーズ③|宣愛師)
2026年3月1日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第一』1章18-25節
18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
ニーチェのキリスト教批判
19世紀のドイツに、フリードリヒ・ニーチェという哲学者がいました。いま私の手元に一冊、ニーチェが書いた本の日本語訳があります。『キリスト教は邪教です!』(アンチクリスト)というなかなか痛烈なタイトルです。ニーチェはキリスト教を徹底的に批判しまして、「キリスト教はルサンチマンの宗教だ」と言うんですね。ルサンチマンというのは、弱い人間が強い人間に対して抱く「恨み」や「妬み」のことです。
ニーチェはこう考えました。「キリスト教では“敵を赦すこと”を教えている。しかし、彼らは本当は敵を赦そうとしているのではない。彼らは、自分よりも強い人間に反撃する力がないから、仕方なく赦したことにしているだけだ。心の奥底では、『いつか神様があいつらを地獄に落としてくださる』と復讐心に燃えているのだ。キリスト教は、「弱さ」を善とみなし、「強さ」を悪とみなす“奴隷道徳”の上に成り立っている。本当は人間はもっと強くならなければならないのに、キリスト教は人々を堕落させ、弱いままで満足させ、社会を腐らせる諸悪の根源なのだ、と。
私たち盛岡みなみ教会は、「弱さがつなぐキリストのからだ」という年間テーマを掲げて歩みを始めています。「弱さ」とは何かということを、聖書から考える一年にしようとしているのです。そんな私たちにとって、ニーチェからの批判は避けて通れないものだと思います。本当に「弱さ」は善いものなのでしょうか。それとも、本当はやっぱり「強さ」のほうが大切なのでしょうか。私たちクリスチャンは、信仰という隠れ蓑を使って、自分の「弱さ」を正当化しているだけなのでしょうか。本当は、祈ってる暇なんてあったら、礼拝してる暇なんてあったら、もっと強い人間、もっと賢い人間になるために、もっともっと努力をすべきなのでしょうか。
自ら弱さを選び取る強さ
パウロがこの手紙を書いていた二千年前の世界も、「強さ」を褒め称える世界でした。22節にはこうあります。〈ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。〉ユダヤ人が要求した「しるし」とは、相手を圧倒できるような力強く奇跡的なパワーです。ギリシア人が追求した「知恵」とは、相手を論理的に言い負かしてねじ伏せることができるような賢さです。
しかし神様が示されたのは、人間の力や知恵とは異なる、全く新しい力、全く新しい知恵でした。23節と24節。〈しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。〉
もしもイエス様が、成すすべもなくただ殺されただけの人だったなら、十字架につけられたキリストこそが神の力だ、などというパウロの主張は、ニーチェの言う通り「負け惜しみ」でしかありません。しかし聖書が伝えているのは、イエス様には自分を救う力がなかったのではなく、自分を救う力をあえて使わなかったということです。イエス様は、「もしおまえが神の子なら、十字架から降りて来い」と馬鹿にする人々に対して、神の子としての力を振りかざすこともできました。それでもイエス様は、その力をあえて用いずに、「父よ、彼らをお赦しください」と祈った。
パウロはこのイエス様の姿を、「神の力、神の知恵」と呼ぶのです。そして25節では、このようにも語ります。〈神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。〉「神の愚かさ」「神の弱さ」とは、自らの力を手放すことです。どれだけ愚かに見えたとしても、自らの力を用いない決断のことです。イエス・キリストは、本当の「強さ」を持っていたからこそ、自分の強さを手放す「弱さ」を選ぶことができました。私たちはどうでしょうか。隣人を愛するために、自ら愚かさを選び取る賢さ、自ら弱さを選び取る強さがあるでしょうか。
キング牧師の強さの秘密
