ヤコブ1:19-25「応答」(礼拝式シリーズ⑨|宣愛師)

2026年3月8日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヤコブの手紙』1章19-25節


19 私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
20 人の怒りは神の義を実現しないのです。
21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

22 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
24 眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。


「聞くのに早く、語るのに遅く

 その昔、ゼノンというギリシャの哲学者が、おしゃべりな若者に対して、こんな戒めを語ったそうです。「我々が二つの耳を持ち、口を一つしか持たないのは、より多く聞き、より少なく語るためである。」使徒ヤコブも、〈聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい〉と語りました。自分が語りたいことを語るよりもまず、聞くことを大切にしなさい、と。

 皆さんは、私とまなか先生のどちらのほうがよく喋ると思いますか? こう言うとよく驚かれるのですが、家で過ごしている時は実は、まなか先生のほうが私の三倍くらい喋るんですね。かくいう私は、私の三倍喋る妻の話を、聞いているようで聞いていないということが結構ある。

 特に私が妻の話を聞き流してしまう時は、何かの文章を書いている時です。誰かに送るメールやLINEの文章を書いている時は、大きな声で話しかけられても全く聞こえない。スマホから目を離して、文章を考えることを止めなければ、私の耳には妻の話が入ってこないわけです。私はちょっと極端かもしれませんが、おそらく脳の構造からして、語る言葉を考えている時は、話を聞くことができなくなる。話を聞くためには、まずは自分が語ることを止めなければならない。

 家では妻の話を聞かない私ですが、牧師としての仕事は、人の話を聞くことです。「牧師って平日は何してるんですか?」と聞かれることが多いのですが、私がよく答えるのは、「車の運転です」ということです。車で誰かの送り迎えをしながら、色々なお話を聞かせていただくわけです。

 また、「平日は日曜日の説教のために聖書の勉強をしています」とも答えます。30分の説教を準備するために、聖書の勉強を10時間以上します。牧師はお喋りな仕事だと思われるかもしれませんが、何かを語る前に、まずは聞くのです。神様は何を語っておられるのだろうかと祈りながら、聖書のみことばに耳を傾ける。そうして初めて、牧師も語り始めることができるのです。


「人の怒りは神の義を実現しない」

 〈聞くのに早く、語るのに遅く〉と語ったヤコブは、〈怒るのに遅く〉とも語り、〈人の怒りは神の義を実現しない〉とも語ります。「神の義」というのは、この世界を正しい世界に造り変えてくださる神の正義、神の真実、神の誠実さ、ということです。怒りに任せて振る舞っても、神の義は実現しない。暴力で解決しようとしても、憎しみの連鎖を生むだけで、平和は実現しない。

 「怒り」と言っても色々な怒りがあるわけですが、ここでヤコブが特に意図しているのは、真面目なクリスチャンたちこそが陥りやすい「怒り」だと思います。この手紙が書かれた時代、クリスチャンたちは世界中の町々に散らばり、様々な迫害を受けていました。そのような中で、クリスチャンたちの中にはやっぱり「怒り」が湧いてくるわけです。しかも、自分たちを迫害してくるのは、同じ神様を信じているはずのユダヤ人たちです。「同じ神のことばを聞いているはずなのに、どうしてこんなにひどいことをするんだ」という怒りが湧いてくるわけです。そして、中には、そのような怒りを暴力という形で実行しようとするクリスチャンも現れるわけです。

 真面目で熱心なクリスチャンほど、実は「怒り」を抱えているということがあるものです。「あの人たちも、同じ神様を信じているはずなのに、どうして?」という怒りが湧いてくる。「どうしてあの人たちは、聖書を学んでいるはずなのに、あんな生き方しかできないんだろう」という怒りです。そこには、「自分はみことばをちゃんと聞いているのに」という自負心があるわけです。

 ところが、「自分はみことばをちゃんと聞いているのに」という怒りが湧いている時、私たちは実は、聞いているようで聞いていないのです。みことばを「聞く」ということは、なによりもまず自分へのことばとして「聞く」ということです。それなのに、聖書を読んでいる時に、自分ではない誰かのことばかり考えている。「聖書にはこう書いてあるのに、どうしてあの人はあんな生き方しかできないんだろう」と、人をさばきながら聖書を読む。説教を聞いている時にも、「おお、この説教はまさにあの人のことだ。これを聞けばあの人も悔い改めるに違いない」と思って、礼拝堂の中でちらっとその人のほうを見てみたりする。私たちは意外と、みことばを聞いているつもりで、実は自分へのことばではなく、他の誰かへのことばとして聞いてしまっている。聞くのではなく、聞かせようとしている。


「みことばを素直に受け入れなさい」

 25節には、〈自由をもたらす完全な律法〉ということばが出てきます。「律法」と聞くと、人間を不自由にするルールという印象を持つかもしれませんが、〈自由をもたらす完全な律法〉です。それは、2章の8節に書かれているように、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という「最高の律法」のことです。大切なのは、この〈完全な律法〉を、〈一心に見つめて、それから離れない〉ことです。説教を聞きながら、他の人の顔をちらちらと見るのではなく、他でもない自分自身へ語りかけられている神のことばとして、目をそむけることなく、一心に見つめるのです。

 ほとんどの教会では、説教を聞いた後に賛美歌を歌います。「応答の賛美歌」と呼ばれたりもします。〈ただ聞くだけの者〉とならないためです。今ここで耳にした神のことばを、自分への語りかけとして受け止めた私たちは、自分自身の口で神様への応答の賛美歌を歌うのです。「このみことばは、他の誰でもない、この私に向けられたみことばでした」という応答こそ、神様が喜んでくださる応答です。そのような謙遜な心を持って、神様に向かって応答の歌を歌うのです。

 もちろん、賛美歌を歌うことだけが「応答」ではありません。聞いたみことばを、日々の生活の中で実践することによって、〈すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人に〉なるのです。「行う」と聞くと、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」と焦ってしまうかもしれません。しかし、「みことばを行う」ということは、何かやることを増やして満足するというよりも、むしろ何かを手放すということなのかもしれません。

 21節には、〈すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい〉と書かれています。自分の胸に手を当てて、汚れや悪を探してみる。「怒り」の原因を探してみる。「なぜ私はこんなにも怒っているのだろうか。隣人に対して、神様に対して、不満ばかりを抱えているのだろうか。みことばを素直に聞くことよりも、偉くなりたい、人から褒められたいという私自身のことばが、私をがんじがらめにしていないだろうか。」

 私たちの応答は、そのような素直な悔い改めから始まるのです。やみくもに何かを行うということよりもまず、みことばを行うことを妨げている自分の罪を取り除いていただく。そうすれば、「心に植えつけられたみことば」が、私たちの心の中で成長していきます。人をさばく心が少しずつ解きほぐされ、人を愛せるようになっていきます。私たちの力ではなく、神様のみことばの力にゆだねましょう。みことばを素直に受け止めるとき、隣人をさばく不自由さではなく、愛する自由に招き入れられるのです。意固地になることなく、天邪鬼になることなく、私たちのたましいを救うみことばに信頼して、素直な応答をおささげしてまいりましょう。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。みことばを熱心に聞いているようで、実際には隣人をさばくための材料を探してしまうような私たちの隠れた罪をお赦しください。みことばを誰かに聞かせるよりも、まず自分自身が聞くことができますように。私たちのうちに、愛ではなく怒りを引き起こしてしまうような、自己満足の行いがあるのでしたら、その汚れや悪を取り除いてください。あなたが私たちの心に植えてくださったみことばの種を、あなたの力によって成長させ、実らせ、私たちのたましいを救いの喜びで満たしてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。