マーティン・ルーサー・キング牧師もまた、この「神の弱さ」を知っていた人でした。黒人差別が絶えないアメリカ合衆国において、彼が選んだのは非暴力的な抵抗運動でした。当時、武器を取って白人と戦おうとする黒人たちは少なくありませんでした。しかしキング牧師は、暴力を用いないのです。暴力は絶対に用いない。けれども、「いつか神様が白人たちを地獄に落としてくださる」というルサンチマンに陥ってしまうこともなく、諦めずに差別と闘い続けたのです。
なぜキング牧師は、“暴力を使って相手をねじ伏せる”という道にも進まず、“すべてを諦めて心の中で相手を恨む”という道にも進まず、第三の道を選び取ることができたのでしょうか。彼は「汝の敵を愛せよ」という説教の中で、敵を愛する第一歩は、白人も黒人も同じように罪人だと認めることだと語っています。「私たちの最悪の者の中にもいくらかの善があり、私たちの最善の者の中にもいくらかの悪がある。このことがわかると、敵を憎む気持ちは少なくなる。」
キング牧師は、「自分たち黒人は100%正しい被害者だ」とは考えませんでした。むしろ彼は、「キリストの十字架はこの私の罪のためだ」ということを自覚していました。実際に彼は、人前に出るときの力強さとは裏腹に、異性関係などの多くの罪を抱えていました。それらの罪が示していることは、キング牧師にとって「十字架につけられたキリスト」とは、彼自身の罪を思い知らせる十字架だったということです。そして、白人も黒人も関係なく罪人であるということを知っていたからこそ、彼は非暴力的な抵抗運動という険しい道を歩み続けることができたのです。
私たち一人ひとりも「弱さ」を持っているはずです。もしかするとその「弱さ」は、ニーチェに批判されてしまうような「弱さ」かもしれません。自分よりも立派な人を妬み、自分に敵対する人を恨み、表向きには赦しているようでも、心の中では「地獄に落ちろ」と祈るようなルサンチマンがあるかもしれません。どうすれば私たちは、そのような恨みや妬みから解放され、もっと強い人間になれるのでしょうか。もっと努力をして、自分の欠点を克服すれば良いのでしょうか。いやおそらく、努力によって今よりも立派な人間になれたとしても、今度は別の方向からルサンチマンが生じるだけで、人間同士のマウント合戦からは逃れられないでしょう。
私たちがこのルサンチマンから解放されるための第一歩は、自分にはルサンチマンがあるということを認めることだと思います。人を恨んでしまう、妬んでしまう、赦せない。その罪を認めることです。すると不思議なことに、人を赦せないという罪を認めることによって、人を赦せるようになっていくのです。自分が罪人だということが認められると、他の人の罪に優しくなれるのです。ルサンチマンから解き放たれるために必要なことは、今よりも立派な人間になろうとする努力ではなく、自分の罪を素直に認めることなのです。
アメリカとイスラエルがイランを攻撃しました。今こそ私たちは、人の知恵よりも賢い「神の愚かさ」を思い起こさなければなりません。アメリカが掲げる「力による平和」は、一時的な平和なら作り出せるかもません。しかし、アフガニスタンやイラクでの戦争がそうだったように、「力による平和」はさらなる復讐の連鎖を生み出すだけではないでしょうか。力で相手をねじ伏せても、本当の解決には至らない。もしかすれば今回の軍事作戦も、アメリカやイスラエルの賢い人たちが知恵を絞って導き出した答えだったのかもしれません。「こうすれば平和が訪れる」と、精一杯考えた結果なのかもしれません。しかし、人間の知恵がどれほど賢そうに見えても、「神の知恵」によらなければ、真の平和は訪れません。「神の愚かさ」だけが、真の平和をもたらします。〈神の弱さは人よりも強い〉―――まずは私たち教会がこのみことばを受け取り、自らの正しさを手放し、隣人との間に平和を作り出す者として歩み始めたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
天の父なる神様。十字架によって示された「神の弱さ」の強さを知りました。「自分の正しさ」を手放すことができるよう、私たちに神の力をお与えください。盛岡みなみ教会を、人間の知恵ではなく、神の愚かさによってつなぎ合わせてくださり、力による支配が続くこの世界において、十字架の平和の器として用いてください。主イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

